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松戸市・流山市を走るローカル線「流鉄」を全踏破 開業110年・Suica非対応
2026年3月12日 08:20
2001年に導入された「Suica」はIC乗車券の先駆的な存在です。Suicaの誕生から四半世紀が経過し、今ではIC乗車券から進化したスマホによる乗車も一般的になりました。こうしたIC乗車券やスマホによる乗車スタイルが定着したことで、旧来の紙のきっぷを使う機会は大幅に減りました。それに合わせて紙のきっぷを投入できないIC乗車券専用の改札機も増えています。
その一方、地方都市ではIC乗車券を導入していない鉄道会社やエリアもあります。そして東京近郊にもIC乗車券をまったく使えない鉄道会社もあります。それが「流鉄(りゅうてつ)」です。
流鉄流山線は千葉県松戸市・流山市を走りますが、起点となる常磐線の馬橋駅ではJR線と駅を共用しています。流鉄の馬橋駅では、多くの利用者が常磐線へと乗り換えています。それでもIC乗車券の導入予定はありません。そのため、流鉄は時間が昭和で止まっていると錯覚してしまいそうになります。
そんな流鉄は沿線に密着し、利用者・地域住民に愛され続けてきた鉄道で、今年で全線開業から110年を迎えます。少し謎めいた流鉄の全線踏破に挑みました。
起点の馬橋駅は各駅停車だけが発着する駅
流鉄は松戸市の馬橋駅と流山市の流山駅を結ぶ約5.7kmの短い路線です。全線が開業したのは1916年で、今年は開業110年の節目にあたります。
110年という長い歴史の中で、同社は流山電気鉄道や総武流山電鉄など社名を何度も変更してきました。そして、2008年に現社名の流鉄に改称しています。また流鉄は、ほかのローカル線と同様に経営難が続いています。それでも沿線住民に愛され続けてきた路線です。
昨今、日本は人口減少の局面を迎えています。その影響もあり、地方都市は過疎化が急激に進み、空き家は深刻な問題になっています。そうした人口減少に伴う問題は東京圏でも起きています。東京都は人口増を続けてきましたが、東京都は2025年に人口のピークを迎えて減少に転じると予測しています。
東京都の人口は23区に偏在し、近年はさらに都心部への集中が加速しています。特に千代田区・港区・中央区などは人口増の兆しがあり、タワマンを含む住宅の建設が活発化しています。人口が偏在するという状況から、都心部の不動産価格は高騰を続けています。いまや中古でマンションでも庶民には手が届きません。
それでもマイホームを持ちたいと考えるファミリー世帯は多く、そうしたマイホームを希求する家族に対して、これまで多くの自治体が移住を呼びかけてきました。
千葉県流山市は、“母になるなら、流山市。父になるなら、流山市。”をキャッチコピーにして、行政が積極的に子育て支援に取り組んできました。子育て環境が充実したことが若年層の心をつかみ、ファミリー世帯を中心に人口が増加。2021年には20万人を突破し、その後も増加傾向は続いています。
同じく松戸市も戦後から一貫して東京近郊のベッドタウンとして注目されてきました。松戸市は現在に至るまで緩やかに人口を増やし続け、2025年には50万人を突破しています。
松戸市内にはJR常磐線のほか、JR武蔵野線、京成松戸線・成田空港線、東武野田線、そして流鉄が走っています。
これだけ多くの路線が張り巡らされている松戸市は、かなり公共交通が充実している自治体といえます。しかし、流鉄が起点にしている馬橋駅は常磐線の各駅停車だけが発着する駅です。
厳密に記すと、馬橋駅は武蔵野線の馬橋支線を走る列車も通りますが、ホームは設置されていないので馬橋駅で乗降できません。そうした状況のため、馬橋駅の存在感は決して大きくなく、駅前は閑静な住宅街といった雰囲気です。
正式には案内されていないJR新松戸駅との乗換駅
流鉄は馬橋駅の西口側にのりばがあります。JRと同一の駅舎を利用しているので駅舎そのものは大きいのですが、流鉄のホームは西口の通路から階段を下ったこぢんまりとした場所にあります。どことなく地方都市のローカル線の雰囲気を漂わせる流鉄の改札をやり過ごして、西口に出てみます。
