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広島電鉄新ルート開業で113年の歴史に幕 さらば「猿猴橋町ルート」

8月2日をもって廃止となった猿猴橋町停留所。ホームは極度に狭い(写真はすべて営業当時の7月撮影)

広島電鉄の数十年来の悲願であった新線「駅前大橋ルート」の開業によって、JR広島駅に乗り入れる路面電車(軌道線)の大幅な所要時間短縮が実現した。広島駅はいま、日本初の「ビル2階の広大な路面電車ターミナル」などを擁する新ルートの開業に沸き返っている。

一方で、前日まで電車が走行していた的場町~猿猴(えんこう)橋町~旧・広島駅(地上ホーム)間は駅前大橋ルートと入れ替わりで廃止となり、開業当初からの113年の歴史に幕を閉じた。最終日は特別貸切電車「ありがとう広島駅・猿猴橋町電停号」の走行やセレモニーが行なわれ、多くの人々が最終電車を見送ったという。

新ルートを走る試運転車両
旧ルートの猿猴橋町停留所に進入する連接車両

新たに開業した駅前大橋ルートは的場町~広島駅間を約500mの直線で突っ切るのに対し、これまでのルートは約800m。大きなカーブと狭隘な道路で電車が何編成も団子状に詰まることもあり、運行時間の差は約4分、おそらくラッシュ時だとそれ以上。間違いなく運行上のネックとなっていた。

広島駅まで電車に乗る人々の中には、広々とした「駅前通り」を車窓左手に見ながら、「猿猴橋町なんか通らず、こっちに電車を通した方がいいのに!」と感じていた人も多かったという。

なぜ、このルートはいままで残り続けてきたのか。そう考える前に、まずは「猿猴橋町停留所」に降りて、ぶらぶらと散策してみよう。なお、取材は新ルート開業前、つまり旧ルート廃止前に行なっている。

広島駅は目の前! ホーム幅ギリギリの「猿猴橋町停留所」で下車

「次は、猿猴橋町、猿猴橋町」アナウンスに導かれて降りると、まず驚くのはホームの狭さだ。幅50~60cmしかなく、道路側はクルマが、軌道側は電車が頻繁に行き交っている。まわりを仕切る柵もない……というより、そういった設備を増設するスペースがあるように見えない。

停留所のポール・掲示板には時刻表とともに、「猿猴橋町停留所は2025年8月2日終電をもって廃止となります」との告知が張られているが、停留所の幅が掲示板の幅とほぼ一緒でもあり、立ち止まって告知を眺めるのも、恐怖を感じるほどに狭い。

猿猴橋町停留所。クルマは少ないが、ホームが細くて待つのが若干怖い
停留所に貼付された廃止告知

昭和30年代・40年代にはこういった「道路中央部の激細ホーム」や安全地帯(アスファルト上で電車を待つ停留所)はよく見られたが、ほとんどが改良されるか、さもなくば「路線ごと廃止」に見舞われている。猿猴橋町停留所の佇まいは昔ながらの路面電車のようで懐かしく、なかなか貴重な存在でもあった。

さて、降りて辺りを見回してみよう。停留所まわりが住宅・店舗に囲まれているのは昔と変わりないが、「ホテル川島(旧・川島旅館)」「ナショナル会館(パチンコ店)」があった停留所西側の一角が、地上52階建ての「ビッグフロントひろしま」に変わった。なお、ホテル川島・ナショナル会館は、このビル内に移転して盛業中だ。

猿猴橋町停留所を、北側(広島駅)から眺める。右側の「ビッグフロントひろしま」に繋がるペデストリアンデッキが建設中

また、戦後の闇市から発展した「愛友市場」も、再開発によって地下1階・地上11階の「エキシティヒロシマ」に生まれ変わり、主だった店舗はビル内の「愛友ウォーク」に移転した。猿猴橋町停留所から広島駅側のスペースは「広島駅南口再開発」でビルに生まれ変わり、的場町側は閉鎖した店も多く、活気が失われている。

猿猴橋町の界隈では「停留所を中心とした賑わい」は、とうに失われているようにも見える。ただ、ノスタルジーな空気を漂わせる界隈をぶらぶら歩くのも、悪くない。

この「猿猴橋町停留所」を廃止するにあたって、廃止の声はなかったのか?

