西田宗千佳のイマトミライ
第328回
日本で拡大した「録画」はなぜ消えるのか そして同時に消える「文化」とはなにか
2026年2月16日 08:20
先週、ソニーがBlu-rayレコーダーの終売を発表した。
筆者もなぜそうなるか、ということについて解説記事を書いたが、かなり多く読まれたようだ。
一方、この件についていろんな人と話すと、「録画」が日本国内の特別な文化に基づいた製品であることを、多くの人は意識していない。
それに、海外には録画機器がほとんど売られておらず、そもそも存在が認識されていない……ということも、ほとんどの人が知らないようだ。「日本にしか録画がない、というのが信じられない」という反応もけっこうある。
そこでちょっと、録画文化の流れを紐解いておこうと思う。そして、このまま失われるとしたらどうなるかを考えてみたい。
日本にだけ残る「録画」という習慣
録画が生まれたのは、家庭用ビデオが生まれた頃であるのは間違いない。高価な機材としては1960年代に登場、ビデオカセットとしては1970年代に拡大した。これはどの国でも同様。1976年のVHS登場が1つの契機ではあったが、その前から、放送関係者やマニア、富裕層向けの製品は普及し始めていた。VHSやベータマックスも含め、初期にはアメリカにもちゃんと録画文化があった。当時はビデオソフトもまだ少なく、放送を録画する以外に使い道があまりなかったからだ。
それが消えていくには、3つの現象が関わってくる。
1つは、映像が「パッケージソフト」になったこと。レンタルビデオやセルビデオが登場すると、放送よりクオリティの高いものが簡単に見られるようになる。日本はずっと価格が高かったが、他国、特にアメリカは価格が早期に下がり、「安く抑えるために録画する」という考え方を採る必要が薄くなった。
2つ目は、CATVにより他チャンネルの拡大。
多チャンネルになると1チャンネルあたりの放送枠が増える。その結果として、番組の再放送が容易になった。日本は地上波が軸なので再放送枠に限りがあるが、多チャンネル化した国では、いつでも再放送が行なわれている。
特にこの影響はアメリカで大きい。アメリカの場合、番組が「シーズン制」であり、1つのシーズンが終わった後には1年程度の間隔が開く場合が一般的だ。地上波だけの頃は日本と同じようにどんどん供給されて再放送も少なかったが、多チャンネルになるとシーズンの間を、同じ番組の再放送でつなぐことになった。その方が、「そのシーズンを見られなかった視聴者に、次の番組を提示できる」からである。また、時差があり、全国で同じ番組を見るのが難しい……ということも、再放送や時差放送の増加に寄与した。
そして3つ目が「ベータマックスでのタイムシフト訴訟」だ。
1976年、ユニバーサルはソニーに対し、「ベータマックス方式家庭用ビデオでの録画行為は著作権侵害に当たる」と提訴した。これ自体は8年の訴訟の末、「個人が録画することは著作権侵害ではない」という結果が出た。すなわち、録画によるタイムシフトは正当な行為とされたわけだ。
だったら録画が増えるのでは……と思うだろう。
その辺が、映画会社の賢いところだ。タイムシフトの要求が大きいということは、再放送やソフト販売の可能性も大きいということだ。ここから彼らは戦略をシフトし、「コントロールされた形で見る方法を増やして、ビジネスを拡大する」という形に入る。
再放送は増え、ビデオソフトは安価になり、レンタルビデオやセルビデオの市場は拡大する。
結果として、タイムシフトはできるが「しなくてもいいんじゃない?」と思わせる方向へ進んだわけだ。
一方日本では録画需要が定着していく。
理由はいくつかあるだろう。大きいのは「ビデオソフトの価格が高かったこと」かもしれない。ビデオソフトの販売はスタートしていたが、アメリカに比べると高価だった。
また「ほとんどの人が地上波を見ていたこと」も大きい。多チャンネルと違い再放送枠は限られていたので、番組を見逃すと次に見る機会は少なかった。
メーカーが録画機器を作っており、ソフトは高く、録画しないと番組を見逃すことも多かったので、多くの人はテレビの下にビデオレコーダーを配置していたわけだ。
ハードディスク登場まで「録画は面倒」だった
ここで重要なのは、テープ時代の家庭用ビデオの録画予約は非常に面倒なものであり、録画可能時間もテープの長さ=数時間以内に限られていた、という点だ。
