鈴木淳也のPay Attention

第209回

広がり始めた“タッチ”乗車 現状と課題を整理する

1,300年以上の歴史を持つとされる山代温泉郷の古総湯。明治時代の総湯を再現した建物

3月中旬に2回ほど加賀市を取材で訪問する機会があった。1つはUberが地元自治体や業者と連携してスタートさせた「加賀市版ライドシェア」の取材のため、もう1つは後日改めて記事を公開することになるが、同市内の3つの施設で行なわれている最新の取り組みについての取材だ。

1週間ほどの間に2回同じ場所を訪問する形となったが、加賀市を含む石川県の金沢駅から福井県の敦賀駅までの区間を結ぶ北陸新幹線の延伸区間が3月16日に開業しており、2つの取材はこの日付を挟む形となった。結果として、短い期間にもかかわらず現地の交通事情が一変する状況を観察することとなり、非常に興味深いものだった。

新幹線が開業したことにより、JR西日本の北陸本線の当該区間は第3セクター方式に移管され、車両の編成数やダイヤが大幅に変更されることになった。新幹線停車駅では駅構造も大きく変化しており、2つの取材で主要拠点となった加賀温泉駅では日付に前後して旧駅舎が廃止され(この駅舎自体が仮設のようだが)、新幹線用に新築された駅舎を中心としたものへと移管し、在来線については駅舎の手前に簡易改札が設置される形で事実上切り離されている。

だが今回の話題の中心は新幹線ではなく、加賀市を含む南加賀エリアを走るバス網の方だ。「加賀市版ライドシェア」取材のために最初に小松空港に降り立ったときは、加賀温泉駅に行くためにまず小松駅へと移動する際に利用したバスは交通系ICカードが利用できず、実質的に現金払いのみの対応だった。また取材日の数日前に従来まであったEVバスに代わり自動運転バスの実証実験がスタートしており、こちらは交通系ICカードの利用が可能だったため、わざと他のバスを2本ほど見逃して自動運転バスを体験してみた。もっとも自動運転バスは運行時間が非常に限られているため、復路の小松駅から小松空港までの区間は通常のバスで現金払いだったが。

小松空港と小松駅を結ぶ北鉄加賀バスの車両だが、交通系ICは使えず、事前に券売機で切符を購入するか(空港にある券売機の支払いのみ交通系ICカードとクレジットカードが利用可能)、後払い方式で現金を支払うかのいずれかとなる
空港と駅を結ぶ路線は1日数本ほどだがBYDの自動運転バスが運行しており、こちらは交通系ICカードが利用可能
バスの運行管理はソフトバンク系列のBOLDLYが行なっており、公道を走る商用サービスとしては初の自動運行バスとのこと。写真は自動運転中の状態で、ときおり運転席に待機している運転手に操作が切り替わるが、その際には「手動運転中」の表示に変わる

そして後日、2回目の取材で改めて小松空港に降り立ってみると、通常の路線バスが交通系ICこそ引き続き使えないものの、いわゆるクレジットカードの“タッチ”による乗車に対応していた。同エリアで路線バスを運行しているのは北鉄加賀バスだが、新幹線沿線開業も見込んで3月16日以降に“タッチ”乗車への対応を開始し、同社が運行する他の区間のバスについても全線導入を行なったようだ。

実際、2回目の訪問では日帰りではなく、取材日に前日入りして古くからある温泉として有名な山代温泉郷に1泊することになっていたため、同地のホテルまでバス移動したのだが、こちらでも問題なく“タッチ”払いが可能になっており、現金いらずで移動することができた。

もっとも、総湯を含む現地の日帰り温泉はすべて現金払いのみという場所がほとんどだったので、食事や移動はカード払いで済んでも、結局現金を用意しておかざるを得なかったわけだが……。

