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武蔵村山市に悲願の鉄道! 多摩モノレール延伸区間・箱根ケ崎まで全踏破
2024年7月30日 08:20
7月7日に投開票された東京都知事選挙は、現職の小池百合子氏が当選を果たしました。2016年から始まった小池都政は3期目に突入します。
小池氏が初出馬した2016年、7つのゼロを公約に掲げました。そのひとつに多摩格差ゼロがあります。東京23区と多摩とは、病院や道路などインフラ整備で格段の差があります。それらを多摩格差と呼びますが、小池氏が掲げた多摩格差ゼロが具体的に何を指しているのかは明示されていません。
選挙期間中、小池氏は青梅市の河辺駅で街頭演説を実施。そこでは多摩格差ゼロの実績として、多摩都市モノレールが箱根ケ崎駅まで延伸することを挙げました。
箱根ケ崎駅への延伸は2022年12月に決定し、2024年7月23日には多摩都市モノレール株式会社が軌道法に基づく特許を国土交通大臣に申請。開業時期は2030年代半ばを目標としています。
延伸決定から約1年半が経過したわけですが、多摩都市モノレールの延伸はどこまで進んでいるのでしょうか? 現場を歩いて確かめてきました。
多摩エリアの南北を結ぶモノレールが青島幸男知事の時代に開業
東京都内は、あちこちに鉄道が走る交通アクセスに優れた都市といえます。特に東京23区内は網の目のようにJR線・私鉄・地下鉄が走っていますが、三多摩と言われる26市1町1村は23区ほど鉄道が整備されていません。
多摩では昭和30年代から官民による住宅地の開発が進められてきました。そうした背景から、多摩は23区のベッドタウンといった性格を帯びています。
ベッドタウンに欠かせないインフラは、たくさんあります。病院や学校、日常生活に必要な商業施設などが代表的ですが、通勤・通学の足となる交通インフラの整備も重要です。
時代の経過とともに、渋谷・新宿・池袋といった副都心へと向かう鉄道路線は充実していきます。一方、多摩エリア間を結ぶ鉄道網は明らかに整備が遅れていました。
そこで浮上したのが、多摩エリアを南北の鉄道で結ぶ多摩都市モノレールの構想です。当時の都知事だった美濃部亮一氏は1971年の都知事選で「空と広場の東京構想」という理念的な政策を掲げました。同政策は自然環境や良質な住環境を保ちながらも、その一部には立川や八王子といった多摩エリアの振興策も盛り込まれていました。
こうした美濃部氏による推進と、後任の都知事になった鈴木俊一氏によって、多摩発展の起爆剤として南北の鉄道網の計画が着々と進んでいきます。
その後、さらに都知事は青島幸男氏へと交代。1997年に立川北駅-砂川七番駅間が開業を果たしたのです。そして、翌1998年に砂川七番駅から上北台駅までが延伸開業。これにより立川北駅-上北台駅間をモノレールで移動できるようになりました。
上北台駅へ線路が到達した後、多摩都市モノレールは進路を南へと変え、2000年に立川北駅-多摩センター駅間を開業します。立川駅を軸に、多摩都市モノレールは総延長を約16kmまで拡大したのです。
しかし、それから20年以上も多摩都市モノレールは延伸しませんでした。1981年に東京都が作成した報告書には、約93kmものモノレールの整備計画が記載されています。
同計画は白紙に戻されたわけではありません。事業としては、いまだ継続中です。それにも関わらず、多摩都市モノレールの延伸計画は長らく膠着状態になっていました。
2022年、再び多摩都市モノレールの計画が動き出します。北端の上北台駅から箱根ケ崎駅までの約7kmの区間に建設のGOサインが出されたのです。
東京都都市整備局の発表では、上北台駅からの延伸ルートは新青梅街道を西進して八高線の箱根ケ崎駅東口へと至る約7km、延伸区間には7駅が新設される予定です。つまり約1km間隔で新駅が開設される想定です。
同区間の延伸を、特に待ち望んでいたのが武蔵村山市でした。なぜなら、武蔵村山市は東京都内で唯一鉄道が走っていない市だからです。多摩都市モノレールの延伸が実現すると、武蔵村山市の交通アクセスは飛躍的に改善されることが期待されています。
武蔵村山市から立川市への通勤・通学のみならず、東京23区への通勤・通学需要も生まれることでしょう。それは武蔵村山市のベッドタウン化を促進して人口増も見込めます。そうした事情から、武蔵村山市は早期の延伸を働きかけてきました。
戦争で波瀾万丈を経験した立川もモノレールを契機に開発が進んだ
武蔵村山市の悲願でもあり、多摩振興の起爆剤とも言える多摩都市モノレールの延伸区間を歩く前に、多摩都市モノレールの要ともいえる立川駅周辺の様子も見ておきましょう。多摩都市モノレールはJR中央線の立川駅を挟んで南側に立川南駅、北側に立川北駅があります。