国土交通省の資料によると、この停留所と終点・広島駅停留所は300mほどしか距離がなく、3割弱が広島駅での乗り換え利用者とのこと。2つの停留所の間にはかなり長めの信号があり、朝ラッシュ時に電車がここで詰まって2回、3回と信号待ちとなることもあったため、「待ってられるか! 目の前に広島駅が見えとるから、もう降りるわ!」と、猿猴橋町で降りる人々が多数いたのだ。

猿猴橋町停留所の廃止に関して、合意はスムーズに得られたようだ(国土交通省資料より)

さらに、広島駅から道路をまたぐペデストリアンデッキの設置工事が完成すれば、わざわざ電車に乗らずともスムーズに移動できる。もっとも、このデッキがなくても、目の前に見えている広島駅まで1区間・300mの電車に乗る人はいないと思うが……。こうして、2013年・2014年の説明会では目立った反対もなく、駅前大橋ルートの開業とともに廃止となるのが既定路線になっていたという。

広島駅からBブロック(ビッグフロントひろしま)へのペデストリアンデッキの設置工事が進んでいる(広島駅南口再開発資料より)

それにしても不思議なのは、「なぜ、こんな短い間隔で停留所を置いたのか?」「電車が回り道になるようなルートを、なぜとったのか?」。背景を探るためには、広島駅の開業よりずっと前まで、時代をさかのぼって考える必要がある。

猿猴橋は「街道の要衝」、広島駅は「北側の空いた土地」に何とか開業?

猿猴橋町の界隈には、江戸時代あたりから賑わいが生まれていたという。この地は、京都から岡山・広島を経て下関・九州方面を結ぶ「西国街道」沿いで、広島の街に入っていく入り口にあり、猿猴川橋も天正年間(安土桃山時代)に、毛利輝元が広島城を築城していた頃には、すでに架けられていたようだ。

広島市内を東西に結ぶ「西国街道」。猿猴橋町は「1」周辺(広島市ホームページより)

広島城下は数本の川があって街が狭く、城下で宿が取れないことを見越して、手前側で宿に泊まる人々も多かった。こうして、このエリアは「猿猴川沿いの宿屋・茶屋がある街」として、徐々に発展していった。

この北側に広島駅が開業したのは1894(明治27)年のこと。北側には双葉山の丘陵があり、南側の猿猴川・京橋川に挟まれて土地も少ない。かつ、西側にまっすぐ進むと、広島城に突き当たり、ことさら土地はない。

かといって、西側には太田川もあって、土地の確保が難しい……。平地が何とか確保できて、目の前に街道の要衝があってそれなりに賑わう地点、という条件だと、もはや現在の広島駅以外に選択肢がなかったと思われる。

広島電鉄も確たる資料を残していないが、駅だけでなく昔ながらの道や繁華街に沿って線路を敷いたために、ここまで細くて大回りなルートになったと思われる。なお、広島電鉄の開業当時には駅前ルートは影も形もなく、初代の駅前大橋が開通したのは1956年のことで、猿猴橋町を飛ばしてまででも短絡ルートを作ろうという考えもなかっただろう。

猿猴橋町や「愛友市場」などが賑わっていた昭和30年代・40年代でも、広島駅は紙屋町・八丁堀などの中心地から2km近く離れていることもあり、駅構内や出口によっては、かなりうらぶれた雰囲気であった。

しかし、いまや広島駅は駅ビルの入居テナントが充実しすぎて、もはや駅を出ずとも広島を満喫できる。グルメフードコート「エキエキッチン」「エキエダイニング」には「ビールスタンド重富」「むさし(むすび)」「みっちゃん総本店」「福ちゃん」「いっちゃん」(いずれもお好み焼き)などがズラリと揃うのだ。

広島県内を中心に展開するつけ麺の「ばくだん屋」。広島駅構内に支店がある

広島駅の発展とともに時代に遅れていった猿猴橋町を、ついに路面電車が経由しなくなった。しかし、今後は停留所・軌道を撤去後に歩道を広げる予定で、川沿いにも散策できるプロムナード(遊歩道)などを整備する予定だという。猿猴橋町が「停留所を降りてすぐの雑然とした街」から「散策して楽しめる街」に生まれ変わるまであと数年、広島を訪れて昔ながらの風景を目に焼き付けるなら、今しかない。

猿猴橋町停留所・下り停留所を出る車両
近隣の川沿いも再開発が予定されている(広島市資料より)

原爆に耐えた「荒神橋」から消える電車

こうして見ると、猿猴橋町を経由する旧ルートの存続は、もはや難しかったことが伺える。しかし、ちょっと残念なのは「広島電鉄・最後の被爆橋からレールが消えた」ことだ。

荒神橋を渡る電車も、もう見られない

第二次世界大戦中には50カ所以上あった橋も、1945年の原爆や「枕崎台風」の被害でかなり落ちてしまい、そのあとの架け替えもあって、現在では6橋しかない。その中で、猿猴橋町~的場町間の京橋川にかかる「荒神橋」は唯一の併用軌道(道路と電車を道路上で通している橋)であり、戦後の面影をひっそりと伝え続けていた。

電車が廃止されたあとも荒神橋は使用され、線路が撤去された後はある程度拡張されるだろう。電車は来なくなったものの、線路が残っているうちに、その風景を記憶に残しておきたい。

宮武和多哉

バス・鉄道・クルマ・MaaSなどモビリティ、都市計画や観光、流通・小売、グルメなどを多岐にわたって追うライター。著書『全国“オンリーワン”路線バスの旅』(既刊2巻・イカロス出版)など。最新刊『路線バスで日本縦断!乗り継ぎルート決定版』(イカロス出版)が好評発売中。