2回目の取材で小松空港を訪れたところ、今度は“タッチ”決済対応のお知らせが。なお100円キャンペーン中だったので、明らかに現金払いよりお得だった
前回とは異なり、交通系IC利用については引き続きNGだが、“タッチ”乗車対応のポスターが大きく貼られている
後払い方式のため、乗車時にまず“タッチ”操作が必要
運賃箱の様子。なお、運転席側の操作で大人や子どもの人数を伝えて同時に支払うことが可能となっており、このあたりは既存の交通系ICの扱いに近い
加賀温泉駅に着いて山代温泉郷へと向かうバスにも同様の表示が。なお、筆者の直前に乗ろうとしていた人がMastercardを“タッチ”しようとしてエラーを出して運転手に「そのカードは利用できません」と説明されていた

全国規模で広がる“タッチ”決済による乗車サービス

ここまでは“タッチ”乗車にまつわるちょっとしたエピソードだが、旅先でクレジットカードや交通系ICカードなど、普段使いの支払い手段をそのまま使えるのは非常に便利だ。

個人的事情でもあるが、クレジットカードなどの利用であれば利用記録が自動的にデジタルで情報が記録されるため、例えば後の旅費交通費精算や確定申告などでそのままデータを転写して申請や記録が行なえ非常に便利だ。また、小銭を用意するために財布を膨らませないで済むという理由もある。

これまで地方都市の公共交通で交通系ICが利用できなかったというケースは多く、例えば鹿児島市や長崎市のバスや路面電車では現金払いが必要だったが、鹿児島市電や空港を結ぶ路線バスでは“タッチ”乗車への対応が進んでいる。後述するが、特に空港との連絡経路が何らかの形でキャッシュレスされるのは大きい。

大都市部では主に鉄道を中心に導入が進みつつある。走りとなったのは関西国際空港へのアクセス路線を持つ南海電鉄や福岡空港と市内を結ぶ福岡市地下鉄だが、以後は東急電鉄や江ノ島電鉄のように首都圏の通勤・通学路線、あるいは観光地を走る路線といった具合に地元民が利用する路線でも導入が見られるようになった。

狙いとしては、コロナ禍以降で変化した人流を見直し、普段から地元鉄道を利用する人以外に対する需要を掘り起こし、新たなビジネスチャンスを模索することにあり、私鉄が以前から持ち合わせていた「沿線開発」の性格に改めて着目した点がポイントとなる。

全国的に見れば、もともと“タッチ”乗車に関心の高かった関西方面は2025年の大阪・関西万博の開催もあり、大阪メトロを含む私鉄各社がQRコードを利用した共通乗車システムを推し進めていたのに加え、大阪メトロ阪急・阪神・近鉄では2024年度中の“タッチ”乗車対応を発表している。

関西私鉄が準備中のQRコード+“タッチ”乗車対応の改札機。阪神梅田駅にて

東京の首都圏では鉄道各社が地下鉄線を介して相互に車両を直通し合う「相互直通」を実施していることもあり、各社が独立して動くことが難しかった面があるものの、東急の参入を皮切りに、東京メトロ京王電鉄西武鉄道らがやはり2024年度での実証実験を含む各路線への“タッチ”乗車展開を表明している。

福岡市地下鉄や西日本鉄道にみられるように、すでに一部駅への導入を済ませていた事業者が全駅展開を表明し始めているのも最近の特徴で、移動範囲さえ分かっていれば交通系ICカードなしに非接触対応のクレジットカードやデビットカードのみで済む場面も増えてきた。ビザ・ワールドワイド・ジャパン代表取締役社長のシータン・キトニー氏によれば、日本はアジア太平洋地域で最大の交通系“タッチ”決済のプロジェクトを抱えており、世界的にみてもその多くを占めているという。

実際、鉄道が主要な移動手段となっている日本では鉄道運行会社が際立って多く、各社がある程度足並みを揃えることでプロジェクト数が一気に拡大するという状況も予想できる。

