鈴木淳也のPay Attention

第153回

Suicaの幻想と現実

1900年開通のパリ=メトロ。ロンドンやブダペストなどに続く世界最初期の地下鉄の1つとして知られる

先日、France 24の「End of an era: Paris phases out paper Metro tickets after more than a century」という記事の中で、パリの“メトロ”で1世紀以上にわたって利用されてきた「“紙”のチケット」が間もなく廃止されるという話題に触れられていた。

コロナ禍より前にパリを訪問したことがある旅行者にはお馴染みだが、地下鉄やバスに乗車するのに1回券の「t+」という磁気切符があり、これを利用することがパリ市内を旅行するうえで必要だったからだ。「t+」は1枚1.90ユーロだが、これを10枚単位でまとめ買いすると1枚あたり1.69ユーロとなるお得な「Carnets(カルネ)」というものがあり、残りの旅程を鑑みつつCarnetsを購入して使い切るか、あるいは次回のパリ来訪を見越して何枚かを残したりと、ある意味でパリ旅行のシンボルともいえる存在だったかもしれない。

筆者の場合はシャルル・ド・ゴール空港近くのParis Nord Villepinteという展示会場での取材が主だったため、パリの北駅近くに宿を取って(t+が使えない)RERで往復する日々が多かったので、実はCarnetsを購入した機会はそれほど多くなかったが、欧州訪問時は必ずといっていいほど財布の中に「t+」を入れていた記憶がある。

交通系ICカードに慣れた国の民にすれば「いまどき紙の切符?」という気持ちもある。一応、パリにも「Navigo」という非接触式の交通系ICカードがあるが、月曜日から日曜日までの7日間で固定料金のいわゆる「定期券」のようなものしかなく、一般的な旅行者には非常に使い勝手が悪い。以前の記事でも触れたが、後の2019年になって「Navigo easy」という新しい交通系ICカードが登場し、「t+」のような1回券をICカード上に記録して改札を通過できるようになった。Navigo easyではCarnetsの購入も可能で、この場合の1回券の値段は1.49ユーロと、“紙のチケット”に比べてもお得になっている。これは「Oyster」普及を狙って交通系ICカード利用時は通常の紙のチケットに比べて半分の運賃を設定したロンドン交通局(TfL:Transport for London)の施策に近く、Navigo easyがCarnetsを含む「t+」など“紙のチケット”廃止の原動力になることを見込んでいる。

Navigo easyを地下鉄駅の窓口で購入してゲートを通過する

市内を含むイル=ド=フランス域内のパリ近郊鉄道を運行するRATP(パリ交通公団)では、2022年3月にCarnetsの(紙ベースでの)販売をすでに停止しており、前述のようにNavigo easyならびに、間もなく提供が開始されるスマートフォンアプリで“紙のチケット”をすべて代替していく計画だ。もともとCarnetsの廃止は2021年を予定していたが、コロナ禍に加え、ICカード発行に必要な半導体チップの入手が困難になり、計画を先延ばしした背景がある。代替となるAndroidアプリについては2022年内に、iPhoneアプリも2023年には提供を開始するとのことで、膨大な紙の消費と処理コストを削減するのが目標だ。

もっとも、France 24の記事で指摘されているように、すぐに紙のチケットが廃止されるわけではない。少なくとも2024年までは「t+」の発行が行なわれるようで、RERなどの中距離のチケットも含め、まだまだ紙の利用は続く。意図としては、利用が多く消費の激しい1回券を早めに廃止したいという狙いがあるのだろう。

切符券売機は誰がために

Navigo easyの登場により、筆者が今後パリ市内の移動に紙の切符を購入することはなくなるだろう。もう見ることもないだろう「t+」だが、1つ便利だったのが「クレジットカードでチケットを購入できる」という点だ。Carnets購入であれば16.90ユーロを支払う必要があるわけで、現金を用意するよりかはクレジットカードが使える方がありがたい。これはNavigo easyになっても引き継いでおり、カード入手後のチャージ(チケット購入)も券売機を使ってクレカで行なえる。むしろ欧州ではこの手のチケット購入で現金を要求されるケースの方が少ないため、小売店での非接触決済対応と合わせ、現金を使う機会は激減しているといっていい。

Navigo easyでのチケット購入(チャージ)はクレジットカードで行える。むしろクレカが使えないと券売機には紙幣が投入できないため、Carnetsの購入に何枚もユーロ硬貨を投じることになる

翻って日本はどうか。新幹線や特急券など高額切符の券売機での購入や窓口を通じての切符購入でクレジットカード利用は可能だが、一般的な近郊区間の券売機ではいまだ現金しか利用できない。交通系ICカードへのチャージも同様で、やはり現金払いが必要だ。Suicaの場合、みどりの窓口でカードを入手してその場でチャージする場合にはクレジットカードが使えるが、手間暇を考えればJR東日本的には推奨している方法には思えない。基本的に外国人が日本に到着した際、現地の交通サービスを利用するためにまずATMへと走って日本円の現金を入手することが求められる。

