鈴木淳也のPay Attention

第79回

交通系ICサービスとスマートフォンの関係

パリ=メトロのオペラ駅

「iPhoneで間もなくパリの公共交通サービスが利用可能になる」という噂が話題になっている。

詳細はAta DistanceでのBlogに詳しいが、フランスの首都パリを中心としたイル=ド=フランス地域圏における交通系ICカード「Navigo(ナビゴー)」のスマートフォン対応版「Smart Navigo」が2019年9月よりテスト運用開始されており、この機能が今年2月にもiPhoneで利用可能になるというものだ。今回はこのNavigoの話題を中心に、「世界の交通系ICカード+スマートフォン事情」について少し追いかけてみたい。

パリの交通系ICカード「Navigo」とは

Navigoのサービス開始は2001年と割と古く、日本でいうSuicaとほぼ同じ歴史を持っている。それにも関わらず、おそらくSuicaに比べてNavigoの知名度は低く、パリに比較的何度も訪問している日本人であっても「Navigoは使ったことがない」という人は多いと思う。

筆者も2019年の訪問で「Navigo Easy」カードを入手するまでは「試しに作ってみた」という記念品的な扱いで、ほぼ有効活用していなかった。その理由は「購入できるチケットは毎週月曜日から日曜日までの曜日固定の1週間パスのみ」といった具合に、地元民の通勤・通学用途に特化していたためで、旅行者にとっては非常に使いにくい交通系ICカードだった(Navigoは記名式で本人写真も用意する必要がある)。

後に、パリ=メトロの有効範囲であるパリ中心部での片道移動に使える1回券の「t+」を回数券としてストックしておけるNavigo Easyが登場したことで、ようやく旅行者のような短期滞在のユーザーでも交通系ICカードが使えるようになった。

2019年6月に提供が開始された「Navigo Easy」。旅行者に使いやすいカードだ

パリの交通系システムは5つのゾーンに分かれた「ゾーン制」を採用しており、ゾーン間移動で料金が変動する仕組みだ。前述「t+」は主にメトロがカバーするゾーン1内での利用を想定しており、ゾーンをまたいだ移動は郊外型列車のRERを利用することになる。

注意するのは、「t+」で移動可能な範囲は出場時の検札がなく、ゲート前に立つと自動的に扉が開いて出られるようになっているが、ゾーン2の境の駅に行ったときにメトロ以外の改札(例えばRER)で出ようとすると、有効なチケットではないとして改札で引っかかってしまう。筆者が知らないでメトロ1号線ではなくRER Aでラ・デファンス(La Defense)から出ようとしたときに改札から動けなくなり、駅員に助けてもらったことがあった。

話を戻すと、通常の区間チケットや「t+」に加え、空港バス(もしくは空港とパリ中心部を鉄道で往復)である「RoissyBus」「OrlyBus」のチケット、各種シーズンチケットなどがイル=ド=フランス地域圏では利用可能で、「t+」も10枚つづりで購入すると安価になる「Carnet de 10(通称:カルネ)」がある。「t+」は1枚1.90ユーロだが、Carnetでは16.90ユーロ、さらにNavigo EasyでCarnetを購入した場合は14.90ユーロ(Navigo Easyの取得に2ユーロかかる)となっている。

イル=ド=フランス地域圏の郊外交通をカバーするRER

そしてSmart Navigoだが、基本的にNavigoの期間パスからNavigo Easyの「t+」、各種シーズンチケットまで、Navigoが持つ機能をすべて包含し、スマートフォン上でチケットの購入から保存、使用までを一通り行なうことができる。

この手の複数のチケットが1つの端末やカード内に同居する仕組みの場合、「どの順番でチケットを消費するのか」が問題になる。例えば1日券や期間券を持っている場合に、1回使い切りの片道券を先に消費されるのでは困る。筆者が以前にフランスのニーズで取材したコートダジュール地域圏のLignes d'Azurのサービスの場合、スマートフォンのSIMカードに保存されたチケットの種類が優先順位付けされ、検札機へのタッチ時に自動的に先に消費すべきチケットが選択されるという仕組みだった。

実際にサービスに触れられていないので確認できていないが、Smart Navigoもそれに近い仕組みではないかと考える。

Lignes d'Azurのモバイルチケット。2011年9月、フランスのニースにて

SIM SEとモバイルウォレット

気になったのが、一昨年9月にSmart Navigoの提供が開始された際のイル=ド=フランス地域圏のニュース記事だ。「Android 4.4以上のNFC機能をもった機種」という条件に加え、「OrangeまたはSoshのSIM」「Samsung Payが利用可能な“フランス国内で販売される”Samsung製スマートフォン」とある(SoshはOrangeのサブブランド)。

