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トヨタ王国を走る「豊橋鉄道市内線」を全踏破 市営ではないけど愛称“市電”
2026年6月3日 08:20
豊橋鉄道は愛知県豊橋市・田原市に路線網を有する鉄道事業者です。1925年に市内線(東田本線)を開業しているので、昨年に開業100年という節目を迎えています。
豊橋鉄道は軌道法に準拠して走る路面電車と鉄道事業法による鉄道の2つを運行しています。鉄道線は新豊橋駅-三河田原駅間の約18.0kmを結ぶ「渥美線」です。田口線と呼ばれる鉄道線も運行していましたが、田口線は1968年に全廃しています。
一方、豊橋鉄道の路面電車は1973年に東田(あずまだ)本線の市民病院前-駅前間が廃止になり、1976年には柳生橋支線も廃止されました。こうして豊橋鉄道が運行する路面電車は「東田本線」だけになっています。
それから半世紀を迎えましたが、豊橋鉄道の運行する路面電車は以前よりも存在感を増しています。そんな豊橋鉄道市内線の全線踏破に挑んでみました。
トヨタの影響下でも長年にわたり市民の足を担う路面電車
豊橋鉄道の渥美線と東田本線のうち、後者の東田本線は一般的に路面電車と呼ばれる鉄道で、道路の上を自動車と一緒に走っています。
1960年代の高度経済成長期、経済的に豊かになったことで多くの人たちが自家用車を購入しました。それにより道路にマイカーが溢れましたが、他方で公共交通は厳しさを増していきました。
特に、邪魔者として扱われたのが路面電車です。路面電車は自動車と道路を共有しているため、のんびり走る路面電車は、自動車交通を阻害すると映ったのです。路面電車の線路を引き剥がせば、その分だけ車線が増えます。そうした大義名分のもと、全国各地から次々と路面電車が姿を消しました。豊橋鉄道の路面電車も1970年代に縮小を迫られました。
2023年に栃木県宇都宮市・芳賀町で新型路面電車が開業し、路面電車を再評価する機運は確かなものになっています。しかし、それ以前から鉄道関係者や自治体関係者の間では路面電車の活用を模索する動きはありました。豊橋鉄道の路面電車でも1990年代後半から、路面電車の使い勝手を向上させる施策が次々と導入されています。
豊橋鉄道の東田本線は駅前-赤岩口間が約4.8km、支線の井原-運動公園前が0.6kmで、合わせても約5.4kmの短い路線です。
そうした短い路線というハンデもありますが、豊橋市は世界最大の自動車メーカーとして知られるトヨタのお膝元に位置する自治体です。トヨタの本社は愛知県豊田市にあり、そのほか県内には研究所や工場といった事業所がたくさん立地しています。また、デンソーやアイシン精機といったトヨタ関連の企業も県内に拠点を多く構えるなど、愛知県全体がトヨタ王国ともいえる経済圏・ライフスタイルが構築されています。
豊橋市はトヨタの影響を強く受ける都市のため、鉄道よりも自動車交通を重視する方針が見え隠れしています。それでも路面電車はしぶとく残り、長年にわたって市民の足を担ったことから愛される公共交通機関になっています。
豊橋鉄道が拠点にしている豊橋市は人口が約36万2,000人(26年5月1日現在)で、愛知県内の市では5本の指に入る人口を擁します。前述したように愛知県はトヨタ王国ともいうべき産業構造・ライフスタイルになっていますが、トヨタの自動車の多くは名古屋港・三河港から輸出入されています。三河港は豊橋市・田原市・蒲郡市・豊川市にまたがっていますが、人口や経済規模で突出している豊橋市は大きな存在感を示しています。
戦後復興に遅れるも民間の力で立ち直る
豊橋鉄道の路面電車は豊橋駅の東口から発着します。豊橋駅はJRと名古屋鉄道(名鉄)が同じ駅舎を共用しています。その一画を豊橋鉄道の路面電車も使っているのです。
一方、豊橋鉄道の渥美線は少し離れた場所に駅舎を構えています。それほど距離が離れているわけではありませんが、別の場所に所在していることもあって両者を区別するように新豊橋駅と名乗っています。
