小寺信良のシティ・カントリー・シティ

第1回

「東京を連れて」故郷で暮らすわけ

なぜ東京を離れるのか

小寺信良 55歳

東京での暮らしを捨てて、故郷である宮崎県へ帰ることになった。本連載は、この転居にまつわるあれこれを定期的にご報告するものだ。

筆者である小寺信良は現在55歳。高校を卒業したあと、音響工学系の専門学校に進学するため、1人で上京してからだから、首都圏での生活は37年にも及ぶ。テレビ放送関連会社を転々としながら18年、そこからフリーの文筆業に転業して19年になるところだ。

筆者は仕事柄、大手電機メーカーの方に取材する機会が多い。そしてまた、「退社しました」というメールをいただく機会も多い。大企業もいいことばかりじゃないだろうから転職するのかと思ったら、予想外に「実家に戻る」という方もいる。親の介護、家業を継ぐ等理由は様々だが、想定していた人生設計を全部投げ出して新しい人生を始めるのは、生半可な決心ではないだろう。

筆者の場合は何をやっても構わない自営業なので、そもそも転職という概念も希薄なのだが、55歳という年齢に加え、住居も首都圏から遠く離れた宮崎に移すとなると、実質的には「東京撤退」と捉えられても仕方がない

筆者は東日本大震災の翌年である2012年、先妻と別居状態となり、当時小学2年生の次女と2人暮らしとなった。再び同居する見込みもなく、娘が大人になるまで2人で暮らし、その後は実家の宮崎に1人で戻って静かに暮らすというのが、ぼんやりとした人生設計であった。家族がたった2人であれば、生活費は大してかからない。進学のための学費等を考慮しても、学資保険はかけてあるし、収入面も問題ないはずだった。

しかし青天の霹靂というか気の迷いというか、54歳にして再婚することとなった。こちらも子連れ、相手は2人の子連れである。突然5人家族となったわけだ。収入面でも人生設計でも、大きな計画変更を余儀なくされた。日常の生活費に加え、子供たちの将来の学費も、3倍必要になる。結婚当初は貯金もあったし、日々の生活には困らない見込みだったのだが、子供たちの将来を考えるとそう呑気に構えてはいられない。

フリーランス文筆家という人生

フリーランスと一般のサラリーマンを比較した場合、55歳ぐらいでちょうど年齢的な壁に突き当たる。次のグラフはザックリではあるが、筆者ら文筆業の一般的な年収と、サラリーマンの年収の推移を模式化したものだ。

フリーランスの文筆業の場合、社会人1年生からフリーランスで食える例は少ない。最初はサラリーマンからのスタートで、20代後半から30代以降で独立するケースが多い。

フリーランスの文筆業の場合、独立してしばらくはサラリーマン並みだが、40代を過ぎたころにキャリアのピークを迎える。筆者も40歳後半は週刊の連載2本と隔週の連載3本、月刊の連載2本、そのほか書籍の原稿も抱えていたため、年収は同年代のサラリーマンの2倍近くはあっただろう。

だが50代に入ると、次第に収入は下がってくる。原稿の内容やレベルは、経験や知見に応じた高いものが要求される。また体力的にも集中力的にも、以前のように数がこなせなくなる。だが原稿料は年齢に応じて上がったりすることはないので、執筆本数が減れば、単純に減収になる。

一方でサラリーマンは、すでに年功序列ではないと言われつつも、年齢に応じて役職が上がれば、年収も順調に上がっていく。さらに60〜65歳で定年した際、勤続年数に応じて退職金が支給されるため、そこで一気に収入が増える。全国平均では、大卒でだいたい2,000万円弱が支給されるようである。

そう考えると、40代から50代前半ぐらいがフリーランスのいちばんオイシイ時期だが、60歳に至るまでのどこかでサラリーマンに追いつかれ、定年時に一気に抜き去られる事になる。筆者はまさに、その追いつかれた部分にさしかかっているわけだ。