馬橋駅西口の目の前には、線路に沿うように新坂川が流れています。特に流量が多い川ではありません。松戸市内には多くの河川があちこちに流れています。新坂川も含めて、それら松戸市を流れる河川は農業用水として地域経済を支えてきました。
松戸市は高度経済成長期にベッドタウンとして歩み始めます。その影響で、農業用水として地域で使われてきた新坂川は生活排水によって汚染されていきました。こうした事態を深刻に受け止め、昭和40年代後半から松戸市や地域住民による水質改善の取り組みが始まります。
その取り組みが奏功し、昨今は大幅に水質が向上しています。再び水質が悪化することがないように、引き続き行政による河川の管理体制が強化されているようです。
新坂川と流鉄の線路の間にある新坂川さくら通りを、一駅目の幸谷(こうや)駅へ向けて北へと歩いていきます。名称の通り、新坂川の法面には桜の木が植えられていますが、シーズン前のために美しい花を見ることはできません。
新坂川さくら通りと線路の間には住宅が立ち並んでいます。住宅と住宅の隙間から電車を見ながら、馬橋駅から最初の踏切に到着。
馬橋駅からここまで、流鉄と常磐線の線路は並走しています。踏切を超えたあたりから両線の線路は少しずつ離れていきます。
新坂川さくら通りという名称はついていますが、北へと進むにしたがって道路というより遊歩道といった趣に変わっていきます。途中から新坂川さくら通りは自動車が走行できないほどの狭い幅員になり、近隣住民が憩えるようなベンチも点在しています。筆者が訪れた日は比較的に暖かいこともあって近隣住民らしき高齢者数人がベンチに座って話に花を咲かせていました。
流鉄は全線が単線区間ですが、このあたりでは複線化も可能と思えるほど線路用地に余裕があります。ただ、同区間だけを複線化しても列車の増発はできないかもしれません。仮に複線化によって増発が可能になっても、増発が必要になるほどの需要があるのかも未知数です。
さらに流鉄の線路沿いを歩いていくと、少しずつ高架線が近づいてきます。同線が武蔵野線の馬橋支線で、主に貨物列車が使用する線路です。そのため、行き来する列車は決して多くありません。幸いにも、機関車が回送で走ってくる姿を目撃することができました。
さらに新坂川さくら通りを歩き続けると、目の前を横切る高架線が見えてきます。これが武蔵野線です。武蔵野線は神奈川県横浜市の鶴見駅から東京都府中市の府中本町駅を経て千葉県船橋市の西船橋駅を結ぶ路線です。
鶴見駅から府中本町駅までは基本的に貨物線で、定期運行される旅客列車はありません。また、西船橋駅からは京葉線の支線を介して南船橋駅もしくは市川塩浜駅へと線路がつながっています。そのため、武蔵野線の旅客列車は府中本町駅から西船橋駅で京葉線へと乗り入れて、東京駅もしくは蘇我駅へと至ります。
このように武蔵野線は東京を取り囲むように外周をぐるりと走っています。そのカバー範囲は神奈川県・東京都・埼玉県・千葉県と一都三県に及び、多くの駅で乗り換えができる利便性の高い路線です。以下が武蔵野線の乗換駅となります。新松戸駅での流鉄との乗り換えについては後述します。
- 府中本町駅:南武線
- 西国分寺駅:中央線
- 新秋津駅:西武池袋線(秋津駅)
- 北朝霞駅:東武東上線(朝霞台駅)
- 武蔵浦和駅:埼京線
- 南浦和駅:京浜東北線
- 東浦和駅:埼玉高速鉄道線
- 南越谷駅:東武伊勢崎線(新越谷駅)
- 南流山駅:首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線
- 新松戸駅:常磐線・流鉄
- 新八柱駅:京成松戸線(八柱駅)
- 東松戸駅:北総鉄道線・京成成田空港線
- 西船橋駅:京葉線・総武線・東京メトロ東西線・東葉高速鉄道線
新松戸駅は武蔵野線と常磐線が交差しています。そのため、両線を乗り継ぐ利用者を含めて新松戸駅の乗降客は多いように感じます。しかし、新松戸駅には常磐線の各駅停車しか止まりません。各駅停車のみという状況がもどかしいようで、松戸市はJR東日本に対して新松戸駅に常磐線の快速を停車させるように要望しています。
