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動き始めた「蒲蒲線」 2つの蒲田から羽田空港直通線を全踏破
2025年9月5日 09:53
東京都大田区に所在するJR・東急電鉄(東急)の蒲田駅との京浜急行電鉄(京急)の京急蒲田駅は、約800m離れています。両駅間は鉄道でつながっておらず、そのためJR・東急の蒲田駅から直に鉄道で東京国際空港(羽田空港)へアクセスできません。
蒲田駅と京急蒲田駅を鉄道で結び、そうした不便な状況を解消することは以前より検討されていました。「蒲蒲線」と呼ばれる路線の計画は、蒲田駅-京急蒲田駅間の移動をスムーズにするだけではなく、東京23区西側から羽田空港へのアクセス改善につながるとしています。
蒲蒲線は大田区をはじめとする自治体や鉄道事業者などからも実現が望まれていた路線ですが、実現への動きはなかなか見られませんでした。
2025年4月に国土交通省がGOサインを出し、再び計画は動き始めました。まだ実現には歳月を要しますが、蒲蒲線となるJR・東急の蒲田駅から京急蒲田駅を経て、京急空港線の羽田空港第1・第2ターミナル駅までの約7.3kmを全踏破してみました。
蒲蒲線が必要された理由となかなか前進しなかった理由
2020年に感染拡大した新型コロナウイルスは、それまで多くのインバウンドを生み出していた訪日外国人観光客を急減させました。
訪日外国人観光客は東京・京都・大阪をはじめとする大都市や富士山などの有名観光地に集中するため、局地的な負荷がかかる状態はオーバーツーリズムの批判も噴出しました。
他方、外国人観光客の消費は日本経済を好転させるため、飲食業・宿泊業・交通事業をはじめとする観光と関連の深い産業はコロナ禍で業績を悪化させました。
コロナ禍から5年以上が経過し、訪日外国人観光客はV字回復どころか、以前を上回っています。
そうしたインバウンドを追い風にして、にぎわいを見せるのが東京における空の玄関とも称される東京国際空港(羽田空港)です。羽田空港は東京駅などから頻繁にシャトルバスが発着しているほか、山手線・京浜東北線の停車駅でもある浜松町駅からは東京モノレール、品川駅・横浜駅からも京急が空港へアクセスする列車を運行するなど、アクセスは充実しています。
そんな羽田空港ですが、東京西部からのアクセスに難があるとして東京都をはじめ神奈川県からも改善を求める声がたびたび出ていました。羽田へのアクセス改善の要望が繰り返されるのは、羽田に近い大田区の蒲田の鉄道網に理由があると考えられます。
蒲田駅はJR線と東急線が乗り入れる東京・南部の主要駅です。他方、蒲田駅の約800m東側には京急が京急蒲田駅を構えています。両駅間は離れているうえに鉄道で結ばれていないため、JRや東急の乗客が羽田空港へと足を運ぶには蒲田駅からバスに乗り換えるのが一般的です。
バスへの乗り換えによって手間が生じることやバスの輸送力が小さいために起きる不便を解消するため、これまで政府や東京都、地元・大田区、東急などが蒲田駅と京急蒲田駅とを結ぶ鉄道路線を構想してきました。
同路線は蒲田駅と京急蒲田駅を結ぶことから蒲蒲線と呼ばれています。しかし、その計画は遅々として進みませんでした。その理由はいくつかありますが、最大の理由はJR・東急と京急の軌間が異なることです。
軌間とは線路幅のことです。列車が走る線路は2本のレールで構成されていますが、JRと東急は軌間が1,067mm。対して、京急は1,435mmです。
異なる軌間のため、JR・東急と京急の列車が同じ線路を走ることはできません。つまり、蒲田駅と京急蒲田駅を結ぶことが実現しても、蒲田駅方面から移動してきた人たちが羽田空港へ向かうためには乗り換えは残ります。
現在、蒲田駅からは羽田空港へのシャトルバスが運行されているので、蒲蒲線を整備しても乗り換えが生じるなら、わざわざ費用を投じて鉄道路線を整備しなくてもバスで代替できるという考え方もあります。そうした事情も一因になって、機運は盛り上がりに欠けていたのです。
