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江東区・海の森公園グランドオープン 領土紛争を乗り越えた歴史

まだ五輪開催が決まる前の中防は、手つかずの未開拓地といった風景だった(2011年5月撮影)

東京都港湾局は、3月28日に海の森公園をグランドオープンしました。海の森公園は東京都江東区に所在する都立公園ですが、グランドオープンに至るまでには複雑な歴史がありました。

そうした過去を知らなくても公園を満喫できますが、複雑な歴史をたどることで、もっと海の森公園を深く理解し、散策を楽しめます。

今回、グランドオープンを迎えた機会に、海の森公園をテーマに前後編に渡りお伝えします。前編では20年以上前から繰り返し現地を訪れていた筆者の経験を踏まえ、海の森公園を含む東京湾の変遷や歴史などをたどりたいと思います。

東京都 報道発表資料より。所在地は東京都江東区海の森三丁目地内

大田区と江東区、さらには品川区・中央区・港区が帰属を主張

東京湾には、数多くの広大な埋立地が造成されています。お台場の南方に浮かぶ「中央防波堤埋立地(中防)」もそのひとつで、ここが今回の舞台となります。

中防は、暫定的に「江東区青海地先」という住所が付されていました。江東区とつきますが、実際には江東区ではありませんでした。なぜなら、中防は東京都の大田区・江東区が帰属を主張し、その境界が長らく確定していなかったからです。

なぜ、そんな紛争状態になっていたのでしょうか? 大田区・江東区の主張を整理しておきましょう。

大田区は高度経済成長期に差し掛かるまで、海苔の養殖が盛んでした。しかし、東京湾の埋め立てによって海苔の養殖事業者は廃業に追い込まれました。大田区は主要産業を放棄した補償として、東京湾に整備された埋立地の帰属を主張しています。

一方、江東区の主張も高度経済成長期に原点を求めることができます。高度経済成長期、東京の人口は爆発的に増えました。人口増加によって深刻な問題としてゴミ処理が持ち上がります。

当時、東京23区内にはゴミの焼却施設は少なく、焼却処分が追いつかない状態でした。そのため、焼却されないままのゴミが溢れました。窮余の策として、東京都は多くゴミをそのまま東京湾で処分することを断行。未処理のゴミは、後に江東区に帰属して夢の島という町名になる土地に埋め立てられたのです。

未処理のゴミが不衛生だったことは否めず、悪臭や汚水の原因になりました。また、埋立地から大量のハエが発生し、それら大量のハエは住宅地に飛来し、近隣の江東区は通常の生活を送ることができなくなったのです。

ゴミが山積みされた中防から、遠くにフジテレビ新社屋の球体展望台を望むことができた(2005年6月撮影)

東京湾の埋め立てを巡って、もっとも負の影響を受けたのが江東区であることは間違いありません。そうした苦難の過去に耐えてきたことも、江東区は中防の帰属を主張する理由にしてきました。

中防は、大田区・江東区の2区だけで“領土争い”を繰り広げてきたわけではありません。ほかにも、品川区・中央区・港区が帰属を主張していました。つまり5区が中防の帰属を主張していたのです。

中防に橋で接続しているのは大田区と江東区の2区だけです。それにも関わらず、なぜ品川区・中央区・港区が中防の帰属を主張していたのでしょうか? そこにも東京湾に造成された埋立地の歴史が関係しています。

中防の北側に位置する13号地は、一般的に“お台場”と通称されます。しかし、台場は港区の町名です。そのため、関係者からは13号地と呼ばれてきました。

東京湾には江戸末期に外国船を追い払うための砲台が築造されました。それが台場の由来です。しかし、13号地が一般的に“お台場”と呼ばれるようになるのは、1996年にフジテレビが新社屋を台場に建設してからです。球体展望台という奇抜なデザインのフジテレビは13号地のランドマークになり、それまで荒涼としていた一帯は若者が押し寄せるトレンディスポットに早変わりしました。