それを解決する方法が「Apple PayにSuicaを登録する」ことだったが、以前にレポートしたように現在は海外発行のVisaカードは基本的にすべてSuicaの発行やチャージには利用できなくなっているようだ(Androidの場合は日本向け端末を入手しない限りSuicaもGoogle Pay経由のチャージも利用できないので、正直外国人向けではない)。

このときのレポートで「筆者がJR東日本の対応を非難している」という指摘がいくつかあったが、先方の名誉のために一応フォローしておくと「海外発行Visaカードの利用を止めているのはJR東日本だが、そう仕向けたのは別の会社」という点だけ触れておく。今回の件ではJR東日本がむしろ被害者だが、個人的に筆者が同社を非難したいのはクレジットカード全般に対するスタンスだ。

JR東日本がクレジットカード利用を嫌がる理由は主に2つある。理由の1つめは「現金化」の部分で、クレジットカードで切符を購入して売却することで現金を入手する、いわゆる「キャッシング」行為への対策だ。

Suicaも同様で、チャージして残高を保持した状態で第三者に譲渡しての現金化の可能性がある。Suicaは本来「前払い式支払い手段」のため、他のWebマネーなどと同様にクレジットカードでのチャージが可能でもおかしくない。ただ、Suicaを通じての物販が利用可能なため、例えばタバコのような換金性の高い商品の購入や、Webマネーなど他の電子マネーへ交換できる。ただ、シンガポールのように物販が可能な交通系ICカードへのクレジットカードへのチャージが可能な国もあり、「諸外国での状況や国の関連機関との話し合いを通じて慎重に検討していきたい」(JR東日本)とのコメントを2019年6月の「楽天Suica」の発表時に得ている。それから3年以上が経過しているが、現在も状況に変化はないようだ。

シンガポールのチャンギ空港の地下鉄駅。現金なしでもそのままクレジットカードでICカード入手とチャージを行える。現在ではさらにオープンループ乗車に対応したため、クレジットカードの“タッチ”でそのまま乗車可能

理由の2つめが「手数料」だ。今回問題になっているApple PayやGoogle Payのように国内外の対応ブランドのカードを“基本的に”何でも通すモバイル決済を例外とすれば、「モバイルSuica」が本来持っているクレジットカードの処理システムは、手数料を非常に意識したものとなっている。クレジットカードの世界では「オンアス(ON-US)取引」と呼ばれるキーワードがあるが、これはカード発行者(イシュア)とカード決済処理を行なう管理会社(アクワイアラ)が同一の場合を指す。このメリットは余計なネットワーク(例えば別のカード会社やブランドネットワーク)を通さないことでコストが下げられる点で、加盟店がカード会社との個別交渉によって手数料を大きく引き下げやすい。7payが対応クレカとしてブランドではなくカード会社名を掲示していたことが知られるが、これはオンアス取引を狙ったもので、対応カード会社が中途半端に少なかったのは、交渉途中で無理矢理サービスをリリースしたためと思われる。

当該のモバイルSuicaだが、複数の主要カード会社とオンアス取引を行う「マルチアクワイアリング」方式を採用している。マルチアクワイアリング自体は珍しいものではないが、日本特有のカード処理における複雑性を増す要因の1つとしても認識されている。JR東日本には自社が発行するVIEWカードがあるため、この発行業務を支援するUCカードがイシュアとして存在しているが、オンアス取引を行なっている主要カード会社の決済はそれぞれのアクワイアラに処理を投げつつ、VIEWカードを含む残りの処理はUCカードが行なっているものと思われる。ただ、国外のイシュアと手数料を個別交渉してマルチアクワイアリングを行なうのは現実的ではなく、基本的には例外処理を担当するアクワイアラ1社に任せる形となる。

つまりオンアス取引と比較して手数料が高めになる傾向があり、「あまり海外発行のクレジットカードは使ってほしくない」というスタンスにつながっていると考えられる。実際、手数料が増えたぶんはJR東日本が被らざるを得ず、Apple Payなどではこの条件を受け入れている。

これら2つの理由により、いまだ券売機でのクレジットカードを使った近距離切符の購入やSuicaチャージには対応していない。いま10月11日からスタートする外国人向けのビザ免除プログラム解禁を受け、円安を利用したインバウンド需要の喚起が話題になっているが、これだけキャッシュレス推進と実際の対応が進むなかでの「公共交通利用のための日本円での現金入手」を必須とするのは、国全体の戦略としてどうなのか。Apple PayでのVisaカード利用停止状態と合わせ、日本国内のECサイトが海外発行カードで利用できないといったケースまで、いろいろ外国人にとって不便を感じる意見が出てきている。これら個々の問題に対処できずに「インバウンド需要」という言葉で一律に浮かれていいのか。改めて見直してみたい。

米ユナイテッド航空から届いた日本の10月11日の外国人旅行者受け入れ解禁を知らせるダイレクトメール

Suica至上主義を乗り越える

ここまでは外国人から見たSuicaを含む日本の交通系ICカードに対する不満だが、われわれが普段何気なく利用しているサービスも、別の視点を加えると必ずしもその限りではないことの一例だろう。