Visaによれば、日本はアジア太平洋地域で最大の交通系“タッチ”決済のプロジェクトを抱えている国だという
2023年12月時点での日本国内における交通系“タッチ”決済のプロジェクト数
ビザ・ワールドワイド・ジャパン代表取締役社長のシータン・キトニー氏

これからの課題

これだけ利用できる場所が広がり、実際便利なのは間違いないのだが、都市の交通網を一気に置き換えることになるかといえば難しいのが現状だ。課題の1つは明らかで、交通系ICカードの完全な代替にはならない点にある。

よく言われるのが“タッチ”決済を使った乗車における改札通過の処理速度だが、“トリック”により高速処理が可能なSuicaなどの交通系ICカードに比べ、EMVCoが定める決済端末の基準を満たさなければならない“タッチ”乗車はその処理速度の変更対応が難しく、これからも両者の差が大きく埋まることはないだろう。ただ、これはあくまで副次的な話で、現時点で“タッチ”乗車では実現できていない交通系ICカードの機能が存在する。

典型的なのが「定期券」と「小児運賃」だ。

定期券は区間運賃なので、例えば定期券で使う入場駅と出場駅(必要に応じて経由駅も)の情報をサーバ側で記録しておき、「特定のカード番号について“定期券”で指定された期間であれば両駅間の移動については追加請求を行なわない」といった処理で対応が可能だ。定期券はオンラインやアプリ上でカード情報に紐付ける形で購入させるようにすればいい。

話はこれで終われば済むのだが、日本の鉄道の定期券には罠があり、「区間外利用」が可能になっている点が挙げられる。もし区間外の駅で出入りした場合、区間内の最短ルートとなる駅からの運賃を追加で残高から差し引く仕組みで、この場合の運賃計算はやや複雑となる。この方式の採用であれば現状で交通系ICで実現できていることなので、計算をサーバ側で行なったところで不可能ではないのだが、もし次の「料金キャップ制」を併用しようと考えると相性が悪い。

サーバ方式で運賃計算が行われている青森駅の自動改札機

英ロンドンや米ニューヨークで導入されている仕組みだが、交通機関単位で1日あるいは1週間に支払う運賃の上限が決まっており、上限に達した後は“タッチ”乗車を繰り返しても追加請求が行なわれることがないのが「料金キャップ制」であり、“後払い方式”を採用しているがゆえのメリットでもある。両都市ではこれを「定期券」的に活用しており、例えば5日間連続で同じ距離を通勤や通学で移動すると残りの日はもう追加請求が行なわれないため、仕事やプライベートに自由に移動に活用できる仕組みだ。ロンドンは料金制度にゾーン制を採用しており、ニューヨークに至っては市内交通(MTA)は一律料金となる。つまり料金キャップの前提となる上限運賃が設定がしやすい。

ロンドン市内の交通運賃のゾーン区分け図。移動したゾーンに応じて料金やキャップが上昇する
ロンドンで最も新しい地下鉄路線のエリザベス線。ピカデリー線と並ぶヒースロー空港へのアクセス路線となる

対して日本の場合の運賃制度は「距離運賃」であり、定期券もまた運賃テーブルを基準に価格が設定されている。

料金キャップ導入に関して日本の場合に考えられるのは、1日単位あるいは1カ月単位となるが、仮に料金キャップ設定を1カ月定期に適用した場合、定期券の基準額を上限とすると仮定する。ここで問題となるのが「上限がいくらになるのか」が距離運賃では決定できない点で、例えば通勤の片道に190円かける人と420円かける人とでは料金キャップでかけるべき上限額が当然異なるにもかかわらず、その判断基準がない。

毎回同じ移動を変わらず続けるのであれば問題ないが、一度でも料金外の移動を行なうと基準額が変わってしまう。つまり、日本の距離運賃体系では定期券も料金キャップも事前購入型が前提となる。そのうえで、PAYG(Pay As You Go)式と呼ばれる都度運賃を請求する形が適当となる。

