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江戸博リニューアルの両国 相撲だけじゃない歴史と悲運

都内では高層化する駅ビルが多い中、両国駅は昔ながらの佇まいを保っている

2022年4月から休館していた江戸東京博物館が、2026年3月にリニューアルオープンします。1993年に開館した江戸東京博物館は、東京都墨田区の両国駅が最寄駅です。隣には大相撲の聖地となっている両国国技館が所在するほか、一帯は下町情緒を色濃く残しています。

昨今は訪日外国人観光客が急増して東京の東側、日本橋や銀座といった街にも注目が集まるようになっています。両国も注目されるエリアですが、大相撲でスポットライトを浴びることはあっても、それ以外のトピックスはあまり目立ちませんでした。

しかし、両国は少しずつ街を変化させてきました。いまだ大相撲のイメージが強い両国ですが、長い歳月をかけて変化しようと模索する両国の過去・現在・未来を見ていきます。

両国駅近辺には歴史を感じながらの散策を楽しめるように過去の写真などを掲示している

都庁の新宿移転と江戸東京博物館

江戸東京博物館のリニューアルオープンまで100日に迫った25年12月18日から3日間、両国駅や駅前では100日前イベントが開催されました。

両国駅3番線では、江戸東京博物館のリニューアルオープン100日前を記念したイベントを開催(25年12月撮影)

同館は東京都の鈴木俊一知事(当時)が江戸・東京の伝統文化を保存するといったコンセプトを掲げて整備されました。博物館にはそうした文化的な背景がありましたが、他方で当時の東京を取り巻く社会状況や政治的な思惑も少なからずありました。

鈴木都知事時代の東京は、にぎわいの中心が西へ西へと移っていた時期です。それまで東京の中心とされてきたのは、丸の内・銀座・日本橋といった千代田区・中央区でした。東京都は1957年に新しい都庁舎を丸の内に建設しています。同地に都庁舎が建設された理由は、当時の東京は東側ににぎわいの中心があったからです。

東京都が世界屈指の経済都市として成長する中、東京も都市として発展を遂げていきます。しかし、東京の東側は発展の余剰がありませんでした。そのため、余白が残っていた西側へと街は広がっていったのです。こうして山手線の西側に位置する新宿・渋谷・池袋が発展していきます。これらの街は副都心と位置付けられて、民間企業が続々と進出。東京は大きく変貌していきました。

東京都が世界屈指の経済都市として発展する中、東京都庁舎にも相応の機能と役割が求められました。1957年に建てられた都庁舎は、建設当時は十分に役割を果たしていましたが、社会環境が急速に変化していることもあり、十分に役割を果たしていないという指摘も相次ぎました。

そうした意見を踏まえ、東京都は新庁舎を模索します。その際の議論で焦点になったのは、新しい都庁舎をどこに建てるのか? つまり、都庁所在地です。

鈴木都知事は東京の中心が西へと移動していることを考慮し、丸の内から東京の西側へと移転させることを検討しました。新宿駅の西側に広がっていた淀橋浄水場を郊外へと移し、その跡地を再開発するという青写真を描きました。その西新宿の再開発計画に新しい都庁舎の計画も盛り込まれたのです。

丸の内から西新宿へ都庁を移転させることは、都知事だけで決められる話ではありません。都議会の承認も必要です。当然ながら、東京の東側エリアを地盤にしている都議会議員は西側への移転に猛反発しました。都庁舎が移転してしまえば、東京の中心軸はさらに西へと移る可能性があったからです。

都庁舎が移転してしまうことで、東京の東側エリアはますます衰退してしまうのではないか? といった心配する声は根強く、都議たちはそうした地元有権者の声を受けて都庁舎移転に反対していたのです。

都庁舎の移転を実現したい鈴木都知事は、墨田区に江戸東京博物館、江戸川区に葛西臨海水族園、葛飾区に東京都保健医療公社東部地域病院、足立区に都立東京武道館といったハコモノを整備する計画を打ち出しました。

また、都庁舎跡地は東京国際フォーラムという巨大な総合文化施設に建て替える方針を決定し、荒川区と足立区を縦断する日暮里・舎人ライナーや常磐新線(現・つくばエクスプレス)といった交通網の整備も決めます。