新豊橋駅は2008年に新駅舎へと改築されましたが、その際に豊橋駅と新豊橋駅との連絡をスムーズにする目的で新たに南口が開設されました。
今は経済的に発展している豊橋市ですが、これは戦前期に大日本帝国の陸軍・海軍が大きく影響しています。
明治政府は日露戦争に勝利したことを受けて軍備を拡張する方針を決定し、1908年に高師村(現・豊橋市)に新しい師団が設置されます。
さらに豊橋市の隣には豊川稲荷で有名な豊川市があります。1939年に豊川町・牛久保町・八幡村にまたがる広大な敷地を有する豊川海軍工廠が開設されます。豊川市は日本三大稲荷として数えられ、東京・赤坂にも東京別院を構える豊川稲荷という名刹が所在しています。豊川稲荷は近隣から多くの参詣者を集めて、そうした参詣者による観光収入なども潤沢でした。
他方、豊川海軍工廠によって工業都市としても発展。豊川海軍工廠は日本の軍事力を維持する重要な工場でした。そのため、名鉄豊川線は豊川海軍工廠の工員輸送を目的にして建設されました。豊川線は軌道法に準拠して運行され、かつては路面電車のような車両が走っていました。現在も軌道法に準拠して運行されているので、豊川線を路面電車と見る向きもあります。
陸軍・海軍の影響を受けて豊橋も経済的発展を遂げましたが、軍都であることから、太平洋戦争末期は連合国軍の攻撃対象となり、豊橋は激しい空襲に見舞われました。空襲を受けて市街地は荒廃し、豊橋駅は全焼しています。そして経済的に困窮してしまいます。
終戦後の豊橋市は財源不足も重なって、戦後復興が他都市よりも遅れました。復興が遅々として進まない状況に危機感を募らせた行政・商店主・市民は、豊橋駅を民衆駅方式で復興させることを決断します。
現在のJRは民間企業ですが、当時は日本国有鉄道という公共事業体でした。公共事業体であることから、利益を追求する経営方針は利用者のためにならないという理由で忌避されていたのです。
駅を新築するには莫大な費用が必要です。利益を出さない方針の国鉄は常に経済的に困窮し、それは駅の新築を後回しにすることにつながりました。
駅は街の顔でもあり、多くの人が行き来して駅を目にします。駅が復興することによって、市民が元気を取り戻すことにもつながります。そうした理由から、行政や市民が費用を出し合って駅舎を新築するアイデアが飛び出したのです。
民間が駅費用を捻出することと引き換えに駅構内に出店する権利を付与するというアイデアは、後に民衆駅方式と呼ばれて各地に広がっていきますが、その第一号が1950年に新装した豊橋駅でした。豊橋駅は全国でも先駆的な駅だったわけです。
こうして遅れながらも豊橋駅は復興を果たしていき、1964年には東海道新幹線の停車駅になりました。それから長らく豊橋市に大きな変化はありませんでしたが、1998年には東口の駅ビルと駅前広場をペデストリアンデッキでつないでリニューアルを果たします。東口がペデストリアンデッキに変わったと同時に、それまで豊橋駅と少し離れていた路面電車のホームが駅前広場まで延伸しています。
のりばは「豊橋駅」だけど電停名は「駅前」
先述したように、豊橋鉄道は渥美線という鉄道を運行しています。渥美線の駅名は新豊橋駅です。一方、路面電車は豊橋駅前に乗り入れしています。豊橋駅はJRと名鉄が共用していることもあって新豊橋駅よりも乗降客数が多く、豊橋駅側にのりばを設けた方が利便性は高くなります。
同じ豊橋鉄道が運行する鉄道ではありますが、あえて路面電車のホームをJR・名鉄側に設けているところに豊橋鉄道の現実的な選択を感じます。その一方で、電停名が“駅前”になっているあたりに豊橋鉄道の気概を垣間見ることができます。
全国の路面電車では、JRや私鉄の駅前にのりばがあることは珍しくありません。その際、「〇〇駅前」という名称になることが一般的です。しかし、豊橋鉄道では簡素な「駅前」となっています。全国各地に「〇〇駅前」といった路面電車の電停は多々ありますが、単なる「駅前」は豊橋鉄道だけです。
