鈴木淳也のPay Attention
第252回
長崎市が路面電車での“タッチ乗車”に期待する理由
2025年8月5日 08:20
長崎市内で路面電車を運行する長崎電気軌道は、2025年秋頃に、クレジットカード/デビットカードを使った“タッチ乗車”のサービスを開始する。
坂の街としても有名な長崎だが、比較的狭いエリアに観光名所が集まっており、このコンパクトな街をレトロな路面電車行き来して市民や観光客の足を担っている。
近年ではインバウンド需要が注目を集めているが、長崎もまた他地域から足を伸ばしてきた観光客のみならず、港町としてフェリーの寄港地という特性を活かした“コンパクト”な観光需要も大きい。
今回の“タッチ乗車”への対応は、こうしたインバウンドを中心とした観光需要を見越しつつ、長崎市全体で移動の利便性向上やキャッシュレス化の波を見据えた施策の一環となる。
7月16日にはこれに関連して長崎市庁舎において記者会見が実施され、インバウンド施策を含む長崎のキャッシュレス決済に関する説明が長崎市長の鈴木史朗氏ならびに長崎電気軌道の代表取締役社長である中島典明氏らによって行なわれた。
秋のサービス開始まで時間がある段階での記者会見となったが、実証実験ながらサービス開始時には路面電車の全台数への対応機材の取り付けを計画しており、この準備期間が必要という理由もある。加えて、今回長崎電気軌道が導入する三井住友カードの「stera transit」では、長崎が全国初導入となる新機能があるなど、観光振興に向けた仕掛けが盛り込まれている。
既存の交通系ICカード「nimoca」の対応に加え、stera transitを新たに導入する狙いと、stera transitの“次”として全国展開、特に東京で典型的な複数鉄道会社が相互に乗り入れる「相互直通運転」の今後について最新情報をまとめる。
長崎が公共交通機関で抱える「荷物」問題
実証実験の概要については既報の通りで、基本的にはすでに多くの国内事業者で導入されている「都度乗車(PAYG:Pay As You Go)」だが、今回の長崎市のケースで注目すべきポイントは同地域での導入が初となる付加サービスの数々のほか、福岡市地下鉄などで導入されている「料金キャップ制度」を長崎の路面電車利用に合わせた形でアレンジしたものの導入を検討している点にある。
下の写真にあるように、現状で長崎の公共交通事情は問題を抱えている。分かりやすいのがインバウンド対策だ。
単純に「(日本の)交通系ICカードを持っていなければ乗車できない」もしくは「現金(主に小銭)を別途用意する必要がある」といった基本的な理由で国際ブランドのクレジットカードが使えれば外国人観光客には便利だが、インバウンド観光客で大きな問題となるのが大きなスーツケースの車内への持ち込みだ。
路面電車は1両編成で限られたスペースの車両となるため、巨大なスーツケースを持ち込まれると、乗車可能な人数が大幅に減少してしまう。ピーク時でなくとも、そうした荷物によって乗車スペースが限定されてしまえば、利用を躊躇する人が市内外問わず出てしまうかもしれない。
似たような話は全国でも問題になっているが、特に長崎市からの要望が強く、ぜひやりたいということで応募してきたのが今回の実証実験のきっかけという。
荷物を所定の場所で預け、その支払いをクレジットカードで行ない、身軽になった状態で路面電車に同じクレジットカードで“タッチ乗車”すれば、●stera transit●の機能を使って自動的に携行品割引が適用される。もともと長崎国際コンベンション協会が1,000円で預かった荷物をホテルまで転送する「手ぶらで長崎観光」というサービスを提供しているが、利用者にとっては移動が楽にはなるものの、積極的に“手ぶら”で路面電車に乗って観光するモチベーションにはつながりにくい。
荷物預かりの利用を促進し、これを運賃との紐付けで容易にするのが今回のサービスの狙いの1つだ。
このほか、観光施設と連動したデジタルチケットを組み合わせることで、さらに路面電車を使っての市内周遊を加速する狙いもある。後述するが、オフピーク割引や料金キャップ制度導入の検討もその一環だ。前者はオフピーク時の利用促進を促すものだが、これは観光客のみならず市民の足としての路面電車のさらなる活用を促す施策でもある。料金キャップ制度も同様で、詳細は決まっていないようだが、観光客にとっては1日乗車券をわざわざアプリなどを活用して毎回購入するよりも、料金キャップ制度を使って自動的に「1日の上限運賃に達したら以後は請求が発生しない」という、ポストペイ型サービスの特徴を活かしたものになっている。
もう1つ大きな課題が少子高齢化で、長崎は全国でも若者の流出が大きい地域として知られている。