地元・大田区は蒲蒲線の実現性を1987年から調査しています。2020年に大田区と東急は資金を出資して第3セクターの羽田エアポートラインを設立。同社は蒲蒲線の整備をする会社で、同社設立から3年後の2025年4月、国交省から認可されました。
認可を受け、羽田エアポートラインは8月1日に整備計画を提出。約40年以上の歳月を隔てて、ようやく動き出したのです。
動き出したばかりのプロジェクトですが、順調に工事が進めば2038年から42年までに開業するとの予測が立てられています。
開業は10年以上先で、社会環境が大きく変化する可能性も否定できません。それでも道筋がつきました。そこで未来の蒲蒲線を見るべく、JR・東急の蒲田駅から京急蒲田駅を経て京急空港線の沿線を全踏破してみます。
東急多摩川線は目蒲線分離以降、曖昧な立ち位置に
JRと東急が接続している蒲田駅は東京都大田区に所在します。蒲田は東京都と神奈川県の境にある街です。もともと大田区は大森区と蒲田区が1947年に合併し、大森の「大」と蒲田区の「田」の一字ずつを取って大田区になりました。
現在、大田区の人口は約75万6,000人です。これは東京23区で世田谷区・練馬区に次ぐ人口規模で、福井県の約74万6,000人をわずかに上回っています。それほど人口が多い大田区は蒲田駅前に区役所を設置しています。つまり、蒲田は大田区の中心地ともいえる街なのです。
蒲蒲線は多摩川駅-蒲田駅間を結んでいる東急多摩川線とも乗り入れて、一体化して運行されることを想定しています。
東急多摩川線は、1923年に目黒駅と蒲田駅を結ぶ目黒蒲田電鉄として開業した路線です。目黒蒲田電鉄は高級住宅街として知られる田園調布の開発を後押しするために設立・開業しています。
目黒蒲田電鉄は、その後に東急目蒲線となります。そして、多摩川駅-蒲田駅間が多摩川線、多摩川駅-目黒駅間が目黒線へと分離しました。多摩川線という路線は西武鉄道にもあり、そのため2つを区別する意味から、東急多摩川線・西武多摩川線と社名を頭に冠しています。
本稿では西武多摩川線については記述せず、あくまでも東急多摩川線だけが登場するので、東急は省略します。
目蒲線が目黒線・多摩川線に分離したことにより、目黒線はJR山手線の目黒駅への通勤・通学に特化した路線へと色合いを変えています。
他方、多摩川駅-蒲田駅を結ぶ多摩川線は、都心部へと向かう路線ではないため動線が曖昧な位置付けに感じます。そうした中途半端な位置づけを脱するためにも羽田空港へのアクセス路線を担わせたいという意図も感じます。蒲蒲線とつながることで、多摩川線のイメージが刷新されることは間違いありません。整備主体となっている羽田エアポートに東急が参加しているのは、そうした自社路線の価値向上といった思惑が含まれていることは間違いなさそうです。
蒲蒲線に乗り入れる多摩川線は、蒲田駅の一駅西側にある矢口渡駅を過ぎたあたりから地下へと潜り、蒲田駅と京急蒲田駅の地下に駅を開設する予定にしています。京急蒲田駅の地下に予定されている地下駅は蒲田新駅という仮称がつけられ、京急蒲田駅とは別の駅という位置づけです。
第一期工事では蒲田駅から蒲田新駅を結びます。ここから羽田空港へと向かうには京急空港線への乗り換えが生じるので、第2期工事ではその手間をなくすために東急線の1,067mm軌間と京急の1,435mm軌間の両方を走ることができるフリーゲージトレインを開発し、京急空港線の大鳥居駅付近から空港線へと乗り入れることを計画しています。
蒲田駅開設の歴史
蒲蒲線全線と乗り入れ先の京急空港線(空港線)を歩くべく蒲田駅へと行ってみます。蒲田駅は蒲蒲線の起点となる駅ですが、そこからスタートする前に矢口渡駅方面へ足を向けて見ましょう。