もはや忘れてしまった人の方が多いが、日時を設定してテープをセットして録画……というのは結構な手間であり、「なんでもかんでも録画する」のは難しかった。家庭内で録画予約ができるのは1人だけ、というパターンも少なくなかったのではないだろうか。1980年代、まだ実家で暮らす高校生だった筆者は、まさに「家庭にいるただ1人の、録画予約設定ができる人間」だったので、なにかあるたびに家族から設定をお願いされていた。
テープの交換も面倒だし高価だから、不要になったら上書きしていた家庭が多いだろう。
そんな事情もほとんどの人は「自分が狙った番組を録画する」のに使ったわけだ。だから、映画番組やスポーツ、ドラマ、アニメなどがターゲットであり、凝ったラベルを作る行為も存在した。
他国、特にアメリカは前出のように「狙った番組を録画する」ことをしなくても良くなっていた。そうなると、VHSに録画機能はあってもほとんど使われなくなっていくのである。
DVDやBlu-rayが企画化される段階だと、アメリカの映画会社はビデオソフトの配布メディア、すなわち「ROM」にしか興味を持たなかった。前述の筆者記事でも書いたが、録画用のフォーマットに興味を持っていたのは日本メーカーだけ。すなわち1990年代後半には、すでに「録画という行為は、ほとんど日本だけに残るもの」になっていたのだ。
一方日本は、ペインポイント(解決したい課題)である「録画の難しさ」を簡単にする方向に進んだ。録画予約機能の改善が差別化要因になっていったのだ。
こうした状況が10年も続くと、ビデオデッキに対する考え方は大きく変わってしまう。
アメリカでだって「録画」はできるが誰も重視しなくなり、日本では安価にソフトが供給されるようになっても「録画」は家電の大きな役割の1つとして残る。
そして、2000年前後になるとついに「デジタル録画をする」という考え方が出てくる。
アメリカでもTiVOなどのハードディスクを使ったレコーダーが登場し、「番組表を調べなくていいですよ」ということがアピールポイントになる。日本でもソニー・東芝・松下などがハードディスク搭載レコーダーの開発を進めていった。
ハードディスクを使うことで、テープ時代では難しかった多数・長時間の録画が可能になる。同時期にEPG(電子番組表)という概念が登場、画面上で番組を選べば予約できるという、今は当たり前の形が成立することになる。
ここでようやく「見て消し」というスタイルが可能になってくるわけだ。
テープの時代には、よほどのマニアか資料を求める人でなければ、ニュースなどを録画することはなかった。バラエティも、録画はしてもタイムシフトなので上書きで消していたし、「見ないかもしれない番組」は、面倒なので録画しなかった。
だが、録画時間と量、手間の制約がなくなると、なんでも気になったものを録画するようになる。いまとなっては当たり前すぎるから忘れられがちだが、ハードディスク録画が定着するまで、録画するという行為は、ある意味で特別な行為だったのである。
結果として日本では、「見るかわからないものも見て消しのために録画する」というパターンが拡大していった。そのことは、レコーダーにおけるハードディスク容量を、非常に重要な要素にした。
「海外にはニュースやバラエティを録画する人はいないんですか?」と質問されたが、実際のところ、あまりいない。なぜなら、VHSでの録画からハードディスクでの録画、という「録画の進化と文化の変化」がないと、いろんな番組をなんでも録画する、という発想に至らないのだ。
そもそも、録画機器が売られていないから録画しようと思うこともない。
日本ではレコーダーが大きなビジネスになったが、海外ではそうならなかった。ハードディスクレコーダーは注目されたのだが、「いまさらそんなものを買うのにお金を使わなくてもいいだろう」という話に落ち着いてしまったのである。
配信含めた「生活の変化」が録画を過去のものに
デジタル録画になって、録画はハードディスクに行なうのが基本になった。ディスクへの「ダビング」は、残しておきたい特別な番組のため、もしくは他人にその番組を見せたい時のため、と言っていいだろう。
一方で、日本でもソフトの価格が下がっていったので、無理をしてディスクをライブラリ化する人は減っていく。
さらに、コロナ禍以降は映像配信が日常になった。レンタルビデオのディスクを再生する回数は減り、録画についても、TVerやNetflixなどの映像配信があって、録画しなくても良くなった。アニメだと2010年代半ばにはスタートしていた流れだが、それがあらゆる作品に波及していった。
