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「相鉄線」とはなにか? 東急との直通開始で注目

接続駅となる新横浜駅に入線する相鉄車両。新横浜駅メディア公開時撮影

3月18日に相鉄・東急直通線が開業することで注目を集めている相鉄線。これにより、川越市駅、浦和美園駅、西高島平駅など、埼玉方面や東京23区北部の駅と相鉄が繋がることになるが、神奈川県内のみを走る相鉄線がどんな路線であるかご存じない方も多いだろう。そこで今回、話題の相鉄線について深掘りする。

相鉄線から東京へとつながる路線が2本に

3月18日、東急電鉄(東急)と相模鉄道(相鉄)はそれぞれ新横浜線を開業させる。東急の新路線として誕生する東急新横浜線は、東急東横線の日吉駅から分岐する形で相鉄との共同使用駅となる新横浜駅を結んでいる。そこから相鉄線の西谷駅を経て、相鉄本線・いずみ野線へと乗り入れる。

新横浜駅メディア公開時資料
新横浜駅には東海道新幹線の全列車が停車し、駅前の開発が急がれている

これに先立つこと約4年前の2019年11月、相鉄はJR埼京線と相互乗り入れする神奈川東部方面線(相鉄・JR直通線)を開業させた。同線の開業により、東京都内に乗り入れるという悲願を達成した。

相鉄とJR・東急の境界線となる羽沢横浜国大駅。駅前にはJR貨物の横浜羽沢駅のヤードが広がるほか、駅名にもあるように横浜国立大学の最寄駅でもある

相鉄の電車は神奈川県内だけを走っているので、東京で目にすることはなかった。神奈川県を地盤にしているといえば聞こえはいいが、相鉄は⻑らく、周囲から神奈川の私鉄という位置付けで見られてきた。相鉄・JR直通線の開業は相鉄を名実ともに首都圏の大手私鉄へと押し上げたことを意味する。そして、それに続く相鉄の悲願が新横浜線の開業だ。

東京とつながる路線が2本に増えたことで相鉄沿線の利便性が向上し、これまで以上に沿線開発が進むだろう。企業や学校、病院などが誘致され、それに伴い住宅建設も期待できる。そして、それは相鉄沿線の人口が増加することを意味する。

また、相鉄は2017年に創立100周年を迎えた。この際、相鉄はデザインブランドアッププロジェクトを立ち上げた。

同プロジェクトでは企業イメージを向上させる取り組みとして、新車両の車体を横浜の海をイメージしつつ上質感を醸す色としてYOKOHAMA NAVYBLUEを採用することが決定。2018年から運行を開始した20000系からYOKOHAMA NAVYBLUEに塗り替えられ、2019年に登場した12000系もYOKOHAMA NAVYBLUEが採用されている。

20000系は10両編成となっているが、2021年からは8両編成の21000系の運行も開始。20000系と21000系、そして12000系は相鉄の新たなシンボルカラーをまとった電車として、早くも沿線住民に定着している。

新横浜駅メディア公開時資料

直通線開業による人口増加見込み、創立100周年と明るい話題が多い相鉄だが、これまで歩んできた歴史は複雑だった。そして、相鉄の経営者たちは需要を増やそうと悪戦苦闘を繰り返してきた。

相鉄の歴史 開業は二俣川駅-厚木駅間

相鉄の歴史を紐解くと、前身である神中鉄道が二俣川駅-厚木駅間を1926年に開業させた。現在の相鉄は、これを開業年に定めている。

後述するが、現在のJR相模線はルーツをたどると相模鉄道に行き着く。こちらは相模鉄道として創業し、神中鉄道よりも早い1921年に茅ヶ崎駅-寒川駅間で運行を開始した。

神中鉄道の開業を主導した実業家・平沼専蔵は、横浜銀行を開業させるなど、横浜財界の大物として知られる。

平沼は蒸気軽便軌道によって茅ヶ崎-橋本間を結び砂利の採取・運搬・販売を目的とした鉄道を計画していた。同じように相模鉄道も砂利の採取・運搬・販売を手掛けている。

なぜ両社は砂利に着目したのか? それは、1923年に発生した関東大震災に起因している。

関東大震災では、東京・横浜で多くの建物が倒壊。さらに、その後に起きた火事で残った建物も焼失した。街の再建にあたり、建物は耐震性・防火性が重要とされた。特に、庁舎や銀行、病院、大企業の社屋といった建物はコンクリート造が採用されていく。

コンクリートはセメント・砂利・水を混ぜることで製造される。多くの建物がコンクリート造へと建て替えられることで、砂利の需要が一気に増加した。この砂利特需ともいえる状況が、神中鉄道・相模鉄道の屋台骨を支えることになる。

昭和初期となる1927年には昭和金融恐慌、1930年には昭和恐慌が立て続けに起こり、神中鉄道も鉄道事業の経営が逼迫した。その影響で、神中鉄道は計画していた横浜駅への延伸を延期。横浜駅への乗り入れは、1933年までズレ込むことになる。