豊橋鉄道は利用者の利便性を考慮して自社の渥美線が発着する新豊橋駅ではなく、JR・名鉄の豊橋駅前に乗り入れているので「新豊橋駅前」とはできません。だからといって、他社の駅名を用いて「豊橋駅前」にもしたくないという思いもあったことでしょう。駅前という名称になった経緯は明らかではありませんが、そうした経緯から「駅前」という簡素な名称に落着したのではないかと想像してしまいます。
豊橋駅東口のペデストリアンデッキからは駅前に入線してくる路面電車を眺められますが、駅前-駅前大通の電停間はセンターポール化しているので景観的にもスッキリとしています。また、近年は軌道内緑化と呼ばれる取り組みも実施され、軌道内の一部区間に芝生が植えられました。軌道緑化された区間は短いのですが、それでもセンターポール化と眩しい芝生の緑は走行空間の環境改善にもつながり、こうした取り組みは路面電車のイメージ向上や親近感の増幅、ひいては利用促進にもつながると期待されています。
「駅前大通」は一度廃止も2005年に復活
それでは駅前から道路に敷設された路面電車の線路に沿って歩いていきましょう。駅前から延びる大きな道路は、県道143号線で道路の両脇には銀行や保険会社などが並ぶ豊橋の金融街といった趣です。金融街に位置しているのが次の「駅前大通」です。
同電停は2005年に設置された新しい電停です。同電停が新設された背景には、先ほども触れた豊橋駅のペデストリアンデッキ完成が起因しています。ペデストリアンデッキが完成し、豊橋鉄道の路面電車が駅前広場へと乗り入れることによってJRや名鉄との乗り継ぎが便利になったわけですが、その一方で駅前と次の電停である新川との間隔が開いてしまいました。
また、それまでの駅前電停は豊橋の繁華街にあったので、移設によって繁華街へのアクセスが悪くなり、利用者離れや繁華街の衰退も懸念されました。そうした問題を解決するべく、行政と豊橋鉄道は新たに駅前大通という電停を新設したのです。新しい電停が設置されたことによって電停間の間隔は狭まり、繁華街への利便性を損なうことを防ぎました。
同電停は1952年に開設されていましたが、同地に公共駐車場を建設する計画が持ち上がり、1962年にいったん廃止された過去があります。公共駐車場の建設は高度経済成長期にマイカーが溢れたことと無関係ではありません。そうした自動車社会到来の波を乗り越え、電停として再び復活したわけです。
次の「新川」電停は県道143号線と国道269号線の交差点に位置しています。そのため、自動車の交通量は多いのですが、特に路面電車の運行が自動車交通を阻害しているようには感じません。
ここから電車は北へと進路を変え、旧東海道に差し掛かったところで次の「札木(ふだぎ)」電停に到着。札木を過ぎると、今度は国道1号線が見えてきます。国道1号線は東京・日本橋と大阪・梅田新道を結ぶ日本を代表する国道です。
それだけに交通量は多いのですが、路面電車は自動車に混じりながらゆうゆうと走っています。電車が国道1号線を東進していくと、「市役所前」電停に到着。国道1号線から見える瀟洒な建物は市役所ではなく、豊橋市公会堂です。市役所は、その奥の現代的な大きな建物です。
豊橋市公会堂は戦災で豊橋市役所が機能しなくなったことから、戦後の一時期に市庁舎として代替的に使用されていました。市庁舎が再建されてからは再び公会堂としての役目を果たすことになり、それは戦後80年以上も経過した現在でも変わりません。
豊橋市公会堂はスペイン風のドーム屋根が特徴的なデザインをしています。設計した中村與資平は一般的にも有名とは言い難い建築家ですが、愛知県や静岡県、朝鮮半島を中心に多くの庁舎建築を手がけています。現存する建築物は豊橋公会堂のほか静岡県庁舎や静岡市役所本館などがありますが、中村の知名度が高くないこともあって建築物としての注目度は決して高くありません。
石畳の坂を走る様子は豊橋市民の原風景
豊橋市公会堂を横目に見ながら、そのまま国道1号線に沿って歩くと「豊橋公園前」電停に到着。さらに進むと、大きな五叉路が現れます。五叉路の脇には吉田城東惣門跡や吉田中安全秋葉山常夜燈などが建立されています。