開業に伴って地下化される同区間は、現在は地上線となっています。多摩川線は蒲田駅に近づくにつれて五反田駅方面から走ってきた池上線と合流し、西蒲田公園の踏切から勾配を登っていきます。こうして多摩川線と池上線の電車は蒲田駅の2階に吸い込まれるように入線します。
同踏切付近から蒲田駅の線路は高架化されていますが、ガード下には蒲田名物ともいえる1,000円程度で手軽に気持ちよく酔える店、いわゆる「せんべろ」の店が並び、それらの多くは午前中から開店しています。羽田空港の近くに位置していることから、近年の蒲田駅周辺は大きく様変わりしてきました。それでも昔ながらの蒲田を感じられる街並みを見ることができます。
大きなロータリーのある西口から大田区役所のある東口へと移動します。現在、東口の駅前広場は地下駐車場を整備するための大規模工事を実施中ですが、東口にもバスロータリーがあり、そこから羽田空港へ向かうシャトルバスが頻繁に発着しています。
バスロータリーを抜けてバス通りを東へと歩いていくと、呑川が現れます。呑川という河川名はせんべろ街・蒲田らしく感じますが、その由来はせんべろとは無関係です。
呑川には「菖蒲橋(あやめ橋)」という橋が架かり、「あやめ橋」というバス停もあります。何の変哲もない橋なので見過ごしてしまいますが、橋名の由来になったあやめは蒲田が繁華街として発展するのに深く関わっています。
幕末、横浜は開港場となって多くの外国人でにぎわいました。外国から輸入される舶来品や文化は日本の生活を大きく変えていきますが、そのひとつに植物もありました。
大きな戦が起きなかった江戸時代は平和な社会でした。大名たちは屋敷地に庭園をつくります。それら庭園づくりは大名の暇つぶしでしたが、各大名が作庭に勤しむと、ほかの大名に負けたくないという競争心が芽生えて、園芸分野で品種改良や新しい草木を求める動きが活発化していきます。
大名が庭園づくりを競ったことで、庶民にも園芸ブームが伝播しました。しかし、庶民は広大な庭を持つことができません。そのため、庶⺠は路地に鉢植えを置いて草木や花を愛でました。
庶民の間で園芸熱が高まると、広大な敷地を有料開放する植物園が誕生します。東京・墨田区に所在する向島百花園はもともと武家屋敷だった地を商人・町人たちが整備して植物鑑賞の地として公開したのが始まりです。
さらに鎖国が解かれた幕末期には、海外から珍しい植物が多く持ち込まれるようになりました。そこで開港場だった横浜に植物専門商社の横浜植木が誕生するのです。横浜植木は植物を販売するだけではなく、園芸の流行を発信するべく植物園を開設することを考案。当時、江戸を中心にブームを起こしていたあやめを栽培・鑑賞するスポットとして横浜・磯子に菖蒲園をオープンさせます。
磯子菖蒲園はたちまち人気になりますが、敷地が狭いことが難点でした。そこで横浜植木は菖蒲園を蒲田へと拡張移転します。こうして現在の菖蒲橋のあたりに蒲田菖蒲園がオープンするのです。当時、蒲田駅は開設されていません。そのため、多くの見物客は大森駅から徒歩で蒲田菖蒲園を訪れていました。
そうした活況もあり、地元から来園者の便を図るべく蒲田駅を開設したいという要望が出されます。官営鉄道を管理・運行していた鉄道院は、その要望を受け入れる形で1904年に蒲田駅を開設。蒲田駅が開設されたことを機に、東京の南端に位置していた蒲田は都市化の一歩を踏み出していきます。
ところが、駅が開設されたことで都市化し、それが蒲田菖蒲園を閉園に追い込む理由にもなってしまいます。都市化したことで蒲田の街は静穏を保てなくなり、皮肉にも蒲田菖蒲園は静かに花を鑑賞できなくなってしまったのです。
現在、蒲田駅の立役者ともいえる蒲田菖蒲園の足跡をたどることは難しく、菖蒲橋や付近のバス停・信号などに名前が残るのみとなっています。
高架化で渋滞解消も「エアポート快特」で一悶着
歴史に消えた菖蒲園に思いを馳せながら呑川を渡り、その先にある商店街を通り抜けると京急蒲田駅が現れます。JRと東急が同居する蒲田駅とは異なり、こちらは京急だけが使用している駅です。
