鈴木淳也のPay Attention

第264回

普及への道筋が見えてきたmdocの「デジタル学生証」

重要文化財の札幌時計台。もともとは札幌農学校(現在の北海道大学)の演武場として建設されたもの

本連載でも過去に何度か「デジタル学生証」の話題に触れてきたが、今回はその最新アップデートになる。

12月1日から3日まで北海道札幌市の札幌コンベンションセンターで開催された大学ICTの年次大会「AXIES 2025」において、フェリカネットワークスは以前のレポートでも紹介した「学生証プラットフォーム」のサービスを2026年4月に開始すると発表している。

「デジタル学生証」は、プラスチックや紙で発行される既存の学生証をデジタル技術で置き換えたものだ。

“学生証”が必要とされる場面において、この「デジタル学生証」が有効なものであることを証明しつつ、学割定期や各種割引サービスなど、実際に「デジタル学生証」を用いてそれらサービスが利用できることが重要だ。

そのために「デジタル学生証」の“有効性”を確認する仕組みを構築しつつ、各種サービスを提供する事業者らの協力を得なければいけない。

この仕組みを各大学や関連技術を提供するITベンダーが個別に構築することも可能だろうが、コスト高になるうえ、相互運用性がないためにサービス提供事業者側の負担が高くなるだけでなく、例えば単位互換制度を使って学生が大学を跨いで授業や試験を受ける際などに不都合が生じることになる。

そのため、基本的な仕様は共通化し、相互連携を容易にするための共通基盤が「学生証プラットフォーム」ということになる。

「学生証プラットフォーム」の特徴は大きく2点あり、1つは「iPhoneのマイナンバーカード」でも採用されているデジタル身分証明書のウォレット上での管理や検証を可能にする業界標準の「mdoc」の仕組みを採用していること。もう1つは、国立情報学研究所(NII)との連携でデジタル学生証における“国内標準プロファイル”を定め、これに準拠した点にある。

過去の連載でも触れたように、この“国内標準プロファイル”はOpenIDなどとの連携を通じて国外教育機関との相互運用を可能にすべく国際標準化を目指しており、将来的に広く利用される可能性が高い。これら特徴をもって、「学生証プラットフォーム」に賛同する教育機関や関連ベンダーを広く集めることが今回の発表の狙いとなる。

「学生証プラットフォーム」について
「学生証プラットフォーム」における2つの特徴
「学生証プラットフォーム」を実際にどのように運用するのか

「学生証プラットフォーム」の広がり

こうした共通プラットフォームに注目が集まる背景には、昨今の大学事情がある。年々国際間での大学の競争が激化する一方で、特に日本の大学においては財政難が課題として上がっていることがある。以前のレポートでも触れた名門国立の大阪大学でさえ例外ではなく、同学内でありながら部門間で独立してシステムやデータベースが存在しており、競争力を高めるうえでデジタルによる効率化が至上命題となっていた。同大学でDXを推進する鎗水徹教授は、OUID(大阪大学ID)で学生や教職員のみならずOBOGや地域コミュニティまで巻き込んだ統合IDを導入し、さらに学生に必要とされる情報やサービスを統合した「マイハンダイ」アプリを提供し、この課程で「デジタル学生証」をその機能の一部として実装した。

一方で、この形で提供された「デジタル学生証」には課題もあり、例えば通学に必要な学割定期券の発行がこの仕組みで発行できるか、また入退館や試験時の本人確認の仕組み(従来はカードリーダー装置の利用や物理カードを席に置くことで対応)に利用できるかなど、単純にデジタルで置き換えるにはさまざまな問題を潰す必要がある。前者については交渉の末、大阪メトロと京阪電気鉄道の2社を除いておおむね成功したが、後者については物理カードの利用が前提だった部分があり、カードの再発行コストを含めたシステム構築をどのように進めるかという問題が残っている。

その解決策の1つとして登場したのが「学生証プラットフォーム」を使った本人確認手段であり、以前に大阪大学で実施された大学DXセミナーではそれを実現するためのソリューションが紹介されていた。

大阪大学でDXを推進する鎗水徹教授

鎗水氏が訴えるのは「日本国内に800以上ある大学がそれぞれ独自にシステム開発を行なうのは無駄であり、システムは共通のものを利用しつつ、浮いたリソースを大学本来の役割である『教育』や『研究』に振り向けるべき」ということで、大阪大学で培われたDXノウハウを積極展開しつつ、「共創しつつ競争する」を実現することにある。標準化はそのための第一歩というのがその意見だ。