手つかずの未開拓地だった中防から13号地を望むと、フジテレビをはじめとする巨大な建物群が見え、対照的な風景が広がっていた(2005年6月撮影)

13号地には、そのほかにも船の科学館が所在する品川区の東八潮や東京ビッグサイトが立地する江東区の青海といった町名が存在しています。つまり、“お台場”も3区によって分割されているのです。そうした関係もあり、品川区と港区も中防の帰属を主張していたわけです。

13号地に土地を持たない中央区も中防の帰属を主張していました。これは晴海埠頭からの海上アクセスを理由にしています。

品川区・中央区・港区の3区は2002年に中防が陸続きではないことを理由に帰属を諦めました。3区は帰属を放棄したものの、引き続き中防に建設される施設などの共同使用を求めました。

こうした複雑な経緯をたどって、中防の帰属は大田区と江東区の2区に絞られます。しかし、その後は帰属問題で進展が見られず、2005年に東京都は中防にある一画を公園として整備することを決定するのです。

公園地になるとは思えないほど産業廃棄物が山積み

東京都港湾局や国土緑化推進機構、国際日本森林文化協会といった団体の活動によって定期的に植樹が進められて公園整備の下地が整えられてきました。

筆者は2000年前後から中防に関心を抱き、定期的に同地を訪問していました。中防は関係者以外の立ち入りを厳しく制限しています。中防へと立ち入るには、それなりの名目が必要でした。

筆者は取材という名目で立ち入り許可を受け、たびたび中防を訪れました。また、東京都をはじめとする公的機関が主催する植樹イベントを取材することや東京都が散発的に実施する一般公開にも足を運びました。

2005年に訪問したときは産業廃棄物が山積みされているような状況で、とても公園地になるとは想像できないような風景でした。その後もイベントなどで植樹が実施され、行政による整備も進められましたが、中防の風景は変わり映えしませんでした。

東京五輪の開催が決まった2012年以降、海の森は少しずつメディアに取り上げられるようになりました。それでも、当時は存在を知っている人は多くありません。ニュースバリューはなく、雑誌など取り上げることが難しい場所でした。そのため、なかなか取材という名目で中防に立ち入ることはできませんでした。

五輪開催が決まる前の中防は、ゴミによる埋立地という言葉がしっくりくる場所だった(2005年6月撮影)

東京五輪の開催が決まり、少しずつ中防は注目度を上げていきました。それでも、前述したように帰属が決まっていなかったことから、同地の開発は遅れていました。

これまで中防へアクセスするためには、大田区の臨海トンネルもしくは江東区の第二航路トンネルを通行しなければなりませんでした。公共交通機関を使用する場合、東京テレポート駅から発着する都営バス「波01」に乗るしか術がありません。

2012年に中防と江東区若洲を結ぶ東京ゲートブリッジが開通。これによって、中防へのアクセスは改善されます。とはいえ、帰属が決まっていない中防ですから大田区・江東区が街の整備に取り組むことはありません。そのため、中防に一般人が足を運ぶような施設はなく、周囲から隔絶されているという実態は変わらなかったのです。

分割案で決着図るも領土問題は司法の場へ

東京五輪を目の前にした2017年、大田区と江東区は東京都紛争処理委員に調停を申し立て、中防の帰属問題に決着をつけることになりました。

同年、東京都が設置した自治紛争処理委員が約500ヘクタールの中防のうち、大田区13.8%、江東区86.2%で分割する調停案を提示します。自治紛争処理委員が結論を出したことで、中防の“領土問題”は一件落着するかのように思われました。

しかし、両区は調停案を不服としました。それでも、江東区は裁定を自治紛争処理委員に委ねたからには、どんな結果が出ても従う方針を表明しました。一方、大田区は割合が少なかったことが不満となり、“領土問題”は司法の場で決着がつけられることになったのです。

2019年9月、東京地裁は大田区が20.7%、江東区が79.3%の割合で中防を分割する判決を出します。自治紛争処理委員の調停案と比較すると、東京地裁の判決は大田区の帰属分がわずかに増えています。それでも、依然として江東区が圧倒的であることは変わりません。