こうした振興策を打ち出すことで東京の東側にも配慮を示しつつ、鈴木都知事は都庁の移転を進めようとしました。その懐柔策が奏功し、都庁移転に反対していた議員たちも態度を軟化。西新宿への都庁舎の移転が決まり、1991年4月に西新宿の新庁舎で業務が開始されました。東京都は巨大な自治体のため、多くの職員が働いています。都庁の移転は多くの人が働く職場を移転させる作業のため、当時は盛んに議論されていた首都移転になぞらえて平成のミニ遷都とも称されました。

ここ20~30年間の両国は、そうした政治的な思惑も絡んだ地域でしたが、それらを含めて地域振興の一助を担ってきたのです。

大相撲だけではなく隅田川花火大会も両国がルーツ

両国には国技館があり、大相撲の開催でも全国区の知名度を誇ります。江戸東京博物館と国技館という2つの施設があるため、近年は観光地としての色合いを濃くしています。

大相撲の聖地として好角家に親しまれる国技館
取組がない日の両国国技館は、熱戦から離れて静けさを保つ
国技館の裏手には、安田財閥総帥・安田善次郎の旧宅を整備した旧安田庭園がある(19年11月撮影)

その一方で、両国はさまざまな紆余曲折を経た悲運の歴史も有しています。そうした両国が経験してきた悲運の歴史を振り返ってみましょう。

まず両国の代名詞的な存在とも言える国技館ですが、国技館もさまざまな政治的な思惑に左右されています。現在の国技館で大相撲が取り組まれることになったのは、1985年1月からです。現在の国技館は40年ほどしか歴史がないのです。それまでは蔵前に国技館が立地していました。

蔵前の国技館は年配の相撲ファンにはお馴染みで、今でも「国技館が両国にあると言われてもピンとこない」と口にする高齢者も少なくありません。

その蔵前の国技館も2代目で、初代の国技館は両国駅の南側にありました。初代の国技館は終戦後に連合国軍に接収されます。そのため、大相撲を行なうことが難しくなり、蔵前に新しい国技館が建設されることになったのです。

初代国技館があったとされる場所には回向院という寺院が立地(19年11月撮影)

蔵前の国技館は長らく使用されましたが、施設が老朽化すると新たな国技館の建て替え計画が立ち上がります。この建て替え議論の際に、再び国技館は両国へと戻すことが決まります。新たな国技館は駅の北側、つまり現在地に建設されたのです。

両国が経験した悲運の歴史は大相撲だけではありません。東京の夏の風物詩として定着している隅田川花火大会も両国がルーツです。江戸時代に両国川開き花火大会として始まりましたが、隅田川の水質が悪化したことで1961年に幕を下ろしました。

両国は隅田川東岸に位置し、隅田川花火大会の前身となる川開き花火大会が始まった地でもある(19年11月撮影)

水質改善のメドが立った頃、都民の間から花火大会の復活を望む声が強くあがりました。そうした声を受け、1978年に隅田川花火大会と名称を改めて再開します。同大会は両国の川開き花火大会を受け継ぐものですが、浅草観光協会が復活の段取りを主導したことから第一会場が隅田川の浅草側(上流)に、第二会場が両国側(下流)に設定されました。そのため、隅田川花火大会は浅草のイメージが強く、両国のイメージは薄まっています。

両国は花火と縁の深い土地のため、両国花火資料館というミュージアムもある(19年11月撮影)

両国を襲う悲運の連続

両国は鉄道という面からも悲運を背負った駅でした。現在の総武線を建設した総武鉄道は、1904年に両国橋駅というターミナル駅を開設しました。

より都心に近い場所に線路を延ばした方が多くの利用者が期待できます。総武鉄道としては隅田川よりも都心寄りに駅を建設したかったことでしょう。しかし、千葉方面から延びてきた線路は両国橋で止まりました。これは隅田川に鉄道橋を架橋することが難しいという理由からでした。

両国橋駅が終着になったことで、両国橋駅は多くの人が乗り換えなどで利用することになりました。そのため、駅前には人が溢れ、駅を中心に飲食店・商店・旅館が軒を連ねたのです。

こうして両国橋駅はターミナルとして繁栄していきますが、1907年に総武鉄道は国有化されます。1930年には両国駅へと改称され、翌1931年には線路が隅田川を渡ります。