新松戸駅の北東側では造成工事が急ピッチで進められています。広大な造成地で街づくりが進むとなれば、新松戸駅ののびしろは多そうです。
JR東日本は正式に案内していませんが、新松戸駅と流鉄の幸谷駅は徒歩3分程度の距離にあります。両駅の中間に立って人の流れを眺めてみると、幸谷駅から新松戸駅へ、新松戸駅から幸谷駅へと移動している人は多いように感じました。両駅は実質的に乗換駅として機能しているのです。
新松戸駅に常磐線の快速が停車することになれば、新松戸駅の周辺だけではなく、流鉄の利用者増も期待できるうえ、沿線開発も進む可能性がありそうです。
流山市のファミリー世帯急増の陰で利用者数最少となった鰭ヶ崎駅
幸谷駅から次の小金城址駅へと向かいます。目の前に高架線が現れますが、これは武蔵野線の北小金支線です。
高架線をくぐって住宅街の中を歩き、途中から再び新坂川が見えてきます。新坂川に沿った道路を歩き続けると小金城趾駅に到着です。小金城趾駅は駅ホームが1面2線構造になっています。流鉄で唯一、列車の行き違いができる配線構造になっています。
小金城趾駅は橋上駅舎です。小金城趾駅から電車に乗るためには、いったん階段を上って改札を通り、それからホームへと降りなければなりません。
馬橋駅を除けば、流鉄の各駅は他路線との正式な乗り換えはありません。全線が単線なので、駅を大きくする理由もありません。それを勘案すると、小金城趾駅の構造は利用者にとって階段の上り下りを強いる面倒な構造のように見えます。
それでも小金城趾駅が橋上駅になっている理由は、かつて駅の東側には県営団地が隣接していたことに起因しています。県営団地と小金城趾駅は、直結するような形で建てられていたのです。
また、西側から利用するには線路に沿って流れる新坂川を橋で越える必要があります。そうした地形的状況などを考慮して、小金城趾駅は橋上駅になったと推測できます。
隣接していた県営団地は老朽化によって解体され、今は面影がありません。そのため、橋上駅という構造だけが残りました。
小金城趾駅から側道を鰭ヶ崎(ひれがさき)駅方面へと歩くと、坂川が現れます。言うまでもなく、坂川は新坂川の本流です。
側道に坂川を渡れる橋は架かっていないので、迂回して坂川を渡ります。ここまでが松戸市で、坂川を渡ると流山市に入ります。再び側道に戻って線路沿いを歩いていくと、鰭ヶ崎駅が見えてきます。
鰭ヶ崎駅前には、かつてにぎわったと思える商店の痕跡を残している建物がいくつか見られます。しかし、同駅は流鉄で利用者数が最少の駅となっています。その理由は、約800m離れた場所に南流山駅があることが大きく影響しています。南流山駅は武蔵野線と首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの2線が利用できます。
武蔵野線は東京の外周をぐるりと走る路線ですが、つくばエクスプレスは東京都心部へまっすぐ向かう路線です。南流山駅にはつくばエクスプレスの快速・通勤快速も停車するので、開業以降は東京近郊のベッドタウンになると大注目されました。冒頭でも触れたように、流山市は人口減少局面にある昨今においても人口が増加している数少ない自治体です。その人口増を牽引する存在がつくばエクスプレスであることは間違いありません。
同線が2005年に全線を開業し、流山市はファミリー世帯が急増。ファミリー世帯が急増すると、どこの自治体でも待機児童問題が発生します。
流山市でも同様に待機児童問題が浮上しました。そうした中、流山市は市内に居住するファミリー層の多くは東京方面へ通勤していることに着目。通勤で必ず使う駅前に保育所の送迎ステーションを開設したのです。これにより、通勤時に駅前で子供を預け、退勤時にお迎えするという保育体制を整えました。
一方、駅前で預かった子供たちは各保育所の送迎バスに乗って登園・降園します。そのため、行政は地価が高い駅前に保育所を開設する必要がありません。少し離れた場所に、広い園庭を備えた保育所をつくることができます。くわえて、駅前という商業的な価値が高い空間を有効的に活用できるのです。同施策は働く親にとっても自治体にとってもWin-Winになりました。