京急蒲田駅は京急本線と空港線との結節点になっています。そのため、現在は快特や特急など多くの列車が停車します。しかし、羽田空港と品川駅を短時間で結ぶエアポート快特は停車しません。エアポート快特は京急がターミナルにしている品川駅から都営地下鉄浅草線と京成線を経て成田国際空港まで走る列車です。
日本を代表する国際空港の成田と羽田を結ぶ列車ですから、その利用者は年々増加する傾向にあります。そんな重要な列車であるエアポート快特が京急蒲田駅に停車しないのです。
京急蒲田駅の東側には、京急本線に並行して国道15号線が走っています。現在、空港線は国道15号線を高架線で跨いでいますが、この高架線が完成したのは2012年です。それまで京急空港線を走る電車は国道15号線と地上で交差し、そこには踏切が設けられていました。
交通量の多い国道15号線は、空港線の電車が通過するたびに踏切が遮断され、それが頻繁だったために国道15号線は渋滞を起こしていました。その渋滞は京急蒲田駅のみならず東京都・神奈川県の道路事情にも影響を及ぼします。
そうした問題を解消するため、東京都・大田区・京急が協力して立体交差化に取り組んだのです。同踏切は正月の風物詩となっている箱根駅伝の名所にもなっていて、ランナーが踏切に行く手を阻まれるという珍事も起きていました。高架化によって、そうした光景は過去のものになっています。
空港線は、まず上り線の高架化が完成。その際に大田区との間で一悶着が起きています。というのも、空港線の高架化に大田区は約200億円の費用を負担しています。その高架化工事が完成したことでエアポート快特を運行することが可能になったわけです。
エアポート快特が大田区を素通りするなら、大田区は何のために巨額の費用を負担したのかわからなくなります。区税を投入した手前、区民が高架化によって利便性が向上したと実感してもらわなければなりません。
エアポート快特の通過は、暗に京急蒲田駅は重要な駅ではないというメッセージを発していたことになり、それが大田区や区民に不満を抱かせることになったのです。大田区の松原忠義区長(当時)は「これでは何のために工事費を負担したのかわからない」と記者会見で怒りを露わにし、大田区は通過反対対策協議会を組織して反対運動を展開しました。
一方、同じく費用負担をした東京都の石原慎太郎都知事(当時)は「エアポート快特は京急蒲田駅に停車しないが、多くの快特が停車するのだから問題ない」との所見を発表して、東京都と大田区が対立しています。
この騒動は下り線の高架化が完成した後のダイヤ改正によって、京急蒲田駅に停車する快特が増発されたことで収束に向かいました。大田区側が納得しているかどうかは不明ですが、蒲蒲線が実現すると京急蒲田駅の重要性がさらに高まります。そうなると、京急のエアポート快特の停車問題が再燃するかもしれません。
蒲蒲線は戦後一時的に存在していた
立体交差化によって渋滞が消えた国道15号線を渡り、高架線の空港線に沿って歩いていきます。線路沿いは閑静な住宅街といった雰囲気です。その住宅街の中を歩いていくと、糀谷駅が見えてきます。糀谷駅は南側に駅前広場が広がり、バスロータリーも整備されています。駅南側には環状8号線が東西に走っていますが、駅前は繁華街といった雰囲気がありません。
そのまま高架線に沿って次の大鳥居駅を目指します。糀谷駅を過ぎると側道がなくなるので、空港線を横目で見ながら環状8号線を歩きます。途中、線路は高架から地上へ、そして地下へと潜り、電車の姿を確認できなくなったところで大鳥居駅に到着。
大鳥居駅の交差点付近から、少しずつ宿泊施設が目立つようになります。ここから羽田空港まではまだ距離はありますが、羽田空港利用者が前日に宿泊もしくは夜に空港へと到着した人がそのまま宿泊といった需要が多いことが街並みからも伝わってきます。