延伸によって線路は秋葉原駅・御茶ノ水駅へと到達。その結果、両国駅は途中駅となり、下車する利用者が激減したのです。これが両国駅のにぎわいを喪失させる一因になりました。それでも両国はかつてのターミナルとして栄光を保ち続けていきますが、さらなる悲運が両国を襲います。

1970年代の東京は、高度経済成長によって著しく人口を増加させていました。それら増加した人口の多くは、地方都市からの転入者です。地方都市から転入してきた人たちは郊外に家を持ち、都心に通勤するというライフスタイルを確立させていきます。

郊外から都心部へと通勤するサラリーマンが増えたことで、東京圏の鉄道路線は混雑が激しくなりました。国鉄(現・JR)は混雑緩和のために輸送力強化に乗り出しました。国鉄が取り組んだ輸送力の強化は通勤5方面作戦と呼ばれましたが、その5方面とは東海道本線・横須賀線、中央線、東北本線・高崎線、常磐線・総武線を指します。このうち横須賀線と総武線は、東京駅を境に両線が直通運転をする形を取ることになりました。

当初の計画では東京駅から両国駅へと線路を敷設し、両国駅から総武線へと合流する予定になっていました。しかし、東京駅から両国駅へ向かうルートを取ると、線形の関係から両国駅にホームを設置することが難しいことが判明します。

そうした理由で、総武快速線・横須賀線の電車は一駅東にある錦糸町駅に停車することに変更されました。1972年に総武快速線・横須賀線の直通運転が始まると、動線は大きく変わりました。これが両国のにぎわいを減退させ、錦糸町ににぎわいを奪われていく要因になりました。

悲運の連続を経験してきた両国ですが、なによりも最大の悲運といえるのが1923年に起きた関東大震災です。関東大震災は日本橋や神田といった東京の東側で大きな被害を出しました。両国周辺は関東大震災を語り継ぐ上でも欠かせない場所になっています。

両国駅の北隣には横網町公園があり、ここは陸軍の被服本廠だった場所です。被服本廠とは、陸軍の軍服・軍鞄・軍靴などを生産していた軍需工場です。被服本廠は1919年に岩淵町(現・北区)へと移転し、跡地は東京市(現・東京都)が買収しました。東京市は同地を公園として整備する予定でしたが、なかなか工事は進められずに空き地になっていました。そんな中、関東大震災が発生したのです。

地震によって多くの家屋が倒壊し、その後に各所で火事が発生。東京の街は炎に包まれました。多くの被災者が家族や家財道具を持って、広大な空き地となっていた被服本廠の跡地へと逃げ込んできました、しかし、火の手は被服本廠跡地にも迫ります。多くの市民が集まっていたため、被災者は身動きが取れずに炎に飲み込まれていきました。関東大震災は多くの犠牲者を出しましたが、なかでも被服本廠跡は甚大な犠牲者を記録した地でもあるのです。

被服本廠跡に整備された横網町公園には、関東大震災で亡くなった人たちを弔い、後世に関東大震災を伝えるための施設として1930年に震災記念堂が創建されました。

横網町公園の一帯は、1945年に起きた東京大空襲の被害が大きかったエリアでもあります。そのため、空襲による犠牲者の遺骨も納められました。

こうした経緯もあり、1951年には東京都慰霊堂と改称。以降、毎年3月10日と9月1日には法要が営まれています。言うまでもなく3月10日は東京大空襲が、9月1日は関東大震災が発生した日です。

横網町公園内には、関東大震災や東京大空襲の犠牲者を祀る東京慰霊堂がある(19年11月撮影)

大江戸線開業・新施設整備でにぎわいを取り戻す

このように両国はいくつもの悲運を経験してきました。そうした悲運を乗り越え、近年は大相撲が人気を回復させたことに伴って国技館に足を運ぶ観戦者が増加。国技館に観戦に来る人たちが街に溢れるようになると、街に活気が生まれます。次々と新しい店がオープンし、それが新たに来街者を呼び寄せるといった好循環が生まれていきました。

2000年以降は両国に訪日外国人観光客の姿が目立つようになり、江戸東京博物館にも外国人観光客が頻繁に訪問するようになりました。こうした外国人観光客によって両国の魅力が再発見され、それが両国の観光振興ひいては街の活性化を後押しする材料になっていきます。