立川駅は駅の南北どちらにもペデストリアンデッキが整備され、そこから繁華街が広がっています。南北のにぎわいは甲乙つけがたいものがありますが、北口側は1977年に全面返還されたアメリカ軍基地だった土地です。全面返還から約45年の歳月をかけて、大型商業施設・公共施設が立ち並ぶエリアへと変貌を遂げています。
アメリカ軍が同地に基地を置いた理由は、この土地のルーツにあります。立川一帯は戦前期に大日本帝国の陸軍が航空機の開発・研究に取り組むために研究所や飛行場などを集積していたのです。
大日本帝国には空軍はなく、陸軍と海軍が競うように研究を重ねていました。立川は陸軍が航空機の研究拠点にしており、それに伴って民間の航空機メーカーや部品メーカーなども立川周辺に多く集まってきていました。
そうした航空関連の公的機関や民間工場が集まる都市になったことから、関係者からは空都と呼ばれることもありました。
空都は戦後に出直しを迫られます。アメリカ軍の基地となるのです。それから1977年の全面返還までは自由に使用できませんでした。全面返還後に広大な空き地が出現し、それを急速に開発する必要性が生じます。それが多摩都市モノレールを整備する大義名分のひとつになりました。
多摩都市モノレールの特徴は多々ありますが、立川駅北側には記事の冒頭にある写真の通り、モノレール下にサンサンロードと命名された約550メートルの自転車・歩行者専用道路が整備されています。サンサンロードには緑が溢れ、座って休憩できるベンチも多く設置されています。
サンサンロードを歩くと、犬を散歩させている人やジョギングを楽しむ人など、市民の憩いの場になっていることを窺わせます。
戦前期は航空機を研究・開発していた空都が、戦後はアメリカ軍の基地となり、全面返還から約30年を経て都市開発が始められるところまでたどり着き、そして市民に有効活用されるようになっているのです。
そんな波瀾万丈を経験した立川ですが、モノレールが整備されてから開発が進んでいき、多摩エリアの中心的な都市になっていきます。立川市の人口は約18万5,000人。同じ多摩エリアに属する八王子市は約57万8,000人、町田市は約43万2,000人です。決して人口が多い都市ではありませんが、多摩都市モノレールが立川を交通の要衝地にし、それがにぎわいを生んでいるのです。
立川の発展、ひいては多摩全体の振興を牽引する多摩都市モノレールに乗って、まずは終点の上北台駅を目指してみましょう。モノレールは平日のラッシュ時なら6~7分間隔で運転されているので、待たずに乗れる印象です。始発は5時台、終電は23時台と、これも日常生活でストレスを感じることないでしょう。立川北駅から上北台駅までは約13分と短い乗車時間です。
これだけを見ても、明らかに多摩都市モノレールは便利な公共交通機関であることがわかります。鉄道駅がない武蔵村山市が、長年にわたって延伸を待ち望んでいるのも納得です。
都内で唯一鉄道が走っていない武蔵村山市の現在
終点の上北台駅で下車して、最初に目に飛び込んでくるのが駅前のロータリーです。上北台駅は東大和市に所在しているので、東大和市のコミュニティバスが発着しているのは不自然な光景ではありませんが、同駅のロータリーからは武蔵村山市のコミュニティバスも発着しています。
武蔵村山市は鉄道駅がないので、市内各所から上北台駅までの市民の足を担っているとも解釈できますし、上北台駅から徒歩2~3分で武蔵村山市内に入ることからも、上北台駅が多くの武蔵村山市民に利用されていることが窺えます。
また、上北台駅は埼玉県境にも近く、埼玉県所沢市に所在している西武球場へのバスも発着しています。
多摩都市モノレールの軌道が建設される予定の新青梅街道との交差点から、上北台駅を眺めてみると、レールが延伸しやすい構造になっていることがわかります。
軌道が建設される新青梅街道は、片側2車線の全4車線道路です。決して狭い道路というわけではありませんが、自動車の交通量を考えると、ここにモノレールの橋脚などの構造物を建設するのは空間的にも狭くなり、厳しいように感じます。
そのため、新青梅街道は拡幅工事の予定が立てられています。新青梅街道は南北どちらの土地も道路事業用地としての収用が始まっています。筆者の見立てでは、道路の収用は8割以上が完了しているように思えましたが、まだ全区間で道路を掘り返したり、街路樹を移植したりといった工事の準備をしているようには見えませんでした。
新青梅街道の拡幅工事は多摩都市モノレールの軌道工事と同じタイミングで進めることで工期・工費の両面からも効率的と思われますので、そのタイミングを待っているといった印象です。
柵で囲われた道路事業用地が延々と続く新青梅街道を西へと歩き始めると、すぐに東京消防庁北多摩西部消防署がありました。それを通り過ぎると東大和警察署があり、その交差点から武蔵村山市域へと入ります。