実際、「学生証プラットフォーム」の取り組みに賛同する大学として、下図のスライドにあるように、東北大学や放送大学、立命館大学、同志社大学、大阪大学、広島大学などが挙げられている。

賛同がイコールで導入本決定というわけではないが、今回登壇した鎗水氏の在籍する大阪大学自身も「本決定と調達プロセスは別に走らせる必要がある」(同氏)ということで、展開はこれからまだ先ということになる。

プラットフォームを提供するフェリカネットワークスも、徐々に採用の輪を広げていければいいというスタンスなので、あくまで重要なのは標準仕様としてプラットフォームが認められることにある。なお、リストに挙がっている広島大学は2026年のAXIES年次総会の開催場所でもあるため、同プラットフォームを取り入れた何らかの取り組みが紹介される可能性がある。

「学生証プラットフォーム」に賛同を表明している大学群
北海道大学キャンパス内にあるウィリアム・クラーク氏の胸像

物理カードからモバイルへ

「学生証プラットフォーム」について、「mdoc(ISO/IEC 18013-5)」で実施されるIHV(Issuer, Holder, Verifier)の3パーティモデルについては過去の記事で詳しく解説しているので、そちらを参照してほしい。今回は、以前からのアップデートと今後について少しまとめる。

アップデートの1つは、大阪大学の事例で紹介されていたCoke ONアプリを利用してのキャンペーン登録の仕組みだ。

mdocを構成する標準仕様のうち、「ISO/IEC 18013-5」は主に対面での本人確認を想定したものだが、「ISO/IEC 18013-7」は“オンライン”での本人確認を想定したものであり、今回はCoke ONアプリのデモンストレーションでこのオンライン本人確認仕様を採用している。ワンクッションあるが、Holderの持つ本人確認情報の提示が必要とされる場面で表示されたQRコードをスキャンするとBluetoothでのリンクが確立され、これを通じてオンライン上のキャンペーンページに必要な情報を送信する。目の前のデバイスを経由してやり取りをする形となるが、物理的に離れた場所からの情報送信だったり、本人確認情報のみを利用して他人が応募したりといった事態を防ぐ効果があるという。

Coke ONでキャンペーン応募を行なうにあたり、表示されたQRコードをHolderのデバイスで読み込む
Bluetoothでリンクを確立する
通常のmdocの仕組みと同様に、必要な情報を送信して応募する

また「学生証プラットフォーム」の展開にあたり、mdoc学生証をベースにした「FCFキャンパスフォーマット」のICカードの発行を可能にする仕組みを検討している。

FCFキャンパスフォーマットとはFeliCaをベースにした教育機関向けのICカード(学生証)の仕様で、設置されたFeliCaリーダーに対応カードを“タッチ”することで入退館管理などが可能になる。本人確認書類であると同時にセキュリティカードも兼ねたものだが、このFCFキャンパスフォーマットに沿ったデジタル情報をmdocの発行システムを起点に学生の持つスマートフォン(Android)に書き込むことで、既存のFCFキャンパスフォーマット準拠のICカードリーダーやシステムを維持しつつ、スムーズにmdocベースの「学生証プラットフォーム」を導入できるというもの。

従来は物理のICカードが中心だったと思われるが、現在大学生でスマートフォンを所持していない層の方が少数派で、前述の鎗水氏の話にもあるように大学DXの話題でモバイルへのシフトは欠かせない流れとなる。

特に、「学生証プラットフォーム」で利用されるmdocの仕様は「モバイル端末」の利用を前提としており、デジタル学生証との親和性が高い。一方で、既存の物理のICカードを前提にしたシステムは一括置換が難しく、設備投資も膨大になる。ならば、「学生証プラットフォーム」で既存のハードウェア設備はそのまま使えてしまえた方が理にかなっている。フェリカネットワークスでは「FCFキャンパスカードのモバイル化」について意見募集を行なっており、こうした流れを支援している。