こうした施策によって、流山市は待機児童問題の解消を図り、それが子育て支援に手厚いという評判を呼び、さらにファミリー層が増えるという好循環を生みます。南流山駅にも送迎ステーションが整備されました。つくばエクスプレスの利用を前提とした待機児童解消策ですが、その影響を受けたのが鰭ヶ崎駅でした。
流山市に転居してきたニューファミリー層は、本来なら鰭ヶ崎駅から流鉄に乗って馬橋駅まで移動し、そこから常磐線に乗り換えて東京へと向かうルートを取る人も多いはずでした。市の施策によって、その動線が南流山駅へと大きく変わったのです。これにより、鰭ヶ崎駅周辺の住民たちも南流山駅を利用するようになったのです。
流鉄誕生の裏に流山キッコーマンの白みりん
流山市の保育行政の陰の部分を静かに物語る鰭ヶ崎駅を後にして、平和台駅へと向かいます。途中で、つくばエクスプレス線を越えますが、つくばエクスプレスは同区間で地下を走っています。そのため、電車も線路も目にできません。
つくばエクスプレスの線路があると思われる地上区間を歩いていると、歩道脇で土留めに使用されている不思議な物体を目にしました。これは、流山市の地場産業でもある白みりんを保存・輸送するために使用されていた甕です。
流山市にはキッコーマンの関連企業である流山キッコーマンが工場を構えています。しょうゆの製造・販売で全国的な知名度を誇るキッコーマンは、千葉県野田市で創業。現在も本社を置いています。
流山キッコーマンは、主に白みりんを醸造・販売するメーカーです。みりんがいつから日本の食卓で日常的に使用されていたのか研究者の間でも解明されていませんが、江戸期までには庶民の食卓に欠かせない調味料になっていたようです。
江戸期までは、赤みがかかった赤みりんが主流でした。江戸期に流山で醸造された白みりんが少しずつ広まり、現代では白みりんが主流になっています。発祥の地でもある流山で生産された白みりんは、利根川の舟運で一大消費地の江戸へと運ばれていきました。舟運が発達したことで、白みりんは広まり、それが大量生産につながっていきます。こうして流山の白みりん醸造が盛んになるのです。
時代が明治に移ると、物流の主役は舟運から鉄道へと交代していきます。流山には常磐線が通る予定になっていましたが、最終的に柏へとつながるルートで建設されました。流山に鉄道が通らなかったことから有志たちが立ち上がり、鉄道建設の機運が盛り上がります。こうした経緯から流鉄が建設されて、一大消費地の東京へ白みりんを運ぶ列車の運行が始まります。
白みりんの保存・輸送には木の樽や陶器製の甕を使用していましたが、時代とともにそうした容器は使われなくなっていきました。歩道脇に土留めとして使用される甕は、静かに流山市の歴史を語っているのです。
甕で築かれた土留めを通り過ぎると、流鉄の線路沿いに戻ってきます。住宅街の中を歩きますが、途中から側道がなくなり、そのあたりから少しずつ周囲の建物が高くなっていきました。そうして平和台駅に到着です。
平和台駅の目の前には複合型ショッピングモールがあります。ショッピングモールには広大な駐車場が完備されているので遠方から買い物に来る人もいるのでしょう。店舗ラインナップを見ると生活用品をメインにしている印象です。
平和台駅前には小さな広場があり、そこには流鉄開業110年を祝した看板が掲出されています。看板には流鉄で走っている車両の説明や沿線案内もあります。
平和台駅から終点の流山駅までは約600mしかありません。流鉄では、もっとも短い駅間です。そのため、側道を歩くと流山駅にはすぐ到着します。
流山駅は何度かの改修・補修を経ていますが、大正建築を彷彿とさせる赤い屋根と木造駅舎が特徴です。クラシカルな雰囲気の外観が高く評価されて、1998年には関東の駅百選にも選出されました。