もちろん筆者自身は(モバイル)Suicaのヘビーユーザーであり、クレジットカードに次ぐ決済手段として利用している。毎月の利用金額は定期券を含めれば最低でも4-5万円程度には上る。それだけ便利な決済手段であることは間違いない。ただ、過剰にSuicaを褒めそやすのも違うと考えており、いまだ「Suica至上主義」のような意見が見られるのも気になっている。最近、SNSで「もしJR東日本が本気になっていればSuicaで決済業界の覇権を握れた」のような意見を見かけたので、これに少しコメントしたい。

Suica電子マネーの歴史はサービスが開始された2004年にさかのぼるが、自販機を含むエキナカでの利用が基本だった。JR東日本ではもともと自社施設内のテナントを巻き込んだ形でのVIEWカードを絡めた経済圏構築を目指しており、Suicaもまたその一部として利用されていた。2010年代に入ってからマチナカでの拡大が始まり、大手チェーンを中心に導入店舗が増えてくる。駅施設を含む限られた場所での利用を想定していたためか、Suicaのセキュリティは他の電子マネーに比べてやや厳密に運用されており(ネガの更新周期が他社の数倍といった部分にみられる)、接続には高速回線が必要などの制限があった。JR東日本の経済圏からSuicaが飛び出るにあたってこうした制限は徐々に緩和され、レスポンスに秒単位の反応時間があるクラウド処理なども登場し、活用範囲はさらに拡大していった。

ただ@以前のレポートにもあったように、Suicaは公共交通と密接な関係にある。コロナ禍での減少分を埋めるべくJR東日本はさまざまな努力を続けているが、今後大きく決済回数や売上を伸ばすのは困難を伴うというのが筆者の意見だ。

「最初に決済端末を大量にバラまけば天下を取れていたんじゃない?」という意見があるが、それをやっていたのがドコモや三井住友カードなどの陣営だ。円盤形でお馴染みの決済端末に「Edy」「iD」「QUICPay」のロゴが印刷されたものを見た記憶のある方も多いと思うが、当時まだメジャーでなかった非接触決済を日本全国で拡大するための施策だ。少なくとも、当時のJR東日本に自らコスト負担を背負ってまで端末をバラまく気はなく、運用ルールも含めSuica導入の条件を満たせる加盟店はそれほど多くなかったとみられる。

結果として、電子マネーが一般化しつつあった2010年代にようやくチェーン店を中心にPOSの更新に合わせてキャッシュレス決済の導入に傾き、近年は国や自治体の補助金を使ってようやく中小個人店にその波が拡大してきた状態だ。たらればはないが、おそらく当時JR東日本が端末の無料または安価な提供を行なっていたとしても、現在のような普及状況には遠く及ばなかったと考える。

2020年11月26日に開催された「JR東日本スタートアッププログラム2020 DEMO DAY」。JR東日本がバックになって、スタートアップ企業の「Suica」を活用したソリューションの支援を行なっている。Suica活用の幅を広げるための試みだ

もう1つ「2万円の決済上限を開放すればすぐにでも天下を取れる」という話(仮説)だが、これはJR東日本がSuicaの上限数値を引き上げれば済むという単純な話ではない。以前にも触れたように、Suicaはオフライン処理を可能とするために残高(バリュー)をカード内に保持する仕組みを採用している。紛失や盗難時にすぐにカードを無効化できないため(ネガの反映周期に依存する)、無効化までに利用されてしまった電子マネーは基本的に取り返せない。2万円という上限がどのような議論を経て設定されたかは分からないが、「近郊区間の公共交通利用には充分」といった理由のほか、安全性をみて判断されたと考えている。同様の問題はQUICPayなどのポストペイの仕組みでも存在するため、それに準じる形で10万円などに残高を設定することも可能かもしれない。だが、Suicaの決済上限が2万円までということを想定して作り込まれているシステムが世の中には存在している。決済上限についても「1万円まで」などの制限を設定している加盟店が存在し、どのような問題が起こるかは分からない。またクレジットカードと違って「IC+PIN」の仕組みがないため、安全性を確保したうえでSuicaに高額決済を行なわせるのも現状では厳しいと思われる。

結論として、もともと想定していなかった用途に無理矢理機能を拡張して適用しようとしたところで、Suicaの役割がいきなり大きく変化することはないというのが筆者の考えだ。「データビジネスへの活用」という話もあるが、Suicaで追跡できるのはカードが“タッチ”された瞬間のみで、取得できるユーザーの行動属性は限られている。決済上限を開放してクレジットカードの役割も含めてすべて奪えれば状況が変わる可能性があるが、システム的な制約も含め、現状のSuicaのポジションでは難しい。

以前にSuicaの行動データを匿名化して販売しようとしたときに大きな反発を受けて撤回したが、その“不完全な”行動データでさえその有様なので、より精度の高いデータとなれば反発はその比ではないだろう。「限られた商圏の中で、いかにうまくビジネスで立ち回れるか」、それがJR東日本におけるSuicaの現状だ。

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)