江戸時代まで、豊橋一帯は吉田と呼ばれていました。しかし、明治に新政府から愛媛県の伊予吉田藩と混同するとの理由から改称を命じられました。その際に“豊川に架かる橋”を由来とする豊橋が新たな地名として採用されたという経緯があります。
そうした歴史的経緯があるので、吉田城東惣門跡や吉田中安全秋葉山常夜燈といった歴史的文化財は“吉田”という旧地名が付されています。吉田城東惣門跡や吉田中安全秋葉山常夜燈のところに「東八町(ひがしはっちょう)」電停があります。
ここから路面電車は国道1号線から離れて県道4号線を走る区間に入ります。県道4号線の同区間は多米街道と呼ばれますが、これまで路面電車が走ってきた道路と比べると明らかに交通量が少なくなっています。
それまでは背の高いビルや商業施設が目立っていた沿線風景も、一気に住宅街然とした雰囲気に変わりました。そんな住宅街の中に「前畑(まえはた)」電停はあります。前畑と次の「東田坂上(あずまださかうえ)」電停の周辺には、線路がアスファルト舗装ではなく石畳になっている区間があります。東田坂上の電停付近は路面電車が坂を駆け上がるような風景です。
石畳の路面と相まって坂を走る風景は、どことなく昭和のノスタルジックを想起させます。東田坂上付近は豊橋市民の原風景ともいえる区間です。
これは決して大袈裟な表現ではありません。なぜなら、豊橋の街並みや路面電車の風景画をライフワークとしていた画家の伊奈彦定さんも、筆者の取材に対して「東田坂上の風景が一番のお気に入り」と答えているからです。
伊奈さんは小学校の教員を務めながら絵を描き続け、特に豊橋の街を走る路面電車の風景画を得意にしていました。路面電車好きが高じて、とよはし市電を愛する会の会長も務めていたこともあります。
筆者は2005年に『日本全国路面電車の旅』(平凡社新書)を上梓するため、各地の路面電車を取材して回りました。豊橋鉄道にも取材で訪れましたが、取材後に職員さんから「昔の話を聞きたいなら、伊奈さんを訪ねるといいよ」と教えられて、その場で取り次いでもらえました。
急な連絡にもかかわらず、伊奈さんはその日の夕方に時間を空けてくれました。そのときに伊奈さんが待ち合わせ場所として指定したのが東田坂上の電停前だったのです。
東田坂上の次は「東田」電停です。こちらの電停には電車を待機するホームがありません。路面電車のプラットホームは道路上に設けられていますが、これは正確には安全地帯と呼ばれています。
現在の感覚からすると、とても安全とは思えませんが、1960年代までは道路の路面にペイントを施されただけののりばは珍しくありませんでした。路面にペイントされただけののりばでは、利用者は道路の端で待機し、電車が入線してきたら道路中央部に移動して乗車するルールになっています。
不慣れな乗客はとても危険に感じますし、視界が悪くなる夜間や雨天時は自動車のドライバーにとっても大きな負担です。そうしたことから、ペイントだけの電停は姿を消していきましたが、まったくゼロになったわけではありません。現在も広島電鉄(広島県)や万葉線(富山県)にはペイントだけの電停が残っています。
道路管理者や警察にとって、こうしたペイントだけの電停は事故を引き起こす原因と目され、安全地帯を設置して安全性を高めたいと思っているはずです。しかし、道路の幅員が支障になって安全地帯を設置できる空間的余裕がないというのが実情のようです。
それなら、いっそのこと電停を廃止してしまうことも一案ですが、周辺住民の利便性が低下してしまうなどの反対があります。このあたりは鉄道と安全、そして周辺住民の利便性といったことで話題になる私設踏切、いわゆる勝手踏切の問題と似ているのかもしれません。
豊橋鉄道の市内線は東田本線という路線名がついています。豊橋鉄道は渥美線という鉄道を有していますが、路線名からも窺えるように本線はあくまでも路面電車です。路線名の由来になっている東田は、路面電車にとって重要な電停のように見えますが、実際に現場を訪れてみると街の中心というわけでもなく特に路面電車に重要な電停とも感じることはできません。