ただ、駅周辺は物静かな雰囲気で、最近は利用者の減少傾向が続いています。先述したように2005年につくばエクスプレスが開業したことで鰭ヶ崎駅の利用者が南流山駅に流れましたが、流山駅の利用者も同様です。流山駅の利用者は、主に流山おおたかの森駅へと流れているようです。
流山駅と流山おおたかの森駅は3km以上離れています。動線的には競合関係になりにくいように思えますが、東京までの通勤・通学で利用するという観点で見ると、つくばエクスプレスの利便性が大きく上回ってしまうのです。
そうした影響が少なからずあり、流山駅の利用者は減少傾向が続いています。利用者が減少すると、比例して駅前からにぎわいが失せていきます。また、行政やデベロッパーもにぎわいのある流山おおたかの森駅周辺に開発リソースを注ぎ込もうとします。それは地元住民のみならず沿線外から足を運ぶ利用者にも影響を及ぼします。流鉄にとって、これら一連の話は好ましいものではありません。
終点の流山駅に到着したので流鉄の全線踏破は終了ですが、もう少し寄り道をしてみましょう。
1969年に役割を終えた万上線跡を歩く
流鉄は約5.7kmと短い路線ですが、馬橋駅-流山駅間の“本線”のほかにも万上線や東邦酒類専用線といった貨物線がありました。
東邦酒類専用線は平和台駅から分岐するように伸びていた路線ですが、すでに鉄道の痕跡はなく、正確に廃線跡をたどることは難しくなっています。一方、流山駅から分岐していた万上線は緩やかなカーブを描く道路へと姿を変え、案内の看板が立てられるなど、旧跡を偲べるようになっています。
流山駅から万上線の廃線跡を歩いていくと県道5号線と交差します。県道5号線を渡って2~3分歩くと流山キッコーマンの工場に突き当たります。
万上線は1929年に開業し、流山キッコーマンの工場へ白みりんの原料を搬入したり、醸造した白みりんを出荷する役割を担いました。
しかし、高度経済成長期に自動車が普及すると、次第に万上線の貨物列車よりトラックのほうが輸送の効率がいいと判断されるようになります。こうして、白みりんの輸送手段は鉄道から自動車へとシフトしていきました。そして万上線は1969年に役割を閉じます。
現在、万上線の跡地にレールやまくらぎといった鉄道遺構は残されていませんが、工場に沿う道路は万上通りという名称がつけられています。また、工場の壁面には“流山白味醂200周年記念まちなかミュージアム”と銘打った壁画が描かれるなど、名所・旧跡のような雰囲気を醸しています。
さらに万上通りを平和台駅方面へと歩いていくと、2025年に開館したばかりの白みりんミュージアムがあります。同館では、白みりんの歴史や流山市と流山キッコーマンの関係を学ぶことができるなど、流鉄沿線では数少ない観光スポットとして期待されています。
流山駅にいったん戻って、跨線橋を渡って駅の東口ロータリーにも足を運んでみましょう。東口ロータリーには路線バスが発着していますが、特に商店などはありません。周囲は住宅街然としています。また、遠目に流山市役所の大きな庁舎を見ることができます。
東口はロータリーがあるだけです。電車に乗るためには、跨線橋を渡って西側へと移動しなければなりません。
跨線橋の上からは、流山駅に併設された検車区を見ることができます。現在、流鉄で走っている車両は西武鉄道から譲渡された5000形です。5000形は2009年から流鉄で走り始めましたが、西武でも長年にわたって活躍してきました。そのため、流鉄で長く活躍することは難しい状況でした。
流鉄は2025年にJR東海から211系を購入し、2026年から段階的に211系をデビューさせる予定にしています。流鉄の211系は主に東海道本線を走っていた車両で、5000形同様に決して新しい車両ではありません。それでも5000形から211系へと置き換えは、流鉄が新しく生まれ変わることを意味します。
流鉄沿線で生まれ育った人や長らく沿線に住んでいた人にとって、昔の雰囲気を伝える5000形には思い出がたくさん詰まっていることでしょう。それだけに211系へバトンタッチすることは複雑な思いを抱くかもしれませんが、新生・流鉄に期待しましょう。