大鳥居駅は当地に鎮座する穴守稲荷神社の大鳥居があったことに由来する駅名です。現在、大鳥居は移転してしまって当地には現存していません。駅名は開業時のままですが、鳥居がなくなり、駅は地下化されるなど、大鳥居駅を取り巻く環境は大きく変化しました。
地下に潜った空港線は環状8号線の真下を走らず、少し南にズレた場所を走ります。線路の真上に道路はありません。側道も整備されていないので、線路沿いを歩くことはできません。そのため、引き続き環状8号線を東進します。
猛暑の中、一心不乱に環状8号線を歩いていると、頭上に首都高が見えてきました。その先には、ヤマトグループが2013年に整備した「羽田クロノゲート」があります。
羽田クロノゲートはクロネコヤマトの宅急便でお馴染みのヤマト運輸の物流機能を担う複合施設です。敷地内にはヤマト運輸が障害者の雇用促進のために立ち上げた「スワンベーカリー」というカフェがあるほか、環境に配慮した広大な緑地帯が広がっています。
同緑地帯は近隣住民や在勤・在学者が公園のように利用する憩いの場になっていますが、そのほか敷地内には保育所も整備されています。
羽田クロノゲートから少し戻った南側に穴守稲荷駅があります。同駅はネーミングライツを導入して副駅名称を販売しており、先ほどの「ヤマトグループ 羽田クロノゲート前」を副駅名称にしています。
大鳥居駅から穴守稲荷駅までは約700mしかありません。その短い区間で、線路は地上へと姿を現して穴守稲荷駅へと到着するのです。穴守稲荷駅は地上駅ですが、羽田空港方面への線路は再び地下に潜ります。
穴守稲荷駅はその名前の通り、穴守稲荷神社の最寄駅です。駅から数分歩くと神社の参道があり、鳥居をくぐると境内です。
空港線の前身である京浜電鉄羽田支線は、1902年に蒲田駅-穴守駅間を開業しています。穴守駅は現在の穴守稲荷駅に相当します。
穴守稲荷神社は江戸時代から参詣者を多く集める神社でしたが、明治期になると付近から鉱泉が湧出。さらに海に近いことから海水浴場も整備されました。こうして、同地はリゾート地として発展していきます。
これに着目した京浜電鉄が、行楽客の需要を当て込んで穴守線を開業させたのです。鉄道が開業したことによりアクセスが向上し、ますます同地一帯はにぎわいます。そして、旅館や飲食店が多く立ち並ぶようになり、リゾート地としても発展していきました。
こうした状況を受け、京浜電鉄は穴守線を延伸。この延伸によって、線路は海老取川を渡りました。
現在、穴守稲荷神社の社殿や境内地は穴守稲荷駅から徒歩数分の位置にあり、すべて海老取川の西側にあります。しかし、終戦までは海老取川の東側にありました。東側に鎮座していた穴守稲荷神社が西側の現在地へと移転してきた理由は、戦後に進駐してきた連合国軍が関係しています。
終戦後、日本へ進駐してきた連合国軍は東京から至近にある羽田空港を独占的に使用することを目的に接収したのです。その接収は唐突に実施され、連合国軍は海老川東岸に居住していた住民たちに対して、72時間以内に退去するように命じました。
長らく住んでいた家を手放して、別の場所へ移れという命令はあまりにも乱暴です。しかし、いくら無茶苦茶な命令とはいえ、敗戦国の日本が連合国軍に逆らえるわけがなく、海老取川東岸の住民たちは着の身着のまま家を追われました。
こうした経緯によって、地域の守り神でもあった穴守稲荷神社も海老川東岸から西岸へと移転することになったのです。
さらに連合国軍は東京駅から乗り換えなしで羽田空港まで列車で移動できるようにするべく、複線だった空港線の上り線を接収します。そして、その上り線は1,435mmから1,067mmへと改軌し、京急蒲田駅までだった線路を蒲田駅まで延伸して国鉄の線路とドッキングさせたのです。これにより、東京駅から乗り換えなしで羽田空港まで列車で移動できるようになりました。
奇しくも連合国軍は戦勝国という立場を最大限に利用して、自分たちだけが利用できる“蒲蒲線”を過去に実現していたのです。