横浜駅へと乗り入れを果たした当時の神中鉄道は、相模国分駅(現・相模国分信号場)から厚木駅へと向かっていた。しかし、1941年に相模国分駅から海老名駅へと至る線路を建設。終点を海老名駅へと移し、相模国分駅-厚木駅間は貨物専用線へと転換した。

現在、海老名駅は相鉄のほか小田急・JR相模線の3社が乗り入れる鉄道の要衝地で、駅前は大規模商業施設が並ぶなど大いににぎわっている。神中鉄道の経営陣が終点を海老名駅へと変更したことは、先見の明があったということだろう。

海老名駅

相鉄本線の主要駅は、横浜駅・西谷駅・二俣川駅・大和駅などがあるが、海老名駅は、JR相模線と小田急小田原線の3社が乗り入れる要衝駅でもある。小田急は海老名駅を集客フック駅と位置付け、駅周辺の開発を進めている。小田急が取り組む海老名開発の目玉は、何と言っても2021年にオープンしたロマンスカーミュージアムだ。そのほか、2002年に開業した複合商業施設「ビナウォーク」は店舗棟が海老名中央公園を取り囲むように配置されている。

海老名駅は相鉄・小田急・JRの3社が乗り入れる要衝地
海老名駅前は小田急が開発した大御規模商業施設のビナウォークがあり、多くの人出でにぎわう
JR海老名駅側にもショピングセンターのららぽーとがあり、買い物など日常の生活などにも便利

終戦後には相鉄沿線の人口が爆発的に増加

1943年、神中鉄道は経営合理化を目的として、相模鉄道と合併。合併後の新社名は相模鉄道となり、それぞれ神中線・相模線という路線名へと切り替わった。合併したのも束の間、翌年には、政府が軍事目的で使用するとの理由から相模線が国有化される。

再出発を果たしたばかりの相模鉄道は、相模線を失っただけではなく、いろいろな面で危機に陥っていた。

鉄道の運行に不可欠な燃料・人員・車両などが不足。それにくわえて空襲の激化も列車の運行を困難にした。その状況を打開するため、相模鉄道は東急に経営を委託。1947年に委託が解除されるまで、相鉄は実質的に東急の路線として機能した。

終戦後、旧来から横浜の繁華街となっていた横浜駅・桜木町駅の一帯は進駐軍に接収された。こうした事情から、横浜市は戦災復興を別のエリアで進めなければならなくなる。そして、白羽の矢が立てられたのが、進駐軍が手をつけていなかった相鉄沿線だった。

特に、横浜市が二俣川駅と三ツ境駅の間を復興拠点と位置付けていたこともあり、相鉄は住宅建設を加速。1948年には住民の足として両駅の間に希望ヶ丘駅を新設する。爆発的に相鉄沿線の人口が増えていくと、相鉄は輸送力の強化に取り組まなければならなかった。

相鉄は輸送力を強化するため、単線自動閉塞信号装置を相模本線の全線に設置。これによりタブレット交換が不要になり、15分間隔の運転を可能にした。

それだけでは需要増においつかず、相鉄は1951年に西横浜駅-上星川駅間を複線化。これでラッシュ時は7分間隔の運転が実現し、さらに1953年には需要の多い横浜駅-西谷駅間の折り返し運転を開始する。こうした取り組みにより、混雑の緩和を図った。

沿線に多くの住宅が立ち並んでいく一方、相鉄沿線は住宅地のために目ぼしい商店がなく、ゆえに沿線住民は日用品の購入にも支障をきたした。

横浜駅西口に高島屋を誘致

相鉄沿線の住民たちは現代で言うところの買い物難民と化したわけだが、買い物難民を救済するべく、相鉄はターミナルにしていた横浜駅西口に百貨店の誘致を計画する。相鉄は高島屋が横浜駅西口へ進出するにあたって、多大な協力をした。

相鉄の社長だった川又貞次郎は、横浜駅西口の広大なスペースが空き地になっていることに着目。1951年に横浜市と協力して土地を購入して、高島屋を誘致した。相鉄の求めに応じて、1956年に老舗百貨店の高島屋が横浜駅西口に出店。横浜駅西口は空き地になっていたために人通りが少なく、まず高島屋は百貨店ではなくストアをオープンさせた。機が熟した1959年にストアから百貨店へと転換して再オープンしている。

現在の横浜高島屋 屋上にて撮影

翌1960年から、相鉄は「おかいもの電車」を運行。おかいもの電車は海老名駅-二俣川駅間は各駅に停車し、二俣川駅から横浜駅間はノンストップで走らせた。こうした相鉄と高島屋とコラボによって、横浜駅西口が急速に繁華街になっていった。

現在の横浜駅の西側に位置する相鉄口

1973年には、高島屋と一体化した相鉄系列の大規模ショッピングセンター「ジョイナス」がオープン。その後も拡張を続け、今では横浜駅西口のにぎわいを牽引するシンボルとなっている。

