ニュース
運慶円熟期の国宝7体が東京国立博物館にやってきた!
2025年9月13日 08:30
毎年、日本をはじめ世界中の博物館や美術館、それに寺社から、美術品の名品や傑作が集まる東京国立博物館。今年は、奈良にある興福寺の北円堂から、仏師・運慶による《弥勒如来坐像》、それに《無著菩薩立像》と《世親菩薩立像》など7体の仏像が集まった。
いずれも国宝に指定されていることからも、今回の特別展「運慶 祈りの空間−興福寺北円堂」が、どれだけ貴重な機会かが分かる。
会期:2025年9月9日~11月30日
会場:東京国立博物館 本館特別5室
料金(前売券):一般 1,500円/大学生 700円/高校生 400円
料金(当日券):一般 1,700円/大学生 900円/高校生 600円
なお特別展の観覧者による撮影は不可。以下は、主催者の撮影許可を得たうえで掲載している。
藤原不比等や長屋王など歴史の重要人物が建立に関わる北円堂
興福寺は、白鳳時代の天智8年(669年)に前身の山階寺(やましなでら)が造営されたと伝えられる、国内有数の古刹。平城京に遷都した和銅3年(710)……つまり奈良時代の最初期に、藤原氏の2代である不比等(ふひと)によりほぼ現在の場所に移され、興福寺と名付けられた。
その現在の地とは、平城京のかつての中心である大極殿跡からは、東方に約1時間ほど歩いた場所にあり(5km前後)、JR奈良駅からだと同じく東に15分ほどのところにある(いずれもGoogleマップによる)。
そして興福寺の北円堂は、同寺の本堂である中金堂のほぼ西に位置する、八角円堂のお堂。日本史の教科書風に説明すれば……日本初の体系的な法典「大宝律令」を制定した藤原不比等の功績を称えるために、その一周忌に元明・元正天皇の発願により建立された。その建立を指揮したのが、左大臣として「三世一身の法」などを制定し、8年後に謀反の罪により追い込まれることになった長屋王だったという。
そんな北円堂は、建立から約300年後の永承4(1049)年に焼失してしまう。後に再建されたものの、平安時代の末期に平家の勢いに陰りが見え始めた治承4(1180)年の、平重衡による南都焼き討ちの際に北円堂も焼けてしまった。そして興福寺を含む、南都……奈良の諸堂宇が灰燼に帰した後に、その復興が始まったのは鎌倉時代だった。その復興時に活躍したのが、誰もが知る運慶だった。
運慶が作った仏像空間を展示室に再現
運慶は鎌倉時代を代表する仏師で、各地に運慶作と伝わる仏像が多く残る。その中で、運慶作と確実視されるものは少なく、現存する多くは国宝に指定されている。なかでも運慶が晩年に一門を率いて制作し傑作の呼び声の高いのが、興福寺北円堂に安置され、いずれも国宝に指定されている弥勒如来坐像、それに無著菩薩像と世親菩薩像だ。
ちなみに筆者は浅学のため「弥勒なのに如来像なの?」と……「弥勒はまだ修行中の菩薩だよな」という、おそらく仏像界隈では初歩的な疑問を抱いていた。だが、調べてみると、弥勒菩薩は如来になることが約束されているため、北円堂の《弥勒如来坐像》に限らず、弥勒が如来になった後のお像も作られてきたそうだ。
同館の保存修復室長の児島大輔さんは、ゆったりと構える右手の所作などは奈良時代の仏像特有の姿に似ているという。運慶は、建立時に安置されただろうお像を想像しながら、それでいて新しい様式を織り交ぜながら作っただろうことが伺えるという。
また、《弥勒如来坐像》の像内には、納入品があることが分かっている。頭部には、運慶作と推測される弥勒菩薩立像とその願文、これらを収めた厨子、そのほか五輪塔と宝篋印陀羅尼経があることが分かっている。さらに胸には、仏の魂である心月輪をあらわした、ピンポン玉くらいのサイズの水晶珠が納められている。展示室では詳細な解説もされているため、それを読んでから対面すると、また異なる感覚で見られるだろう。
《弥勒如来坐像》の後方の左右に立つのは、いずれも実在した無著と世親の菩薩像。日本史の教科書や資料集にも頻出するため、「おぉ……これがあれかぁ」と、懐かしさを感じる人も多いだろう。
こちらの国宝の《無著菩薩立像》と《世親菩薩立像》のみどころの1つは、両像とも水晶の板を目にはめこんだ「玉眼」が採用されていること。