判決が出された2019年は、五輪開幕の前年です。新型コロナウイルスが全世界で猛威を奮ったことで東京五輪の開催は1年延期されるわけですが、2019年時点でコロナ禍による延期は想定されていませんでした。そのため、大田区は「これ以上、中防の帰属問題を先延ばしにしたら、東京五輪に向けた開発や整備が開催までに始められない」という理由で東京地裁の判決を受け入れています。

埋立地の帰属が決まったことで、大田区・江東区の区域は広がりました。その土地を開発するべく、行政が手始めにやらなければならないことが住所を決定することです。

大田区も江東区も区民から新住所を公募しました。その結果、大田区側は「令和島」という住所に決定。説明するまでもなく、令和島の令和は新元号を由来にしています。大田区には昭和島という町名がありますが、これも昭和に埋立地として造成された場所です。

江東区は、「海の森」に決めています。住所が決定する以前から東京都が海の森公園を整備していましたので、新たに誕生しながらも慣れ親んだ町名として受け止められています。

当初、茫洋としていた海の森公園は、植樹によって緑を称えるようになりました。植樹の成果で公園としての体裁を整えた海の森公園には野鳥などが飛来し、営巣する様子も観察できるようになっています。

プレオープン中だった海の森公園は、たびたび一般開放されて園内を散策することができた(2015年10月撮影)
プレオープン中の海の森公園はあちこちに整備中の区画が残り、植樹中の看板があるので未完成感が漂っていた(2015年10月撮影)
海の森公園では、公的機関による植樹イベントを定期的を開催して、公園としての整備を進めてきた(2016年3月撮影)
植樹イベントは親子で参加できるものが多く、植樹後に日本科学未来館(江東区青海)でさまざまなイベントを実施(2016年3月撮影)

海の森公園のグランドオープンで中防の整備も一定のメドがつきました。しかし、これで整備が完結したわけではありません。発展が著しい東京湾岸エリアが長い歳月をかけて変貌を遂げたように、臨海副都心の一翼を担う中防も大きく飛躍することが期待されています。

プレオープン中に一般開放されていた海の森公園内でも大型重機によって整備が進められていた(2015年10月撮影)

中防の問題で気になることが、まだ残っています。東京地裁の判決によって、それまで決着がつかなかった中防の帰属問題は一気に解決しました。中防の争いでは、「どれだけ取るか?」といった面積ばかりに注目が集まりました。しかし、大事なことが抜け落ちています。それは「どう取るのか?」といった線引きの仕方です。

というのも、中防の南側には約480ヘクタールという新しい埋立地「新海面処分場」が造成中だからです。東京地裁で争っていたのは、あくまでも中防の帰属でしかありません。新海面処分場の帰属は判決に含まれておらず、その帰属は決まっていません。中防の面積は約500ヘクタールですから、それと同じ規模の埋立地がまだ帰属未定地のままになっているのです。

帰属未定地の新海面処分場を自分の区に組み込むには、新海面処分場と自区の境界線が接していることが望ましいことは誰の目にも明らかです。

東京地裁が示した判決では、大田区・江東区に帰属する中防の区画は江東区の方が多く新海面処分場と接しています。これだと、帰属未定地の新海面処分場の大半は江東区になることが予想されます。そうした状態になったので、再び紛争を生む可能性を残しているのです。

新海面処分場の問題を残しつつも、長らく決着していなかった中防を巡る“領土問題”は終結しました。こうした過程を経て、ようやく海の森公園がグランドオープンを果たします。

海の森は東京五輪を契機に整備が一気に進み、さまざまなイベント会場地にもなっている。“持続可能な新しい価値を生み出す”をコンセプトにしたSusHi Tech Tokyoも海の森で開催(2024年5月撮影)
小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『鉄道がつなぐ昭和100年史』(ビジネス社)、『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。