それでも東田という地名が路線名になっているのは、1925年の開業時に東田電停までが運行区間だったことが大きな理由です。ここより先に線路が建設されるのは四半世紀も後のことで、1950年に競輪場前まで、1960年に赤岩口まで延伸しました。
鉄道では日本一の急カーブ
東田の次は「競輪場前」電停です。電停名からも明白ですが、同電停は豊橋競輪場の最寄りです。ただし、電停から競輪場までは約700m離れています。豊橋駅から無料のシャトルバスが発着していることもあり、同電停から競輪場へと足を運ぶファンは少なそうです。
競輪場前電停には引込線が敷設されています。レールの行き先を見ると、電車の待避スペースがあり、その隣の建物一階には豊橋鉄道市内線の営業所があります。
同路線には競輪場前で折り返す電車がいくつか設定されています。2026年5月の時刻表を見ると、駅前から競輪場前まで区間運転をする電車が朝7時と8時台に1便ずつあります。これは朝ラッシュ時間帯に対応するための電車です。
競輪場前から終点となる赤岩口電停までは、電停数は多くなく、距離もわずかです。わざわざ競輪場前で臨時的に競輪場前までの運行にせず、赤岩口まで走った方が複雑なダイヤにならず、誤乗も防げるように感じます。
それでも競輪場前までの区間運転を設定している理由は、駅前-競輪場前までの区間が複線、そこから先は単線になっているからです。複線区間と単線区間の境になっているので、どうしても行き違いの待ち時間が発生します。朝ラッシュ時に速達性・定時性を確保することを優先し、複線・単線区間の境目になっている競輪場前までの区間運転が朝ラッシュ時に設定されています。
競輪場前も東田と同様に、以前は路面にのりばを示すペイントだけが施された電停でした。2007年に安全地帯が設置され、路面から乗り降りするという危険な状況が解消されています。
競輪場前を過ぎて単線区間に入ります。これまでの複線区間と比べて道路の幅員が狭くなっているようには感じません。すぐに線路沿いには全国チェーン大手飲食店が姿を現しました。地方都市ではロードサイドに全国チェーンの大型店舗が櫛比する光景が当たり前になってきています。大型店舗が並ぶ理由は、地方都市が自動車利用を前提として成り立っている都市構造だからです。
路面電車の線路が複線から単線へと切り替わったことで、地域の移動手段が路面電車からマイカーへと変わったと感じました。そして全国チェーンの店舗を眺めながら歩くと、「井原」電停に到着です。
井原は赤岩口と運動公園前との分岐となる電停です。そのため、駅前方面・赤岩口方面・運動公園方面といった具合に安全地帯が3つ設置されています。多くの利用者が地元の住民のため当たり前のように乗りこなしていますが、乗り慣れていない観光客や来街者だと戸惑うかもしれません。
井原からは、まっすぐに走って赤岩口へと向かう電車と右折して運動公園前へと向かう電車があります。そのため、井原を出た直後の交差点には路面電車のカーブがあります。このカーブは半径11mという、鉄道では日本一の急カーブです。そのため、鉄道ファンの名所にもなっています。
鉄道に詳しくないと、急曲線と説明されてもピンときません。通常の鉄道は半径160~400m、新幹線は原則2,500~4,000m以上で建設されることが前提になっています。
列車の速度が速くなればなるほど、また車両のサイズが大きく・長くなればなるほど線路のカーブを緩やかにしなければ脱線する危険性が高まります。そうした事故を起こさないように、線路にはカーブの最小半径が定められているのです。
路面電車はスピードが遅いことからカーブの制限が緩められています。それでも井原のカーブを曲がるときは、大幅に減速しながら通過しています。
半径11mという井原のカーブを曲がらずに、そのまま直進すると終点の「赤岩口」電停に到着です。赤岩口には路面電車の車庫があります。車庫へ入る電車は、赤岩口の電停から先に少し延びている線路を走り、スイッチバックするように戻って入庫します。
電停付近にはバス停と待合所もあり、バスを乗り継ぐことで赤岩口より遠方へと向かうことができます。
廃止が相次いでいた路面電車をなぜ延伸?