FCFキャンパスフォーマットのICカードをモバイル化する仕組み。mdocベースの「学生証プラットフォーム」との親和性を高める
札幌の繁華街すすきのの夜の風景

IDを中心にしたエコシステムと海外連携

根本の話になるが、「学生証プラットフォーム」でフェリカネットワークスは何を狙っているのだろうか。mdocの仕組みで鍵となる「(デジタル)IDウォレット」を自らリリースするわけではなく、既存の学生向けアプリを提供しているベンダーと連携する形で「学生証プラットフォーム」の標準化に力を注いでいる。またシステムについても周辺整備は提携パートナーと連携する形で、本体はmdocのVC(Verificable Credential)の発行や検証を行なうプラットフォームとSDKの提供にとどまる。“薄皮”の状態でクラウドサービスを提供する事業者という位置付けだが、最終的なユーザーである大学と直接取引するわけではなく、「B2B2B」のビジネスモデルでフロントとなるベンダーの背後で必要な要素を提供する役割だ。

フェリカネットワークス事業開発部の多田順氏によれば、そもそもの発端は「FeliCaに頼らない新規事業をフェリカネットワークス内に立ち上げる」というミッションを受けて新規事業開発に配属されたことにあるという。

その中でmdocを使った「ID」事業に注目し、リサーチの末にデジタル化において諸処の問題を抱えつつも、一定のルール作りがしやすく将来的な展開が見込める文教分野を最初のターゲットに選択した。将来的に、ここで得た知見やノウハウを社員証など他分野のIDにも応用していくための足がかりとも考えているようだ。

フェリカネットワークス事業開発部の多田順氏
学生アプリでの連携パートナー
「学生証プラットフォーム」を取り巻く提携ベンダー群

とはいえ、完全な新規参入ベンダーが、まだ一般的認知を得ているとは言い難い「mdoc」の技術を掲げて導入に漕ぎつけるのは容易ではない。

講演でも質疑応答などで出ていたが「将来的に継続利用可能な投資になるのか?」といった不安をはじめ、この手の新規システム導入では恒例の「他所はどのようなシステム導入を行なっているのか?」といった横並び的な動きが大学関係者の間にもあり、音頭取りを行なう存在が不可欠だった。

幸い、mdocは「iPhoneのマイナンバーカード」にみられるように日本政府が率先して採用したことで一定の認知を得、将来的な投資への不安材料にもなり得る標準仕様についてはNIIが取りまとめを行ない、大阪大学のように率先してDXでリードを取る学術機関も登場した。特に標準仕様化については相互接続試験などにも積極参加し、世界での仕様策定に向けた動きに追随することで、実績を積み上げつつある。

今後の動きだが、デジタル学生証の次の流れとして、これまでWebの世界では実現されていたID連携を、mdocの形式で個人の持つスマートフォンまで落とし込み、リアルの世界でも活用できる方向がある。

「学認(GakuNin)」という学術認証フェデレーションがあり、参加大学の間で学会員が自身の持つIDで他大学のサービスを利用したり、各大学の電子ジャーナルへのアクセスが可能になる、NIIによって提供される一種のシングルサインオンのような仕組みだ。

学認はさらに「eduGAIN」という世界規模の学術認証フェデレーションにも接続しており、オンラインの世界では学術ネットワークを通じてすでにID連携が進んでいる。つまり、学認やeduGAINの仕組みをmdocに連携させることができれば、巨大なID基盤をそのままリアル用途でも利用できることになる。これにより、例えば海外の訪問先大学で手持ちのスマートフォンを使ってそのまま制限エリアへの入室が可能になることが想定される。

学生証に代表されるIDをどのように「ウォレット」に格納するかという話では、以前に「EUDIW(EU Digital Identity Wallet)」の話題でも触れたように、欧州では国ごとに“仕様の共通化された”独自のウォレットをリリースすることでEU国間での相互運用を可能にする方針を打ち出しており、世間には複数のデジタルIDウォレット(DIW)が存在することが見込まれる。

Androidスマートフォンの場合はGoogleがマルチウォレット戦略を採っていることからも特に問題はなく、前述の学生向けアプリが独自にIDウォレットを実装する形になっても問題がない。一方でAppleはiPhoneで「Apple Wallet」しか基本的には認めておらず、特にiPhoneの国内シェアが高い日本では問題となる。実際、フェリカネットワークスの講演でも「iPhone対応」が質問として挙がっていた。

フェリカネットワークス側の見解は、欧州においてデジタル市場法(DMA:Digital Markets Act)の影響もあり、サードパーティ製アプリにもNFC機能を解放した「Digital Credential API」が公開されるなど、囲い込みの動きが弱まっており、独自のウォレットアプリへの学生証機能の実装を可能にする流れができつつあるとしている。時期は不明だが、「学生証プラットフォーム」が一定の認知を得るころには何らかの形で実装への道筋ができるのではないかという考えだ。

北海道名物のジンギスカン鍋

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)