「(両手で包みを捧げ持つ)無著菩薩立像は、瞳が奥まったところにあるため光を当てるのが難しいのですが、正面よりも少し左右から見ていただくと、憂いをたたえたまなざしをご堪能できると思います。一方の世親菩薩立像は、大きく目を見開いています。そのため、涙をたたえているような、うるうるしているような、それくらい目が光って見られると思います」(児島さん)
なお、今回展示されている仏像は、すべて周囲を360度ぐるりと回って見ることができる。特に、通常は光背を配置している弥勒如来坐像の背中を、これだけまじまじと見られるのは今回だけ。猫背気味に頭部を前へ突き出す姿勢などに鎌倉時代彫刻に特有の表現形式を見て取ることもできるそうなので、注目しておきたい。
四天王像についても語るべきことは多い。仏像は、安置されるお堂または寺院が変わることがある。現在、北円堂に安置されている仏像も、先述の弥勒如来坐像や無著と世親の菩薩像は運慶などの一門が制作したものだが、四天王像については運慶の時代よりも古い、もともと大安寺にあったものだという。
では、運慶や一門が制作した四天王像はどこにあるのかといえば、現在、興福寺の中金堂に安置されているものが、最有力だという。そこで児島さんは、「もともと運慶らが作った空間を再現するため、今回は興福寺さんに無理を言い、(現在、中金堂に安置されている)この四天王像を展示することをお許しいただきました」と語る。
四天王像を含む展示されている全ての仏像の向きにもこだわっている。
「本来は、(弥勒如来坐像、無著と世親の菩薩像が置かれている)中央の八角のステージの中に(四天王像も)立っていらしたはずです。大きなお像が全部で9体、あの狭い空間にいるとなると、本当に運慶による濃密な祈りの空間というのが、作られていたんだろうなという風に思っています」(児島さん)
さらに、四天王が当初どのように安置されていたか、向きはどちらを向いていたのか、正面を向いていたのかなどを児島さんらは検証。その結果、弥勒如来坐像から放射方向に向いているのが、一番しっくりするのではと考えたという。
「この持国天像をここに安置……まぁ展示をした時にですね、『あ、これが正解だろうな』と、私は勝手に思いました。体をこう斜め外、このお堂で言うと南東の方角を向いているわけですけれども、そうするとですね、持国天像の目線が、ちょうど正面を向いて、弥勒如来像と同じ方向に視線を向けるんですね。これが何と言うか、もう気持ちよく、この空間を作ってくれているなという風に思いました」(児島さん)
児島さんは続けて「この四天王像も弥勒如来像と同様に、奈良時代のお像をオマージュしたというかお手本にしつつ、さらに運慶自身の当時の鎌倉の新たな様式を取り入れた、大変素晴らしいお像です」と解説する。特に顔のパーツを中央に寄せた姿などは、例えば東大寺法華堂の金剛力士像の姿とそっくりだとする。
なお展示されている四天王像は、運慶作とは断定されていない。それでも児島さんは「やっぱり、この力強い写実的な表現っていうのは、天平彫刻を手本にしながらも、運慶たち独自の特徴がそこかしこに見える」とも語る。
例えば目の表現方法について、四天王像では、そのまま木材を彫って作る「彫眼(ちょうがん)」という手法が採用されている。碁石をはめこんだように見える目が、北円堂が建立された当時の天平から奈良時代に作られた塑像の四天王像の目と、雰囲気が似ているのだという。そして児島さんは、おそらく運慶は四天王像についても、奈良時代の北円堂の諸像に雰囲気を寄せて、復興させようとしたんじゃないかと推測する。
「そうしたことに思いを馳せながら、展示会場をぐるりと巡り、四天王越しに見える中央の三尊を、ぜひご覧になっていただきたい。そして運慶の意図が、7体で揃って再現されているのは、お寺ではご覧いただけない、ここだけの特別なことです。それをご堪能いただければなと思っています」(児島さん)
そして会場を出てすぐ左側の、本館11室は、特別展の余韻にひたりながら、じっくりと見ておきたい。
この東博コレクション展では、平安時代に作られた《金剛力士立像》が見られるほか、9月28日までは、同じく平安時代につくられた京都・浄瑠璃寺蔵の国宝《広目天(四天王立像のうち)》など、奈良から鎌倉時代に作られた、特別展の“ついでに”見るのには惜しい、各時代の仏像の優品が多く展示されている。
もちろん、そのほかにも見るべきものは多い。特別展を観覧する日には、歩きやすいスニーカーなどを履いてくることをおすすめしたい。



