赤岩口は東田本線の終点ですが、井原から分岐して「運動公園前」まで走る区間にも向かってみましょう。井原の日本一の急カーブを曲がった先にも全国チェーンの大型店が並んでいます。
しかし、井原-運動公園前は約0.6kmと短く、徒歩でもすぐに到着します。同区間は東田本線の支線的な位置付けですが、特に路線名はありません。こちらも東田本線と一括りに呼ばれています。
東田本線の赤岩口までの開業が1960年、それに対して運動公園前の開業が1982年。両者には20年以上も開きがあります。運動公園前までの支線が建設された理由は、運動公園に足を運ぶ市民の利便性を考慮したことはすぐに理解できますが、開業した1982年は地方都市にもマイカーの波が押し寄せていました。
時代遅れの公共交通機関として路面電車は全国で廃止が相次いでいたにも関わらず、豊橋市はなぜ路線網を拡大したのでしょうか?
その理由は、当時の青木茂市長(故人)による強い思い入れがあったからとされています。高度経済成長期以降、豊橋市も他都市と同様に路面電車の廃止が盛んに議論されていました。路面電車を好んでいた青木市長は、そうした世間的なトレンドに反して何とか存続できないかと模索。路面電車が市民の足として定着している九州などを視察し、路面電車は市民にとって必要不可欠な公共交通と喧伝して、市民の意識改革を図ったのです。
もともと青木市長は力強いトップダウン型の政治家だったこともあり、それがいい面で発揮されることもありました。例えば、豊橋経済を支える三河港は青木市長が主導して整備を進めた時期があり、それによって自動車の輸出入港として発展を遂げたのです。三河港の発展は、今も豊橋経済に大きく貢献しています。
また、田中角栄首相が主導していた科学技術大学構想にも早くから名乗りをあげていました。科学技術大学の誘致は全国に2校という暗黙の了解があり、1校は田中首相の地盤となっていた長岡でした。残り1枠を争う厳しい誘致レースを制し、青木市長は1976年に豊橋科学技術大学の開学を勝ち取ったのです。
こうした剛腕は路面電車でも発揮され、廃止どころか逆に運動公園前までの延伸を実現しました。青木市長の持ち前ともいえる強力な政治力は副作用としてハレーションが生じる原因にもなります。そのため、3期目を目指して挑んだ市長選では対立候補に惨敗してしまいます。
青木市長は市長就任前に、前任市長から請われて豊橋市の助役を務めています。市長の在任は2期8年と長くありませんが、助役は4期14年に及んでいます。助役・市長を通算すれば、22年という長きにわたって豊橋市政の舵取りを担ったのです。
市営だったことはないのに「市電」と呼ばれる理由
伊奈さんや青木元市長のように、豊橋を走る路面電車に対して強い愛着を抱く市民は少なくありません。それは市民や利用者が、豊橋の路面電車を市電と呼んでいることからも伝わってきます。
歴史上、豊橋を走る路面電車は市営だったことは一度もありません。それにも関わらず、市民は東田本線のことを“しでん”と呼び親しんでいます。
どうして東田本線を市電と呼ぶようになったのでしょうか? それには諸説ありますが、関係者を取材していると「東田本線は市内線とも称されるため、市内電車を略して市電と呼ぶようになった」という説と「豊橋と同じ愛知県内には名古屋市電が運行されていた。名古屋市電は市電と親しまれていたため、路面電車を総称して豊橋でも路面電車を市電と呼ぶようになった」とする2説が有力です。
名古屋市電説は少しばかり飛躍しているようにも感じるかもしれませんが、1974年に名古屋市電が全廃すると、多くの車両が豊橋へと活躍の場を移しています。
豊橋市電では長らく他都市から譲受した中古車両を使い続けていました。2008年にT1000形と呼ばれる新型車両を導入。同車は自社車両としては83年ぶりとなる新車で、豊橋市電のシンボル的な車両として認知されるようになっています。
豊橋市電の沿線は観光地名所や大型商業施設のような集客施設が乏しく、ゆえに観光客・来街者の需要を掘り起こすことは難しい場所です。
昨今、人口減少によって市電利用者も減少する傾向を示しています。利用者減対策として、豊橋市電は車内でおでんを食べることができる“おでんしゃ”を企画。電車に乗りながら宴会やパーティーなどを楽しむ取り組みは、路面電車事業者や利用者減に瀕している地方鉄道事業者からも注目を浴びています。
豊橋鉄道は短い路線ながら、日々、官民一体となって愛され続ける鉄道を目指して奮闘を続けています。

