加えて筆者の場合、ピーク時に多く請け負ったのがいわゆる「オウンドメディア」の連載であった。オウンドメディアは、企業が自社製品やサービスの認知向上やブランディングのために運営する情報メディアで、運営元もメディア企業ではないので、報道・出版というよりは広告・広報に近い。一般に原稿料はメディア企業よりも高額だが、メディア自体で収益を上げているわけではないので、本社事業の収支が悪化すれば、真っ先に外注がカットされる。

筆者の収益がここ数年のうちに急速に悪化したのは、複数のオウンドメディアでの連載が打ち切りになったという事情もある。これが出版社系列であれば、横の繋がりが強いため、別メディアや別会社での連載継続を融通してもらえる可能性もある。だがオウンドメディアは横の繋がりがなく、次へ繋がる可能性はほぼない。

フリーライターの晩年のカタチ

ライター業としての晩年を生き残るにはどうするか。実は折を見て、先輩ライターの方々にお話しを伺ってきた。今も現役でライターを続けているベテランのほとんどは、すでにライターだけでなく、調査分析やアドバイザー、広告制作など別の仕事でベーシックインカムを得ているという事がわかった。

だが筆者には、生活に十分なだけの別業を持っていない。あと何年かで自分1人になるしと、ピークが過ぎた後のためにそうした「種を蒔く」ことを怠ってきたのだ。

そんな折も折、故郷で事業を営む義兄から、会社を手伝ってくれないかという話がきた。実は10年以上前から誘われていたのだが、筆者も当時は仕事が順調だったので、一時は断ったのだった。しかし今、このまま何の手も打たずに東京で文筆業を続けていても、収入が上がる見込みはないだろう。自分を信じてついてきた妻や子供たちのためにも思い切って、義兄の会社に転職することにした。

宮崎空港

義兄の手がける事業は、測量や宅地設計、登記など、不動産開発に関わる仕事である。社員10人あまりの小さな会社だが、権利関係が複雑で調整が難しい案件等を得意として、地元でも一目置かれている。

筆者の今の仕事とは全く関係のないジャンルであり、入ってすぐ戦力になるわけではないのだが、宮崎に戻ってくるにあたり、義兄が出した条件がユニークだった。それは、「なるべく東京との接点を切らないこと」。これまで東京で築き上げてきたもの何もかもを捨てて、宮崎へ撤退するようなことはしてくれるな、むしろ東京を連れてこい、という事だった。

これは筆者としても有り難い話だった。これまでどおりメディアの仕事も続けられれば、収入も安定するだろう。幸いにしてAV Watchの「Electronic Zooma!」をはじめとするいくつかの連載は、そのまま続けていきましょうというご返事をいただいている。

したがって皆さんからすれば、今までと何も変わらないかもしれない。だが実際には、皆さんが見えている部分の仕事は、副業となる。加えて本業となる開発許認可申請のために、行政書士の資格を取ることが必須となった。こちらもすでに勉強を始めているところだ。

ただし、最初の1年は筆者と筆者の娘だけで転居する事になる。妻と妻の子供たちは、学校の都合であと1年は首都圏に残る。1年間家族がバラバラになるが、サラリーマンであれば単身赴任も珍しくない。まだ結婚して1年余りで、この荒波に耐えられるか不安なところもあるが、どうにも身動きが取れなくなってから動いたのでは遅い。

かなり難易度の高い転職と転居ではあるが、新しい事に挑戦する楽しみもある。

シティ・カントリー・シティな生活が、皆さんにとってなんらかの参考になれば幸いだ。次回はいよいよ転居先からの更新となる。ぜひ今後の連載に、ご注目いただきたい。

小寺 信良

テレビ番組、CM、プロモーションビデオのテクニカルディレクターとして10数年のキャリアを持ち、「難しい話を簡単に、簡単な話を難しく」をモットーに、ビデオ・オーディオとコンテンツのフィールドで幅広く執筆を行なう。メールマガジン「金曜ランチビュッフェ」( http://yakan-hiko.com/kodera.html )も好評配信中。