地上波の番組を見る人が減ったことも、録画のニーズ減少には影響しているかもしれない。だが、TVerのニーズは拡大しつづけており、2025年12月には月間動画再生数は6.5億回までになった。開催中のミラノ・コルティナオリンピックもほぼ全競技を無料配信している。むしろ「放送依存が減っている」というべきだろう。
レコーダーの売り上げが下がったことには、著作権保護の強化で、デジタル放送以降はさらに面倒になったことも影響しているだろう。だが、それが主たる要因か、というとおそらくそうではない。
著作権保護でディスクダビングという行為がなくなったというよりも、「人々の視聴行動がどんどんカジュアルになっていった」から、と考える方が正しい。
ハードディスクベースになって録画は簡便化したが、それでも人口比で言えば、録画する人の割合は多くなかったのが実情だ。人々の視聴は放送=リアルタイムが大半であり、録画が多い人の割合は3割を超えなかった。
その辺の事情は今も変わっていないのだが、YouTubeやTVer、Netflixなどの存在により、「知らなかった番組にキャッチアップしていく」行為は一般化し、さらに「放送は見ないで配信だけを見る」という人も増えてきた。
そうやってカジュアルな録画ニーズが侵食されていくと、その中でも「面倒で一部の人しかしない、ディスクダビングという行為」が商業的に成り立たなくなっていった。
今起きているのはそういう変遷の果てだ。
強い著作権保護で消える「残っていた余白」という文化
Blu-rayレコーダーの課題は、「録画されたデータを別のメディアに移行するのが難しい」ということだ。ディスクには著作権保護がなされており、暗号を解かないかぎり、録画した番組をデータのまま他のメディアにコピーすることはできない。
録画メディアはいつか傷み、再生できなくなる。5年・10年は大丈夫かもしれないが、どんどん「読めないディスク」は増えていくだろう。再生可能なレコーダーも、今後は減っていく。
録画された番組の中には貴重なものもある。
もちろん、「番組」は別の形で残る可能性もあるし、配信もされるかもしれない。
だが、放送時に流れていたCMはソフトとして供給されることは稀だ。たまたま流れていて一緒に録画していたニュースも同様だ。
放送されたバージョンが、なんらかの事情でソフト化されるものとは異なる場合も多い。十数年前まで、映画の吹き替えは「テレビ局版」と「ソフト版」が異なっているものであり、複数のバリエーションがあった。それらの大半は、もはや録画の中にしかない。権利者の手元にはあるかもしれないが、権利処理やその費用の問題から、ソフト化されない場合も多い。
どれも、ある意味で歴史の中に存在する「余白」のようなもので、永続するコンテンツではない。しかし、その時の文化や風俗を残す大切な素材でもある。
Blu-rayレコーダーが売られなくなっても、ハードディスクには録画ができる。だから録画文化は残るし、ソフトとしてのBlu-rayディスクも、当面は消えない。
だが、そこに残ったものを永続的に残すのは難しい。コピーしてメディアを変更し、中身を生きながらえさせるには法律を犯さねばならないためだ。
日本では厳格な暗号化が導入されると同時に、著作権法によって「暗号化などを回避してコピーする行為」そのものが、個人の私的利用であっても違法化されている。録画したディスクに残る余白という文化は、取り出すと違法なのだ。
現状、個人が自分のために行なう「暗号化の回避と複製」自体には刑事罰は存在しない。
とはいえ、文化を残すための行為が法を犯すことでしか行えないこと、誰かが法を犯した結果として、見られる形で残るということは、本当に良い状況なのだろうか?
ビジネスが厳しいほどの状況だったのに、私的録画補償金制度、通称「ブルーレイ補償金」は、2025年12月1日からスタートした。この制度はなにを守ろうとしていたのだろうか。そこで得られる保証金はあまりに些少で、とても権利者それぞれには配分できる額にならないのに。
文化とは権利者だけが作るものではない。残った結果として文化になるものもある。
録画は日本が50年にわたって作り上げた、世界にあまりない文化である。
生活の変化でそのニーズが消えるのは、必然なのかもしれない。一方で、録画が生み出した副次的な文化・風俗は、そのまま消えてしまっていいのだろうか。
皮肉なことに、アメリカには録画文化はないが「フェアユース」規定はあるので、個人が残した録画をある種の形でコピーして残すことは可能である。