定期券に関してさらに問題となるのが、「学割運賃」と「有効期限」の2つだ。「学割運賃」は「小児運賃」の問題にもつながるが、まずクレジットカードが18歳以上が対象となるため、高校生以下ならびに大学生の多くがその対象外となること。そして紐付けるカードの所有者が「学割運賃の対象者である」ことをどこでチェックするかだ。

現状は窓口対応で発行されている通学定期券だが、前述の方法でカードとの紐付けを行なう場合、どこでチェックを入れるかが問題となる。また、おそらく中学生以降になると思うが、非接触決済対応のデビットカードの発行が必要となる。もしくは、小学生の利用を想定して非接触決済対応の“プリペイドカード”を用意する必要が出てくるかもしれない。一般に「6歳以上12歳未満」を小児運賃の対象としているが、未就学児は無料対象の幼児扱いとなるため、実質的に小学生を対象とした運賃体系となる。現状で交通系ICカードも小児向けは明確な販売時点の基準がなく、改札通過時にランプ点滅、あるいは音で知らせることで判断しているに過ぎない。もし小児運賃利用のための“タッチ”乗車プリペイドカードを発行する場合、同様のギミックで対応する形になると思われる。また、そのようなカードをどのように用意するのか、改めて考える必要があるだろう。

有効期限も地味にやっかいな問題だ。特に定期券の利用期間に有効期限がやってくる場合、切り替えタイミングでの手動での対応が必要となる。乗客であるユーザー自身が行なうのが前提となるが、窓口対応を含む何らかのサポートが求められるケースも想定され、このあたりの対応も鉄道各社の負担となるだろう。まとめると、交通系ICの機能をそのまま“タッチ”乗車でも実現することは不可能ではないが、考慮すべき点はいろいろ増えるとうのが実際だろうか。

やはりインバウンド対応で重要となる“タッチ”乗車

一方で、「インバウンド」「企画乗車券の発行」とは非常に相性がいいというのが“タッチ”乗車のメリットだ。われわれが諸外国を旅行したことを想定すると分かりやすいが、いちいち現地通貨を入手することなく公共交通を利用できるメリットは計り知れない。対して、現状の交通系ICは現金チャージが基本であり、Welcome Suicaといったカードの入手やクレジットカードでの残高チャージは窓口での対応が必須となり、空港や主要駅で長い行列に並ぶ必要がありストレスだ。手持ちのクレジットカードやデビットカードがそのまま使えるのであれば、買い物も含めてスムーズな移動や買い物ができる。

先ほど「料金キャップ」導入のハードルの高さについて言及したが、この場合に代替となるのが企画周遊券だ。

インターネット上で事前に企画乗車券を購入してクレジットカード番号を紐付けておけば、PAYGによる料金請求を気にすることなく、事前購入したチケットの範囲で自由な移動が可能になる。本来は料金キャップで実現される「1日乗車券」や「3日周遊券」といった類いのサービスはこれで実現できる。

“タッチ”乗車のみならず、こちらはQRコードを使った乗車券とも相性がいい。印刷した紙を持ち込んだり、アプリの画面に表示させたりと、複数の方法がある。こちらであれば、例えば非接触対応クレジットカードなどの普及率が低く、コード決済の利用が中心の中国や東南アジア方面の訪問者も利用が容易だ。

先日、中国Ant InternationalプレジデントのDouglas Feagin氏が来日し、「交通系サービスでの各国展開は得てして遅くなる傾向があるが、日本においてもAlipay+を公共交通で利用できるようにしていきたい」と語っている。共通QRコードは2024年における大きなテーマだが、“タッチ”乗車のみならず、QRコードでも越境利用が進むことになるかもしれない。

Alipay+の交通系への拡大にも言及するAnt InternationalプレジデントのDouglas Feagin氏

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)