連合国軍が羽田空港をはじめ鉄道路線を強制的かつ自分たちの思い描いたようにいじることができたのは、ひとえに戦勝国だったからですが、いくら戦勝国でも鉄道という大きなインフラを自由自在に建設できません。それが可能だったのは、終戦直後の蒲田駅・京急蒲田駅周辺は焼け野原になっていたからです。
その後、日本は経済大国へと成長を遂げて東京全域が一気に都市化していきます。大田区は昭和期から町工場が多く立地し、高度経済成長期には経済発展をものづくりという面から支えました。
1952年に日本が主権を回復させると、接収されていた羽田空港や空港線も日本へと返還されます。蒲田駅と京急蒲田駅を結んでいた線路は撤去され、一時的に誕生した蒲蒲線は姿を消したのです。
その後、歳月の経過とともに両駅周辺は都市化していきました。そして歳月の経過とともに連合国軍が建設した蒲蒲線の跡は完全に消失し、その痕跡をたどることはできなくなっています。
羽田空港と東京五輪・サッカーW杯
穴守稲荷神社を越えると、連合国軍が強制退去の境目にしていた海老取川が見えてきます。その海老取川の橋を渡ると、天空橋駅に到着です。
天空橋駅は1964年に羽田空港駅として開業しました。1964年は東京五輪が開催された年です。東京五輪は敗戦国の日本が国際復帰することに意気込んでいた世界的なイベントであり、開催にあたって東京はあちこちで都市改造が断行されました。そして、海外から東京への玄関を担ったのが羽田空港でした。
羽田空港は都心部に近いのですが、五輪で来日する海外からの訪問客の利便性を高めるために空港線を延伸することになり、線路が海老取川を渡り、東岸に新た駅が開設されることになったのです。開業時、空港にもっとも距離が近いことから羽田空港駅という駅名になりました。
その後、日本での航空需要が高まり、国際線・国内線どちらも発着していた羽田空港はキャパシティが限界を迎えていました。そのため、国際線機能を成田へと移すことを決定。成田空港が開港してからの羽田は国内線に専念します。しかし、その後も航空需要は増加を続けていきます。
羽田空港は沖合に拡張していきますが、その過程で大田区は主要産業だった東京湾の海苔養殖を諦めるといった産業転換を迫られています。
羽田空港の拡張は増える航空需要に応えるためでしたが、2002年に日韓ワールドカップが開催されたのを機に、羽田空港にも国際線を就航させる機運が高まります。その後、チャーター便という形で東アジア諸国を結ぶ路線が羽田発着になり、羽田空港の再国際化が進んでいきました。そして、2010年には本格的に国際定期便の就航が開始されます。これにより羽田空港は再国際化し、外国人観光客の姿が目立つようになっていくのです。
空港周辺には大型施設や橋が誕生
近年は外国人観光客のインバウンドを取り込もうと羽田空港周辺には大型商業施設が次々と誕生しています。
天空橋駅の東側にはバスロータリーがあり、隣接して羽田イノベーションシティと名付けられた複合施設もあります。同施設は旧羽田空港のターミナルビル跡地に所在し、ホテルや研究施設として使用されています。
羽田イノベーションシティの南側には広大な空地があり、現在は急ピッチで造成工事が進められています。造成工事が進められているエリアは、今のところ何が建てられるのかといったことは決まっていません。
発展途上の羽田イノベーションシティを通り過ぎると、東京都と神奈川県の境にもなっている多摩川に大きな橋が架かっているのを目にできます。この橋は2022年に開通したばかりの多摩川スカイブリッジで、橋が完成したことによって川崎市臨海部とのアクセスが向上しました。
川崎市臨海部は大企業の大規模工場が多く操業しています。川崎市臨海部と羽田空港とのアクセスが向上することで、旅客だけではなく航空貨物も活性化することが期待されています。
多摩川スカイブリッジに隣接するように、2023年に全面開業した羽田エアポートガーデンがあります。同施設は羽田空港第3ターミナル駅と直結した大型複合商業施設です。ホテルやショッピングモールが整備されていますが、館内が広大すぎることもあって駅直結という感じはしません。
