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国宝「曜変天目」など天下人も魅了した至宝が集結! 特別展「大徳寺 本朝無双之禅苑」

開創700年記念 特別展「大徳寺 本朝無双之禅苑」

東京国立博物館において、大徳寺の開創700年を記念した特別展「大徳寺 本朝無双之禅苑」が、2026年10月14日から12月6日までの会期で開催されている。

大徳寺の膨大な寺宝を一堂に集めた展覧会は実に41年ぶりであり、東京で開催されるのは史上初めてとなる。会場には、国宝14件、重要文化財69件を含む非公開の至宝や名宝が多数出品され、前期・後期あわせて約160点もの宝物がズラリと展示される。

開創700年記念 特別展「大徳寺 本朝無双之禅苑」

会場:東京国立博物館 平成館(東京都台東区上野公園13-9)
会期:2026年10月14日(水)〜12月6日(日)
【前期】10月14日(水)〜11月8日(日)
【後期】11月10日(火)〜12月6日(日)
観覧料:当日券 一般 2,300円/大学生 1,300円/高校生 900円(中学生以下無料)

なお、観覧者による展示室の撮影は終章を除いて禁止。以下の写真は主催者の許可を得て掲載している。

会場案内図。終章以外は撮影禁止

後醍醐天皇が「本朝無双」と讃えた孤高の禅苑

京都・紫野にある大徳寺は、鎌倉時代の末期、嘉暦元年(1326年)に大燈国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)によって開創された。

そう書き始めてみたものの、生まれた時から今まで、関東から離れて暮らしたことがなく、大徳寺についてよく知らない。記憶を辿ってみても歴史の授業で聞いたことはなかったような……でも、その寺の名を聞いたことがあるような……あぁ、一休さん(一休宗純)や沢庵さん(沢庵宗彭)がいた寺ではないかと、ぼんやりと思い浮かぶくらいだ。

展示風景

同展のチラシなどを見ると、南北朝時代には北朝の花園上皇や、建武の新政を行ない、後には南朝の祖となる後醍醐天皇の深い帰依を受けたとある。その後醍醐天皇から「本朝無双の禅苑」、つまり「日本に二つとない卓越した禅寺である」と称賛されたことが、今回の展覧会名の由来だ。

だがこれは、あくまで700年ほど前に生きた人の感想だ。では、最近はどうなのか? と言うと、歴史小説家であり随筆家である司馬遼太郎は「街道をゆく 34 大徳寺散歩」で、次のように記している。

「この凝然たるいらかのかたまりは、鎌倉末以来、日本における臨済禅の濃密な拠点なのである。名刹や古刹が観光資源化してしまったこんにち、大徳寺だけは山内の一部をのぞいて、俗化をこばんでいる。」

つまり、後醍醐天皇が「本朝無双の禅苑」と記した時の空気感が、司馬遼太郎が訪ねた昭和の当時にもよく残っていたのだろう。司馬遼太郎は次のようにも記している。

「室町といえば、現在の日本文化の源流がことごとくこの時代から興っているのである。その点では、華麗このうえもなく、もし日本史に室町時代をもたなかったなら、私どもの文化はごくつまらないものになっていただろう。」

また一休宗純について語っている項では、この大徳寺と一休宗純こそが室町文化と芸術の精神的中心であったとも記している。室町時代は、前半は南北朝時代であり、後半は戦国の世が続き、その多くが動乱の時代だった。だが大徳寺という場と禅の精神を通じて生まれた「禅・茶・能・絵画」の美意識こそが、現代に繋がる日本文化の豊かな源流となったと司馬遼太郎は、同書で評価している。

そうした雰囲気を多くの寺宝により体感できる、大規模展としては41年ぶり、また東京では初めて開催されるのが今展なのだ。

会場の「序章:禅の広がり」および「第1章:大徳寺の開創」では、そうした、大徳寺が辿ってきた禅の源流と峻烈な求道精神を示す名品が並ぶ。

特に前期展示のハイライトとなるのが、会場を入って少し進んだところに展示されている、日本美術史においては、神格化されていると言ってもいい、中国の南宋時代の牧谿(もっけい)が描いた国宝《観音猿鶴図(かんのんえんかくず)》だ。

展示風景

東京国立博物館で同展を担当した研究員は「非常に幻想的な湿潤な大気感というのが克明に表されております」と、まずは美術的な観点から解きほぐす。

さらに「この作品の中では、猿や鶴の発した声、つまり音が響き渡っている」と指摘。「音というのは禅宗で非常に重要なもの。かすかな音をきっかけに悟りを開いた人がたくさんいます」と続けた。また、「真ん中の観音様、大きな耳でその音を聞いているのかと思いきや、目を閉じて瞑想している。つまりこの観音様は音を聞くだけではなく、その音を見ている。音を聞いて悟りを目指すその姿に、禅僧あるいは禅宗に帰依した人々は、自らの姿を重ね合わせていたのだろうと思われます」と語り、禅画の視点からも詳らかにしてくれた。