単にNFC対応Androidスマートフォンというだけでなく、携帯ネットワークのオペレータとスマートフォン製造メーカー、しかも販売国の指定付きの厳しさだ。

説明によれば、Smart Navigoでのチケット情報はSIMのセキュアエレメント(SE)に保存されるとのことで、SIM内部のセキュア領域へのアクセスが必要なことからキャリア指定が行なわれているというのは想像できる。販売国指定かつSamsungスマートフォンという部分については不明だが、検証などの手間を考えると「対応端末の種類をそんなに簡単に増やせない」ということなのだろう。

似たような話題は過去にもあった。1つは前段で紹介したLignes d'Azurのモバイルチケットで、「Cityzi(シティジィ)」という共通仕様マークがあり、対応キャリアも3大キャリア(Orange、SFR、Bouygues)をサポートし、対応端末の幅もそれなりに広かった。ただしキャリア紐付けで提供されるサービスには違いなく、3大キャリアが提供する指定端末を選ぶ必要があった。

もう1つは香港の八達通(Octopus)で、このFeliCa技術を利用する交通系ICカードにおいて汎用のSIMカード上でFeliCaエミュレーションするサービスが提供された。このサービスはCSLを携帯キャリアに、7-Eleven店舗などでプレイペイドSIMが販売されたが、結局対応機種はほとんど広がらず、あっという間にフェードアウトしてしまった。

ソニーの説明によれば、相性問題に起因する検証などの手間が大きく、汎用SIMを提供して市販のNFC対応スマートフォンならどれでも利用できる……というのが非常に困難だったという。

後にSamsung Payが八達通に対応したほか、最近ではiPhoneのApple Payでも利用可能になったが、このようにプラットフォームや機種指定でのサポートへとシフトしたのは「検証含めてプラットフォーマーに任せた方がいい」という判断もあったと、ソニー側では説明している。

Samsung Pay上で動作する八達通。ソニーによれば、より確実にNFC動作させることを目指した動きだという

Smart Navigoの条件が厳しい理由の1つは、初期にはテスト運用という背景もあるものの、やはり「汎用のスマートフォンとSIMの組み合わせでどこでも動かす」というのはそれなりに難易度が高いことの証左だと筆者は考える。

ただ、対応するのが「Orange(系)のSIMのみ」という点は気になる。単純に他キャリアがサービス開始時点で未対応だったということも考えられるが、欧州圏はキャリアが国をまたいでもローミング費用を請求しないルールを展開しており、人の移動は基本的に自由であり、すべての旅行者にメリットあるサービスを特定キャリアのSIM縛りにする仕様は正直いって意味が分からない。

せっかくSamsung Payという共通のウォレットサービスを提供できる土台があるにも関わらず、特定キャリアのSIM上でのみ動作するアプレットの形で提供するのはなぜだろうか。オープンループで利用しているEMV Contactlessなカードとは異なり、チケットをローカルで保存しなければいけないためセキュアエレメント(SE)が必須なのは分かるが、それが非常にユーザーを限定した仕組みであっては意味がないと筆者は考える。

交通系ICサービスにはキャリアフリーを望む

交通系ICカードの面白い点に、「導入時に域外からの旅行者の利用を想定していない」ということがある。地域の公共交通を一番利用するのが地元民なのである意味で正しいのだが、世界の交通運行事業者を取材する機会でこのあたりの質問を何度かしたところ、「まずは地域住民の利便性向上が先」という回答がたびたび返ってきている。

フランスのある地域交通では住民に発行されるIDカードと交通系ICカードが一体化しており、IC利用はあくまで住民サービスの一環で、それ以外の旅行者は現金で払ってほしいということだった。逆に、最初から域外からの旅行者に開放しているのは外国人の往来も多い国際都市が中心で、ロンドンやシンガポールを見ても分かるように、そういう都市ほどオープンループの導入に積極的だ。その意味では国際都市にも関わらず対応が進んでいないパリが特殊のようにも思える。

パリ=メトロのNavigo専用ゲート。Navigoがそもそも旅行者開放を想定した作りになっていないことからも分かるように、通勤客を捌くことを想定している

NFC Forumが交通系ICカードのスマートフォン搭載の標準を模索するにあたり、「スマートフォン1つあれば世界中どこでも自由に移動できる」というコンセプトを打ち立てている。道のりとしてはまだ遠いが、販売国やキャリアを指定する仕組みは論外で、少なくとも「Apple Pay」や「Samsung Pay」のような仕組みがあれば、世界中どこでも共通して利用できるのが理想だ。近年、Apple Payが急速に交通系ICサービスの対応を拡充させつつあるが、iPhone限定とはいえ「スマートフォン1つあれば世界中どこでも自由に移動できる」という目標達成の近道になっているのは歓迎すべきことだろう。

スマートフォン1台あれば世界中自由に移動できる世界を望みたい

鈴木 淳也/Junya Suzuki

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)