当初、羽田エアポートガーデンは2020年にオープンする予定でした。ところが新型コロナウイルスの感染拡大で、外国人観光客が激減。それらを考慮して、開館時期を延期しました。その影響もあるのか、コロナ禍が収束した現在もショッピングモールとしての勢いは感じられず、寂しい雰囲気を放っています。
直結する羽田空港第3ターミナル駅は京急と東京モノレールの2社が乗り入れ、乗り場付近は多くの利用客で混雑していました。羽田エアポートガーデンの寂しさと比べると、その光景は非常に対照的でした。
羽田空港第3ターミナル駅は空港線のホームが地下にあります。また、羽田空港第3ターミナル駅そのものが空港敷地内にあるので、建物の外観に駅名標は掲出されていません。羽田空港第3ターミナル駅に徒歩で訪れる人はかなり少数だと思いますが、駅名標などがないので、どの建物が駅なのかが判然とせず、かなり迷うことになりました。
羽田空港第3ターミナル駅の次が、終点の羽田空港第1・第2ターミナル駅です。羽田空港第3ターミナル駅-羽田空港第1・第2ターミナル駅間は、全線が空港敷地内の地下を走っています。そのため、線路沿いを歩くことはできません。
また、第3ターミナルと第1・第2ターミナルの間は無料のシャトルバスが頻繁に運転されていて、両ターミナル間の移動はほぼ全員がシャトルバスを利用します。そうした事情もあって、羽田空港第3ターミナル駅から羽田空港第1・第2ターミナル駅へと徒歩で移動することは想定されていません。
2つのターミナル間をバス移動できるということは道路があるということです。その道路が自動車専用道でない限り、徒歩で移動することは可能なはずです。そう考え、第3ターミナル駅を出て、シャトルバスの後姿を見ながら道路を歩いてみます。
ターミナル間を結ぶ道路は、先ほどまで歩いてきた環状8号線でもあります。途中、東京モノレールの線路があり、頻繁にモノレールが走っていく姿を見ることができました。
さらに歩いていくと、展望テラスが設けられた緑地があります。ここではジョギングや犬の散歩をしている人たちがいました。
展望テラスの先にも歩道が続いていて、そこを歩いてトンネルをくぐると首都高の湾岸線が見えてきます。その交差点を左に曲がって進んでいくと西側に第1ターミナル、東側に第2ターミナルが見えてきます。
両ターミナルは近接しているので、地下にある空港線の第1・第2ターミナル駅もターミナルに跨るように建設されています。これで蒲蒲線・空港線の全線踏破は完了です。
もともと穴守線というローカル線の趣が強かった空港線は、品川駅から直通列車が走るようになり、2001年からは横浜駅方面からの直通列車も乗り入れるようになりました。
その後も空港線の需要は高まる一方でしたが、京急がターミナルにしている品川駅のキャパシティが限界に達し、増発は難しい状況になっていました。京急は増発を可能にするべく品川駅の改良工事を進めています。この工事が完了すると、京急の品川駅は2面3線から2面4線となります。
戦後、羽田空港は歳月を経るごとに重要性を増してきました。いまや東京のみならず日本を代表する空港と言っても過言ではありません。羽田空港の重要性が高まるのと連動するように、京急空港線の重要性も高まってきました。
空港線は京急の路線の中でも、特に政治や経済といった社会環境に大きく影響を受け、移り変わりが激しい路線です。ただ、今の空港線を歩いても、そうした激動の歴史を感じる部分は少なくなっています。
それでも高まる羽田空港の重要性と航空需要から、絶えず空港線は変化を求められ、そして変化を続けています。蒲蒲線が実現し、さらに空港線へ乗り入れることとなれば、多摩川線と空港線の双方にとって、歴史に残る大きな変化・進化の1つとなることでしょう。



