展示風景

建武元年(1334年)に描かれた大燈国師の肖像画(頂相)、国宝《宗峰妙超像 自賛》は、眉を寄せ見る者を問い詰めるような鋭い眼光が印象的だ。また、遺言とも言える遺偈、後醍醐天皇自筆の国宝《後醍醐天皇宸翰置文》(後期展示)など、厳しい禅風と皇室とのつながりを物語る歴史的墨蹟も展示されている。

展示風景

型破りな「一休さん」と戦国武将たち

アニメ「一休さん」でとんち小僧としておなじみの一休宗純。しかしその実像は、権力化・形骸化した当時の禅宗に激しく反発した、破天荒な高僧だった。「第2章:大燈禅の継承」を中心に、一休宗純ゆかりの貴重な文化財が展示されている。一休宗純も、大徳寺と深い縁をもつ人物なのだ。

室町時代後期、大徳寺は応仁の乱の兵火により伽藍をことごとく焼失した。1474年、当時80歳の一休宗純が推されて住持となり、荒廃した寺の再興に尽力した。大徳寺中興の祖とされる一休宗純の肖像画は、前期展示で3幅、後期展示で2幅が見られる。

特に、室町時代に描かれた酬恩庵蔵の《一休宗純像》は、異様に長い朱鞘を脇に差した姿で描かれている。42歳の時、堺の街を木刀を差して練り歩き、「形ばかりの偽の禅僧は鞘入りの木刀と同じで、人を殺すことも生かすこともできない」と痛烈に批判したエピソードを象徴する肖像画(頂相)だ。

展示風景

このほか、一休宗純が応仁の乱の難を逃れるため、袋に入れて持ち出したとされる、大徳寺開山・大燈国師の墨蹟である国宝《看読真詮榜(かんどくしんせんぼう)》も、その袋とともに見ることができる。

展示風景
展示風景

狩野永徳筆の《織田信長像》など戦国武将が大集合!

平安時代から鎌倉時代にかけて、日本では浄土教が広く信仰を集めた。「南無阿弥陀仏」と念仏を称え、阿弥陀仏の救いを信じて極楽往生を願う。自らの修行の力だけに頼るのではなく、仏の力に救いを求める「他力」の教えだ。

一方で鎌倉時代には、臨済宗や曹洞宗といった禅宗も広がっていく。坐禅や修行を通じて自らの力で悟りを目指す「自力」の教えである。どちらが悟りへの近道なのか筆者には分からない。ただ、禅宗には、理屈っぽくて厳しそうな印象がある……あくまで筆者のイメージだ。

こうした禅宗の興隆は、各地の武家が力を持ち、動乱が続いた社会とも無縁ではないだろう。とりわけ臨済宗は、室町幕府や武家の庇護を受け、政治や文化の世界で大きな存在感を示すようになる。その象徴ともいえるのが、臨済宗寺院を格付けし幕府の管理下に置いた「五山・十刹の制」だ。高校の日本史で「テストに出るよぉ〜」と教わった、あの制度である。

先述したとおり筆者は大徳寺について、これまであまりよく知らなかった。しかし考えてみれば、それも不思議ではないのかもしれない。大徳寺は、室町幕府が整えた五山・十刹の枠組みから離れ、独自の道を歩んだ禅寺だからだ。

大徳寺は、花園上皇や後醍醐天皇の帰依を受け、一時は五山の第一位に相当する格式を認められた。ところが、足利政権の成立後、幕府との関係が悪化し五山から外される。さらに十刹のひとつに位置づけられたものの、自らその地位を辞退した。幕府の統制や保護から距離を置き、独自の禅風を守る道を選んだのである。こうして大徳寺は、五山に属さない「林下(りんか)」の禅寺として、独自の存在感を保っていく。

「第3章:戦国武将と塔頭」では、そんな大徳寺が、堺の豪商や戦国武将たちから熱烈な帰依を受けた、その歴史に迫る。三好長慶、大友宗麟、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀長など――名だたる武将たちが、大徳寺の境内に競うように塔頭(たっちゅう)を建立した。幕府の権威に寄らず、独自の禅風を守り続けた寺。その魅力は、戦国の世を生き抜く武将たちの心を捉えたのだ。

展示風景

今年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも描かれているが、本能寺の変の後、天正10年(1582年)9月に信長の妹・お市は、柴田勝家とともに京都の妙心寺で信長の百箇日法要を営んだ。しかしその約1カ月後の10月、秀吉がそれに対抗するかのように、葬儀を執り行なった舞台こそが、この大徳寺である。

さらに翌年には、信長の法号にちなんだ大徳寺の塔頭(たっちゅう)、総見院を建立。その後の法要などは同院で営まれた。展覧会の前期では、その葬儀の際に掲げられていた可能性も十分に考えられるとされる、総見院蔵で狩野永徳筆の《織田信長像》が前期に展示されている。一方、後期には三回忌の法要の際に掲げられた、同じく狩野永徳筆の大徳寺所蔵の肖像画が展示される。