年々住民の高齢化が進んでいるが、坂の多い街という性格上、運転に必要な認知機能が低下しても車を手放さない高齢者が多く、こうした市民の公共交通機関の利用を促すべく「運転免許証返納割引」のような施策が登場することになる。加えて、以前のレポートにもあるように、観光客向けの施策としてPass Caseを使った周辺施設の利用も可能な企画乗車券2種類が用意される。
料金キャップについて補足すると、これは現状の定期券制度とリンクする部分がある。現状、長崎の路面電車の定期券はnimocaベースで発行されているが、対象となるのが2つの停留所を指定する「区間定期」であり、この区間を“はみ出て”乗車するとnimoca残高からさらに追加で運賃が差し引かれる。
本来は全区間均一の150円運賃のため、定期券があることで追加利用が広がらないとも考えられる。そこで、例えば料金キャップを月単位の上限運賃とすることで、定期よりも自然な形で路面電車を利用してもらうなど、実証実験期間を使って効果検証を行なっていく計画だ。
インバウンドとキャッシュレス
今回の施策について、導入事業者である長崎電気軌道の中島氏は次のように説明している。
中島氏:当社を取り巻く今の環境というのが少子高齢化や若年層を中心とした人口減少など厳しい状況が続いています。さらに慢性的な人手不足、またそれにともない、大変厳しい事態も余儀なくされている一方、コロナ禍以降、長崎市のインバウンド需要は徐々に拡大しており、安定した運行の確保とインバウンド受入環境の整備が課題となっているところです。そのような中、公共交通サービスの高度化及び地域の活性化を図るため、すでに世界的に普及が拡大している公共交通におけるクレジットカード等の タッチ決済による乗車サービス導入を進めることで、インバウンド受入環境の整備やキャッシュレス化のさらなる促進が図られることとなります。
さらに、クレジットカード等のタッチ決済の導入により、利用者属性などのデータ分析が可能となることで、運行管理や割引施策などのサービス向上に寄与することと期待されているところです。弊社としては、クレジットカード等のタッチ決済を活用した1カ月の全線上限運賃を設定する全線上限割引や運転免許証を返納された方への返納割引、通勤時間帯の混雑緩和を図るためにオフピーク割引、さらには乗り合いタクシーとの乗り継ぎ割引など生活者向けのサービスに加え、コンベンション協会様が実施している『手ぶらで長崎観光』と連携した割引制度や三井住友カードのMaaSアプリを活用した施設連携を図る観光客向けサービスを、本年秋頃より全車両にて実証実験が開始できるよう準備を進めてまいります。
ポイントとしては、インバウンドのような局所的なニーズに対応したいが前述のような課題があること、さらに市民の間でも利活用場面を増やしていきたいという根底がある一方で、「利用者属性などのデータ分析によるサービス改善」に言及するなど、従来の交通系ICカードだけでは難しかった施策にチャレンジできることに期待を寄せていることが分かる。
中島氏によれば、nimocaを含む交通系ICカードの長崎電気軌道での利用率は70%強で、2008年から利用が開始された地域限定交通系ICカードの「長崎スマートカード」が50%弱だったことを考えれば、域外を含む多くの乗客が交通系ICカードを利用していることがうかがえる。この書き方だと残り3割弱が現金利用者のように思えるが、実際には全体の1割ほどは1日乗車券などを活用していたりするとのことで、現金比率は2割弱ということになる。
なお、長崎電気軌道がnimocaに対応したのは2020年のことなので、まだ日が浅い。同氏によれば、今回の“タッチ乗車”対応で運賃箱が順次更新されていくが、これに合わせて従来まで対応しなかった「新500円玉」に対応するという。更新によってnimocaから“タッチ乗車”へと移行する利用者がある程度出てくると思われるが、実証実験期間でそれを見極めていきたいと同氏は説明する。
興味深い小話としては、長崎電気軌道の運行する路面電車は「全国一安い電車」を長らくうたってきたものの、現在では全区間一律運賃が150円と、岡山電気軌道の120-140円(120円は特定区間運賃)に負けているという。
中島氏:われわれとしては常にお客様のご要望を聞いているわけですが、『(運賃を)100円に戻してくれ』という声はともかく、今は岡山電気軌道さんに10円負けてしまっている状況だったんです。(記者会見日からみて)昨日報道発表があって、10月から岡山さんが160円に上げるということになり、全国一安い電車に戻るということで頑張ってやっていきたいですが、単に安い運賃で社員に苦労をかけさせたりするのではなく、こうした歴史を踏まえつつ、さまざまな要望を受け入れていければと思います」
長崎でのキャッシュレス化についてはどう考えているのか。長崎市長の鈴木氏は次のように述べている。
