鈴木淳也のPay Attention

第165回

東急電鉄が「オープンループ」採用に向かう理由

二子玉川駅と隣接する東急グループの複合施設「二子玉川ライズ」

2022年12月8日に東急電鉄が「クレジットカードのタッチ決済」と「QRコード」乗車の実証実験を2023年夏に開始することを発表したが、これまで「クレジットカードによる“タッチ”乗車」の導入が関西や九州を中心とした“西高東低”だったのに対し、首都圏エリアでは初の鉄道事業者による実証実験の開始となる。

今夏に田園都市線を中心とした一部先行駅で実験を開始し、2024年には東急線全駅を対象にするという。

東急電鉄の公式回答によれば、現時点で先行導入駅がどこになり、同時に開始されるQRコード乗車においてどういった“企画券”が発行されるかは未定としているが、かつてモバイルPASMO導入の立役者となった同社が、なぜいまクレジットカードの“タッチ”で乗車を可能にする「オープンループ」導入に傾き、さらに日本全国の交通事業者がどういう状況に置かれ、何を考えているのかをまとめたい。

コロナ禍が変えた行動様式とクレカ推進の狙い

南海電鉄を始めとする先達の成功事例を受け、三井住友カードの推進する「stera transit」には問い合わせが日本全国から相次いでいるというが、同事業を取りまとめる三井住友カード アクワイアリング本部 Transit事業推進部長の石塚雅敏氏は昨今交通事業者が置かれている状況を次のように説明している。

石塚氏:例えばVisaのタッチ決済を導入しているJR九州では、博多駅から香椎駅までの区間で実証実験を行なっていますが、この間の輸送は“日常”の通勤通学が中心であり、ある程度の定期券利用が存在しています。そうした用途は(同社が発行する交通系ICカードの)SUGOCAがカバーしていますが、“非日常”の輸送となったときにNFCの“タッチ決済”を利用し、どういった発見があるのかを検証しています。

普段使いであれば定期券となりますが、低頻度の外出の場合には切符を買う人がいるかもしれないし、ICカードを毎回1,000円とかの定額でチャージして利用するかもしれません。このあたりは人それぞれですが、チャージレスで低頻度利用者をある程度カバーするのが“タッチ乗車”で狙う領域になります。

九州でも博多近郊であればICカード利用者が多いですが、SUGOCAが利用できるのはJR九州で690駅あるうちの半分程度でしかありません。券売機や現金取り扱いの問題もあり、利用者からしてもICカードの現金チャージは面倒です。九州のみならず首都圏でも似たような事情があり、クレジットカードで決済という狙いはそれほどずれていないと考えます。

過去の記事でも触れたように、都市部では交通系ICカードがある以上、それでもなお“オープンループ”を鉄道事業者が導入するのは、関西空港や福岡空港への接続路線を抱える南海電鉄や福岡市地下鉄が「インバウンド」利用を想定してのものとされていた。

これ自体は現在も変わらないのだが、より重要なのは石塚氏の発言にもある「定期券による“日常”での利用」の部分だ。コロナ禍で通勤需要は激減し、テレワーク中心で定期券を購入しないケースも増えてきた。最近になり通勤需要が復活してきたとされるが、それでもコロナ禍突入前の水準には及ばないのが現状。

このように“日常”での利用が減少する一方で、“非日常”での利用が復活し、その利用比率が変化していることが大きいという分析だ。

東急の田園都市線と東横線が直通する渋谷。東急の商業施設が多く密集するグループ本拠地の1つで、現在もなお再開発の途上にある

石塚氏:東急が田園都市線を実証実験に選ぶのはなぜか? と思われるかもしれませんが、“日常”の移動の活性化という問題意識が根底にあります。

東急グループでは二子玉川など沿線に複数の基幹モールを抱えており、商業施設を運営する立場として、日常利用を想定した住みやすい街作りを目指していることもあり、今回出されている実証実験のプレスリリースでも東急電鉄のみならず、東急株式会社が含まれています。

定期の話をすると、人々の日常利用が定期とそれ以外でコロナ禍以前は定期の割合が高かったのが、2年以上を経た移動制限のない現在でも戻ってきていません。各社の発表から分析する限り、東急では8割を切っており、(田園都市線が直通する)東京メトロで7割程度で、主要な旅客層の多くが以前と同じ動きをしなくなっていることが分かります。移動が減れば運輸収入は戻ってこないし、線路の維持や安全管理のための経費率が上昇して経営の圧迫要因になります。

一方でまったく移動していないわけでもなく、前と同じではなくなった、あるいは頻度が減ったのでしょうか。その場合、『移動して消費』というモデルで成長してきた日本の鉄道の根底が変わってきていることを意味します。

東急としては、移動を創出するためにどうするのか、移動を創出しようとするときに目的地をどう意識させるのかといったことを考えなければいけません。

実際、各社の決算を見ていると“非日常”の移動は回復してきています。三井住友カードが元来得意とする買い物での利用を見据えて実証実験を重ねて、ある程度の母数を得て駅周辺での消費活動が高まっていることが分かってきました。サンプルとしてはまだ多いとはいえませんが、旅行などでの移動や娯楽にお金を費やす人はけっこう多く、アクティブに移動してリアルに買い物するという性格が見えてきています。こういった傾向は若い層が多く、20代や30代あたりがボリュームゾーンだといえます。