東大和市から武蔵村山市へと住所は変わりましたが、特に目に入ってくる光景は変わりません。いかにも郊外ベッドタウンといった街並みで、馴染みのある全国チェーン店がロードサイドに並んでいます。道路状態にも変化は感じられません。
延々と新青梅街道を歩いていくと、空き地に武蔵村山市と武蔵村山市議会の連名による「みんなの願い!! モノレール延伸!!」と書かれている看板を発見しました。
筆者は以前にもモノレール建設予定地である新青梅街道を歩いたことがあり、そのときは似たような看板をいくつか見かけました。ところが、今回は武蔵村山市と武蔵村山市議会による看板は1つしか見つけられませんでした。恐らく、上北台駅からの延伸が正式に決まったので、それらの看板は役目を終えて撤去されたのではないかと推測しています。
さらに西へと歩くと、新青梅街道は多摩大橋通りと交差します。多摩大橋通りを南(左)へと進むと大型商業複合施設のイオンモールむさし村山があります。広大なショッピングモールは武蔵村山市と立川市にまたがっています。
もともと同地では、日産自動車の主力工場でもある村山工場が操業していました。日産は日本で指折りの自動車メーカーですが、さらに遡ると元プリンス自動車工業の工場地でした。プリンス自動車は立川飛行機の技術者が立ち上げた会社です。ここにも空都とのつながりを見ることができます。
さらに西へと歩いていくと、野山北公園の自転車道が現れます。同自転車道は両脇を高木で包まれているような雰囲気を醸し出しているので公園の延長線上のようにも見えます。しかし、この自転車道は公園の延長線として整備されたものではなく、もともとは東京市(当時)が建設した軽便鉄道線の廃線跡でした。
昭和初期、東京市の人口が急増して深刻な水不足が発生しました。そこで、東京市は水不足を解決するために村山貯水池と山口貯水池を計画。それら2つの貯水池に作業員・資材を運ぶための軽便鉄道が敷設されました。この軽便鉄道の線路跡が自転車道に転用されたのです。
ちなみに、東村山市にも村山軽便鉄道という軽便鉄道が建設されています。名前が似ていることや場所が近いこと、同じような役割が課されていたことから混同されることも多いのですが、2つの軽便鉄道は別の路線です。
軽便鉄道は1944年に廃止され、終戦後はそのまま放置されました。それが自転車道として生まれ変わったのです。自転車道には約300本の桜が植えられて、今では多くの市民に親しまれる空間になっています。
この自転車道を過ぎると、今度は残堀川が見えてきます。残堀川の周辺には小さいながらもひまわり畑が点在し、東京都内とは思えないような光景に出会えます。なぜ、こんなところにひまわり畑があるのだろうと不思議に思うところですが、それは新青梅街道から少し南に入った場所に立地していた都営村山団地と関係があります。
5,260戸という都内最大規模を誇る都営村山団地は、1966年から入居が開始された古い団地です。老朽化も激しく、1990年代後半から段階的に建て替え事業が始められました。
建て替え事業中、武蔵村山市は空き地になっていた都営住宅跡地に2011年にひまわりガーデンをオープンさせました。ひまわりガーデンは、空き地のままだと不法投棄や雑草が生い茂るなど環境悪化を防止するための政策でした。
2023年5月、都有地の返還期限を迎えました。そのため、ひまわりガーデンは2022年夏で見納めになりました。それでも新青梅街道にはひまわり畑があり、ひまわりガーデンの面影を今に伝えているのです。
残堀川を過ぎると、武蔵村山市から瑞穂町に入ります。モノレールが延伸を予定している箱根ケ崎駅は瑞穂町内に立地しています。つまり、瑞穂町には鉄道駅が存在し、鉄道駅がない武蔵村山市とはモノレールに対する温度差を感じます。
その一例が、新青梅街道に建てられている看板です。先ほども紹介した武蔵村山市の看板は、「みんなの願い!! モノレール延伸!!」との文言が書かれ、強調の意図を込めた「!」が多用されています。一方、瑞穂町の看板は「ひと・ゆめ乗せて瑞穂町へ」と落ち着いた文言になっています。
そんな看板を横目に見ながら歩いて行くと、七叉路とも九叉路とも見える複雑な形状の交差点が出現します。この交差点の南側には横田基地があり、フェンスで囲まれた敷地には英文の警告標識も見られます。横田基地はアメリカ軍基地といった雰囲気を放っていますが、その交差点を北へと進むと箱根ケ崎駅に到着します。
多摩都市モノレールの延伸区間は約7kmと短く、ゆっくり歩いても2時間程度で踏破できます。
建設予定地となっている新青梅街道には、現在のところモノレールを思わせる構造物はありません。それらが姿を現すには、まだ時間がかかるでしょう。そして、モノレールの延伸が実現するのは、さらに先の話です。