鈴木氏:長崎市では令和3年(2021年)に始まった長崎市地域公共交通計画の施策の1つとして先進的なICT技術の積極的な導入を掲げており、その一環として今回のように長崎電気軌道と三井住友カード様の間で連携協定を締結しました。その成果の1つとして、クレジットカードを“タッチ”することで運賃の精算ができ、国内外問わず多くの方が所持しているクレジットカードによる運賃決済が可能になり、市民や観光客の皆さまがスムーズに乗降できるのみならず、インバウンド対策としても有効で、長崎を訪れる方々の利便性をさらに高めることが期待されます。
キャッシュレスの状況ですが、具体的な数字の持ち合わせはないものの、かつてに比べると飲食店などでのキャッシュレス対応は進んできてはいますが、正直いってまだまだ遅れているのが現状です。昨年の令和6年(2024年)のインバウンド訪問者は約81万人で、キャッシュレスの対応拡大はインバウンド対応という意味で大切だと考えています。長崎市としてもキャッシュレス決済の拡大に関して、民間の皆さまと連携しながら推進していきたいと考えています。
25年度内に45都道府県に拡大、相互直通に関する進捗も
stera transitの展開状況だが、2024年度末(2025年3月末)時点で41都道府県に展開されており、この会見が行なわれた7月16日時点では42都道府県と182事業者に拡大している。この間に追加された1県は、もちろん今回の長崎県だ。
九州では佐賀県のみが地域事業者での導入がない状況で(駅としてはJR九州の鳥栖駅が対応)、2025年度末に45都道府県230事業者への拡大を考えれば、ほぼ全国で何らかの形でカバーされつつあるといえる。
特にインバウンドを考慮したのか空港と都市部を結ぶ交通機関での“タッチ乗車”対応率が高い状況で、今回の説明会では言及がなかったが、長崎では現時点で空港バスが交通系ICカードのみの対応となっており、さらなる利用拡大のためには乗車料金の高さも考慮すれば(長崎空港と長崎市内中心部で片道1,200円)、導入が望ましい区間といえるだろう。
だいぶ使える場所が増え、筆者の国内外出張でも“タッチ乗車”で公共交通機関を利用する機会が増えてきたが、東京エリアに住んでいる者として気になるのが「相互直通運転」への対応だ。
筆者の場合、最寄りに都営地下鉄と東京メトロの2つの最寄り駅があるが、前者は“タッチ乗車”によるPAYGに対応しているものの、後者は1日券のみの対応で、PAYGの対応は2026年春まで待たなければいけない。都営地下鉄でも“路線内”で移動する場合には問題ないものの、東京では地下鉄路線は複数の鉄道会社がそのまま郊外から乗り入れ、さらに別会社の路線へと抜けていく「相互直通運転」が当たり前のため、移動先によっては事後精算が別途必要になることを考慮して、あえてSuicaのような交通系ICカードを使うことも多い。
現状で東京エリアで相互直通が可能なのは、実質的に都営浅草線と京浜急行電鉄の特定駅(品川から羽田空港の区間)の区間のみで、それ以外の路線はstera transitによるPAYGに対応していても、そのまま乗車はできず。出口駅で別途精算が必要になる。
加えて、都営地下鉄と東京メトロでは特定駅での乗り換えした場合に運賃から70円が引かれる特別制度があり、交通系ICカードを使った場合には自動的に割引運賃が適用されるが、タッチ乗車では対象外となる。
東京メトロに、“タッチ乗車”時の他社との相互接続や、前述のような都営地下鉄の割引運賃制度が適用されるかについて質問したが、「現時点で発表できる内容はない」ということだった。
また、東京メトロのPAYG対応にはもう1つ問題があり、「相互直通運転」を行なう関係で、「東京メトロの駅でありながら駅の管轄が東京メトロではない」というケースがある。有名なのが目黒駅だが、この駅はJR山手線のほか、東急目黒線、都営三田線、東京メトロ南北線の4路線が通過しており、後の3路線については相互直通運転で同じ駅を共用している。このJRを除いた駅の管理は東急電鉄の担当であり、2026年春にスタートする東京メトロ駅からの“タッチ乗車”によるPAYGでは出入場できない。
現状の都営地下鉄でも同社のPAYG対応の駅で入場し、都営三田線を使って目黒駅に到着しても、改札はそのままでは通過できず、駅員のいる窓口で別途精算が必要になる。東京メトロによれば、東京メトロの駅でありながら2026年春開始のサービスではPAYGを利用できない他社管轄の駅が9駅存在しており、少なくともサービス開始時点で相互直通が実現されることはなさそうだ。
三井住友カードの石塚氏によれば、相互直通への対応自体は実際に検討しており、各社が集まって話し合いをしている段階だという。相互直通運転を行なっていながら、改札機の更新が進んでいない私鉄各社や、東京メトロ千代田線/東西線で相互直通運転を行ないながら“タッチ乗車”への対応は否定的なJR東日本のような会社は存在するものの、いざ“タッチ乗車”で改札を出ようとしたときに乗客が困らないよう、何らかの対応措置が用意される可能性が高いとみていいだろう。