展示風景

鳥肌が立った! 国宝《曜変天目》

大徳寺を語る上で欠かせないのが、「茶の湯の聖地」としての側面だ。禅と茶道は切っても切れない関係にあり「茶と禅は精神において一つである」とする「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」の美学は、ここ大徳寺で育まれ、完成へと向かった。

この地で「わび茶」を大成させたのが、千利休である。利休は大徳寺の僧に就いて長年にわたり禅を修め、大徳寺を菩提寺とした。塔頭の「聚光院」には利休や三つの千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の代々の墓所があり、現在に至るまで大徳寺と三千家は極めて深い絆で結ばれている。

本展では、一生に一度は見たい2つの茶碗が出品されている。1つは国宝《大井戸茶碗 喜左衛門井戸》。数ある井戸茶碗の中でも「天下第一の名碗」または「井戸茶碗の最高峰」と、古くから茶人たちの間で称えられた逸品なのだそう。もとは朝鮮半島の日常雑器として作られたものが、日本の茶人によって「わびの美」の極致として見出され、江戸初期の茶人・小堀遠州ゆかりの、大徳寺塔頭・孤篷庵に納められた。

展示風景

同じく大徳寺の塔頭、龍光院が所蔵する国宝《曜変天目》(中国・南宋時代、12〜13世紀)も、前期展示で見られる。曜変天目は、現存品が世界に3点しかない奇跡の茶碗。漆黒の釉薬の中に光の加減で虹色の斑文が浮かび上がる様子を目の前にした時、会場の演出によるだろうが、ゾワッと鳥肌が立った。

さらに、重要文化財《油滴天目》(龍光院蔵、11/25〜12/6展示)や、名物《唐物丸壺茶入 宗及丸壺》(龍光院蔵)など、茶人や数寄者、へうげもの(ひょうげもの)が熱狂した名品が並び立つ。

狩野永徳から探幽まで! 堂内を彩る至高の「障壁画」

「第5章:禅宗美術の精華」では、戦国武将や有力な町衆の崇敬を集めた大徳寺本坊や数々の塔頭を飾った障壁画群のほか、中国・朝鮮半島から渡来した貴重な美術工芸品など、日本および東洋美術史を代表する名品が並んでいる。

なかでも見逃せないのが、塔頭の一つ、聚光院の堂内を飾った狩野永徳が描いた《花鳥図襖》(前期展示)と、国宝《琴棋書画図襖(きんきしょがずふすま)》(後期展示)だ。永徳ならではのダイナミックな構図と力強い筆致からは、圧倒的なエネルギーが伝わってくる。また前述した司馬遼太郎の『街道をゆく』には、この障壁画がフランス・ルーヴル美術館で展示された際、現地の画家から「まさしく400年前の抽象画だ」と絶賛の手紙が届いたというエピソードが記されている。

展示風景

そのほか江戸時代に狩野探幽が描いた《梅鷺図襖》(大徳寺蔵、前期展示)が、筆者の好みだった。たっぷりと余白を取った中に、雪の積もる梅が控えめに描かれ、襖の前に立つと静かな空間に1人で立っているような静謐さを感じる作品だ。

展示風景

終章では、再び千利休について思いを馳せたい。天正17年(1589年)、千利休は大徳寺の三門「金毛閣」の二層(楼閣)部分を寄進する。その楼上に自身の木像を置いたことが、「天下人である秀吉に自分の足下をくぐらせるのか」と秀吉の激怒を買い、利休切腹の決定的な引き金となったとする逸話は有名である。

会場では、通常非公開である三門の内部空間が再現されている。長谷川等伯ら長谷川派の手によるとされる朱鮮やかな天井の龍図や柱絵の雰囲気が再現され、中央には、三門楼上に安置されている初公開の本尊《釈迦如来坐像》(室町時代・応永11年・1404年、印慶作)と脇侍の迦葉(かしょう)・阿難(あなん)立像が置かれている。

展示風景
展示風景
展示風景

秀吉・秀長兄弟と千利休が生きた時代の《千利休立像》は、秀吉によって一条戻り橋で磔(はりつけ)にされて破却されたと言われている。今展では、明治時代に寄贈され三門に納められた《千利休立像》を展示。一連の展示と合わせて、豊臣秀吉や秀長、それに千利休と大徳寺を巡る歴史ドラマを空想するのも今展の楽しみ方の一つだろう。

今展を振り返ると、自分が何に美しさを感じるのか、その原点を見られた気がする。それは、司馬遼太郎の言葉を借りて前述したが「大徳寺という場と禅の精神を通じて生まれた美意識こそが、現代に繋がる日本文化の豊かな源流となった」からなのだろう。12月6日まで続く今展を、機会を作って改めて訪ねたい。