高島屋との関係を深めた相鉄は、グループ会社と高島屋が共同出資する形で沿線にストア事業を展開。1982年に相鉄ローゼンへと商号変更している。相鉄ローゼンのローゼンはドイツ語でバラを意味し、これは高島屋のシンボルマークのバラにちなんでいる。

相鉄系列のスーパーマーケット・相鉄ローゼンは相鉄沿線を中心に店舗展開。写真は湘南台店

高度経済成長期以降、段階的に延伸開業を繰り返してきた相鉄

高度経済成長期の横浜市は、市長の飛鳥田一雄が推進した六大事業によって都市インフラの整備を進め、同時に都市の規模を拡大していった。

六大事業がスタートした1965年当時の横浜市は、人口が約180万人。市の予測計画では300万を目指すことが謳われていた。さすがに人口300万は大風呂敷だと受け止める向きも強かったが、1980年代に300万人を軽々とクリア。その後も人口増加を続け、現在は約378万人に達している。

戦災復興期から横浜市の人口増の受け皿になっていた相鉄本線だが、1976年に二俣川駅-いずみ野駅間が開業。いずみ野線も人口増の受け皿になっていく。いずみの線は段階的に延伸開業を繰り返し、沿線は歳月とともに宅地化されていった。1990年にはいずみの中央駅まで、1999年には湘南台駅までが開業している。

沿線にテーマパーク誕生なるか!?

相鉄の歴史をおさらいしてみると、相鉄沿線には観光地らしい観光地はない。横浜市の戦災復興と高度経済成長、さらにバブル景気といった社会に歩を合わせるように、沿線の住宅開発を進めてきた。それは平成以降も変わらない。

相鉄沿線の駅で大規模商業施設が集積する駅はターミナルの横浜駅は別格としても、そのほかは海老名駅・湘南台駅・大和駅ぐらいで、それらは他社線との乗換駅となっている。相鉄は各駅でまちづくりを進めているが、乗換駅であるために相鉄が開発した街というイメージは強くない。

湘南台駅は、相鉄・小田急・横浜市営地下鉄の3社が乗り入れるので、駅前には多くの飲食店が立ち並ぶ

そのなかで今後注目を集めそうなのが、⻄谷駅だ。2019年11月に開業した相鉄・JR直通線につづき、2023年3月に相鉄・東急直通線が開業し、相鉄本線と新横浜線が分岐する駅として東京都心部との結節点の機能を担う。駅はこぢんまりとし、周辺が橋梁地帯になっているので拡張目的の再整備は難しいかもしれない。

駅前広場やバスロータリーなどはなく、北口を出て数メートルのところにある国道16号線にバス停が設置されている。東海道新幹線が駅上空を走り、鶴ヶ峰駅方面にある跨線橋からは、新幹線と相鉄線とが交差している様子を俯瞰できる。

西谷駅からは相鉄新横浜線が分岐。2019年からJR線との直通運転が始まり、今年3月から東急線とも直通運転を開始する
西谷駅の上空を東海道新幹線が駆け抜けていく

そのほか、今後注目されそうな駅といえば、瀬谷駅が挙げられる。2015年、横浜市旭区にあったアメリカ軍の上瀬谷通信施設が返還された。同施設は面積が約242万2,000m2もあり、その跡地を巡って、テーマパークを整備する計画が浮上している。

同地では2027年に国際園芸博覧会の開催が予定されており、瀬谷駅と会場とを結ぶ公共交通機関として新交通システム「上瀬谷ライン(仮称)」の整備が検討されている。上瀬谷ラインは、瀬谷駅と会場とを結ぶ公共交通機関としての役割を担った後、跡地に整備されるテーマパークのアクセス路線になることが期待されている。テーマパークの整備は早くても国際園芸博覧会の閉幕後からになるので、上瀬谷ラインの整備計画は検討中の段階にとどまる。そして、跡地の利用も話し合いが続いている。

瀬谷駅から米軍上瀬谷通信施設跡地に向けて新交通システムの整備計画も浮上しているが、現段階では未定
横浜市 都市高速鉄道上瀬谷ライン整備事業説明資料より 対象事業区域の位置

仮に跡地にテーマパークが開園した場合、年間の入園者数は1,500万人と試算されている。ただし、新交通が整備されないままだと、年間の来場者数は試算された数字よりも低くなるだろう。

また、瀬谷駅からシャトルバスなどが運行されると思われるが、その場合は混雑が予想される。そうした問題を解消するためにも、上瀬谷ラインの整備は焦眉の急だ。

課題は山積しているものの、相鉄沿線にテーマパークが誕生することになれば、これまで住宅地の開発一辺倒だった相鉄の集客戦略と沿線開発に変化が出るかもしれない。上瀬谷ラインの実現可能性は現段階では不透明だが、相鉄・JR直通線につづく相鉄・東急直通線の開通が、相鉄沿線に変えることは間違いないだろう。

【訂正】記事初出時に、相鉄・JR直通線の開業を2019年3月と記していましたが、正しくは2019年11月となります。お詫びして訂正いたします。(1月20日)

小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。