見逃されがちだが、クレジットカードは普段の消費行動に結びついており、これをオープンループ乗車と組み合わせることで、移動と買い物を含めた一気通貫のデータ分析が可能だ。交通系ICカードが主に移動と駅周辺の商業施設がターゲットになるのに対し、幾分かカバー領域が広い。

現状ではまだ“移動”の部分が足りないクレジットカードだが、今後導入する事業者が増加することで商圏分析がより正確になり、後述の「付加的なサービス」を提供する余地が生まれる。筆者のある情報源によれば、交通系ICカードよりもオープンループ乗車に注目する事業者が近年増えている理由に、インバウンドや導入コストの問題のみならず、クレジットカードを組み合わせて改めてビジネスを組み立て直すことが狙いにあるという。

現在まだ調査中だが、私鉄らを中心としたグループが“交通系IC”でのポストペイドではなく、クレジットカードを選ぶ理由はここにあるのではないかと筆者は考えている。

なぜ田園都市線だったのか 直通の処理は?

後の東急の母体となる「田園都市」という会社は、2024年度から1万円札の肖像として用いられることでも知られる渋沢栄一氏らによって1918年に設立された。住宅都市開発を目指した会社で、田園調布として知られる高級住宅地の造成を行ない、鉄道事業はこれら地域を結ぶ足としてスタートしている。

今日の田園都市線のベースとなる路線はもともと玉川電鉄を買収して得たものだが、その沿線開発は不動産業を得意とする同社のノウハウが活かされており、田園都市線はある意味で東急の土地開発のモデルケースとも呼べる路線といえる。

なぜ東急でも世田谷線のような“閉じた”路線ではなく、わざわざ乗降人数や駅数も多く、東京メトロ半蔵門線を通して東武伊勢崎線まで直通している、より複雑な田園都市線を選んだのかといえば、前出のような問題意識がまず東急の中にあったからだと石塚氏は分析している。

東急田園都市線の車両。渋谷と中央林間を結ぶ

首都圏では私鉄各社が東京都心部の環状線である山手線の内側に乗り入れるべく地下鉄建設の免許を相次いで申請したが、混乱を避けるために地下鉄路線を介して私鉄各社が相互に乗り入れを行なうという「相互直通」運転が実施されている。つまり郊外から私鉄に乗って東京都心部までやってくると、そのままその列車で地下鉄線路へと進入し、中心部の好きな駅で降りられるという仕組みだ。

都市交通としては世界でも珍しい仕組みで、首都圏での運賃計算や改札処理の複雑化の原因にもなっている。

東急電鉄では実証実験開始直前に詳細を公開するとしているが、開始当初は「相互直通」には対応しないとみられる。

ただ石塚氏によれば、こうした東京首都圏の交通事情から、東急のプレスリリース発表にあたって同社のみならず接続先となる全社にも話は行っており、相互直通先となる東京メトロも同件について当然何らかの検討を進めていると説明する。つまり、東急の独断で今回の話がスタートしたわけではないということだ。

一方で、前述のように現時点では東急側でまだどのような実証実験を行なうのか決まっていない。相互直通のみならず、「入出場の2点間タッチでの差分運賃の徴収をやるのか」「1日券などの企画券を用意して、それを購入させるのか」など、実際に開始直前までどのような形になるのかは分からない。

ただ、「クレカによる“タッチ”乗車は(交通系ICカードの)補助的なもの」「QRコードを使った企画券の提供」という基本があり、先達の南海電鉄の事例も参考にして、同様の改札システムを導入するのではないかと考えている。

問題となるのは、ここでの「QRコード乗車」の活用方法だ。JR東日本では2024年から一部駅でのQRコードによる乗車サービスを開始するが、この仕組みは「えきねっと」アプリの利用を前提としている。

アプリ上で事前に区間運賃の切符を購入しておき、アプリでQRコードを表示させることで改札を通過する。いわゆる「MaaS(Mobility as a Service)」の仕組みではチケットの事前購入が前提となるが、現行のQUADRACのシステムを利用した“タッチ”乗車の仕組みでは運賃は1日単位での集計による後請求が基本となり、ポストペイドが前提となる。

オープンループで先行する英ロンドン(TfL)や米ニューヨーク(MTA)の事例では、この後請求の仕組みを利用して一定以上の利用で支払額に上限を設ける「フェアキャッピング(Fare Capping)」が導入されているが、石塚氏によれば、現在日本の鉄道事業者の間では「1日乗車券の代替をフェアキャッピングで行なうかどうか」が議論になっているという。

1日乗車券の仕組みを導入する鉄道事業者は現在でも多いが、宣伝のための販管費がかかるうえ、このために窓口と券売機を用意しなければいけないという悩みがある。これをFare Cappingで置き換えてしまえば関連コストがまとめて削減できるし、もしQRコードを使った仕組みで利用客をモバイルに誘導できるのであればそちらにもメリットがある。どの手法がベターで、あるいは共存させるのか、その判断は実証実験をもって検証されることになる。