江戸東京博物館

両国は、観光客や来街者によって新たな活路を見出しました。それでも街は歩みを止めません。

東京都は2000年12月に都営地下鉄大江戸線を全線開業させ、両国にも大江戸線の駅が開設されました。大江戸線の駅は両国駅の東側にあり、国技館や東京江戸博物館から少し距離があって遠回りを強いられます。そうした難点はありますが、大江戸線の駅が開設されたことによって、両国へのアクセスが向上しました。それが来街者を増やしています。

都営大江戸線との乗り換えができる両国駅東口(19年11月撮影)

利便性が向上したことに着目して、JR東日本も両国の魅力を高める施策に取り組みます。2016年には両国駅の西口駅舎を改装し、駅舎内に複合商業施設「―両国―江戸NOREN」をオープン。施設内には、大相撲の街・両国を全面的に打ち出すべく土俵も設置されました。

2016年に駅舎内に複合商業施設の江戸NORENが整備された(19年11月撮影)
江戸NORENの中には、大相撲の街らしく土俵が整備されている(16年11月撮影)
両国駅構内の階段にも江戸NORENオープンの告知が見られた(16年11月撮影)

両国駅の魅力を向上させる取り組みは、それだけではありません。駅コンコースには気品溢れる赤絨毯を敷き、そこをギャラリースペースへと転換。貴重な写真を展示するほか、イベントスペースとして活用されています。

また、それまで特急列車の発着ホームになっていた3番線は両国駅発の特急列車が廃止されたことによって使用されなくなっていました。そうした未活用の空間も活用を模索。ホームで飲食イベントなどを開催するほか、2018年にはサイクルトレイン「BOSO BICYCLE BASE」の発着線としても使用を開始しています。

使用されなくなった3番線ホームは、サイクルトレイン「BOSO BICYCLE BASE」の発着線として再活用(17年12月撮影)

BOSO BICYCLE BASEは列車に自転車を積み房総の駅で下車してサイクリングを楽しみ、帰路も駅から自転車を積んで両国駅まで戻ってくるという電車と自転車の楽しみを融合させた列車です。

通常、列車に自転車を積み込む場合は、ほかの乗客に配慮して自転車を分解するか小さく折り畳むなどして輪行袋という専用の袋にしまって乗車しなければなりません。BOSO BICYCLE BASEは自転車をそのまま車内に積み込むことができるので、愛好家のみならずビギナーにも列車と自転車を組み合わせたサイクリング・ポタリング・ツーリングが楽しめると話題になり、新たな需要を掘り起こしました。

自転車をそのまま車内に積み込める(17年12月撮影)
18年に運行を開始したサイクルトレイン「BOSO BICYCLE BASE」の発着駅として、両国駅は存在感を発揮(19年11月撮影)

駅そのものではなく、駅前にも大きな変化が生まれています。両国駅前に両国広小路という公共空間が創出されたのです。広小路とは、江戸期に建物の延焼を避けるためにも意図的に設けられた道路と広場を兼ねたスペースです。有事には防災用として使用されますが、平時は市中の人々が行き交い、行商人が物を路上販売するなど、にぎわいの中心的機能を果たしました。新たに設けられた両国広小路も来街者を楽しませるイベントスペースとして活用されています。

両国駅西口に整備された両国広小路(19年11月撮影)

江戸東京博物館リニューアルオープン100日前イベント時も墨田区の観光協会や地元の人たちといった関係者によって、さまざまなイベントが両国広小路で開催されました。こうした地元の協力がリニューアルオープンの機運を高めていることは言うまでもありません。

両国広小路では、さまざまなイベントを開催。墨田区や観光協会、地元の関係者たちが100日前イベントを盛り上げた(25年12月撮影)

江戸期から終戦前後まで、両国は東京の東側エリアのにぎわいを牽引するような存在感の大きな街でした。昭和30年代(1955年頃)から存在感を小さくさせていきましたが、2010年代から、復調の兆しが見られます。その背景には東京で都心回帰の兆候が強まっていることが挙げられます。

東京・東側のブームは湾岸エリアに林立するタワマンが象徴的ですが、両国も過去のにぎわいを少しずつ取り戻しています。

江戸東京博物館のリニューアルオープンは、その一端に過ぎませんが、これを機に新しい両国が注目されることになるでしょう。

相撲協会の前身である大相撲協会は1926年に発足。今年は100周年にあたるメモリアルイヤーのため、記念展が催された(25年12月撮影)
小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『鉄道がつなぐ昭和100年史』(ビジネス社)、『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。