QRコード読み取りに対応した改札機が先行設置されたJR代々木駅(写真提供:JR東日本)
新型改札機のQRコード読み取り部(写真提供:JR東日本)

Visa以外のブランド対応はどうなるのか

日本ではVisaが先行したクレジットカードの“タッチ”によるオープンループ乗車の仕組みだが、他社に先行する形でJR九州ではJCBブランドへの対応も開始しており、今後は他事業者にも順次展開される。石塚氏によれば、複数ブランドの対応についてはQUADRACのセンターにブランドルールを実装し、同センターの準備ができ次第、既存のリーダー装置をアップデートしていく形になるという。

センター側で一度対応を完了させてしまえばブランドの拡大自体は難しくないが、例えば大手事業者のバスのように何台もの車両に備え付けられたリーダー装置のソフトウェアを更新しなければならないとき、展開に時間がかかるケースは想定されるという。最終的にどのブランドに対応するか判断するのは各交通事業者であり、三井住友カードやQUADRAC側では順次対応ブランドを増やすのみとなる。

JR九州の例で、Visaの次の対応がJCBとなったのは開発が完了した順番と石塚氏は述べる。Mastercardについても交渉を進めており、先方でもやりたいとは述べているものの、現時点では対応時期を含めて具体的に決まっていることはない。ある情報源によれば、日本国内におけるMastercardは諸外国とは異なる処理ネットワーク形態となっており、これがオープンループ対応の足かせになっていると指摘する。いずれにせよ未対応の原因はMastercard側にあるとの判断で、しばらく経過を見守るしかなさそうだ。

これとは対照的に、いま最も事業者側から三井住友カードにブランド対応の問い合わせがあるのは「銀聯(UnionPay)」だという。インバウンドを考えたときの最大のボリュームゾーンであり、Visaの次にリクエストが多いという。バスや鉄道のみならず、空港を結ぶ交通路線や繁華街や観光地での移動需要など、どこも銀聯対応を要望しているようだ。

特にバスの場合は言葉の問題で運転手と外国人の間のやり取りがネックとなるため、会話すらなしで利用が可能なオープンループは導入効果が大きい。顕著な例では、例えば富士急ハイランドはインバウンド需要が非常に大きく、あるときは1万円札を握りしめた大量の外国人客がバスに押し寄せて、充分なお釣りを全然用意できない問題があったという。

釣り銭対応で運転手の負荷や定時運行の問題もあり、他方で事業者は事前購入を促すための券売機を置きたくないという理由もある。飛び乗りですぐに利用できる仕組みが望ましく、その点でオープンループの仕組みは理想的というわけだ。

福岡市地下鉄のオープンループ対応改札機

現状で日本国内でstera transitのような仕組みを提供できているのは三井住友カードとQUADRACの組み合わせだけであり、一種の独占状態に近い。実際、日本市場参入に興味を持っている事業者は世界的にも存在し、例えばロンドンやニューヨークでオープンループを導入した米Cubic Transportation Systemsや、やはり世界的に顧客を持つ英Masabiなども興味こそあるものの、実際に動きは見せていないと石塚氏は説明する。鉄道事業に関していえば日本の方が輸送量などの面で優位にあり、市場向けのカスタマイズという点で参入難易度が高いのではないかという分析だ。

ただ、参入事業者が複数ある方が競争原理が働くことも事実であり、この点は歓迎したいと同氏は加える。

今後の展開としては、オープンループで“できること”と“できないこと”を見極めていくことにあるという。例えば小児運賃は現状では設定できていない。クレカを持てない層である小児運賃や学生向け割引では、プリペイドやデビットを活用することになるが(カード番号を登録して割引適用対象にする)、交通事業者ごとに運賃算出テーブルが分かれており、これをどう適用していくかという形になる。

より難易度が高いのは「敬老パス」など自治体や事業者が提供する福祉割引で、小児運賃は事業者間で共通ルールを持っているのに対し、こちらは特に決められたルールがなくまちまちだ。こうした敬老パスを交通系ICカードとして提供している自治体も多いため、「本当にICカードと同じサービスを提供しなければならないのか」も含め、検討事項は多い。

ただ、事業者側の視点でいえば「ポストペイド(後払い)」という仕組みに興味を持つところは多いと石塚氏はいう。交通系ICカードの難点として「引いた額を戻せない」ということがあり、企画券を含む柔軟性の高い運賃設定やサービスの提供ができない。ポストペイドであればこうした課題を解決し、個々にパーソナライズした運賃の提供が容易になる。日本では反応がいまひとつだった、ポストペイド型の交通系ICカードの世界だが、いまオープンループの世界でポストペイドの仕組みに再び注目が集まる背景はここにある。

三井住友カード アクワイアリング本部 Transit事業推進部長の石塚雅敏氏。鹿児島市電のVisaのタッチ決済導入の説明会にて

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)