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開業15年で最混雑路線に変貌 日暮里・舎人ライナー全線踏破

日暮里駅を出発する日暮里・舎人ライナー

東京都荒川区の日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅を結ぶ日暮里・舎人ライナーは2008年3月に開業しました。今年は開業から15年の節目です。日暮里・舎人ライナーの沿線には、目立つようなレジャー施設や集客施設がありません。しかし、国土交通省が発表する都市鉄道の混雑率調査結果で日暮里・舎人ライナーの混雑率は155%を記録。この数字は2022年度において全国でもっとも高い混雑率となっています。つまり、日暮里・舎人ライナーは日本一混雑する路線といえます。

日暮里・舎人ライナーがもっとも混雑する路線という称号を得たのは、今回が初めてではありません。2021年度、そして2020年度にも混雑率ナンバーワン路線になっています。3年連続ということを踏まえると、日暮里・舎人ライナーの混雑は一時的な現象ではないことがわかります。

山手線や中央線といった都民なら誰もが知っている路線が混雑率ナンバーワンになることは理解できますが、なぜ日暮里・舎人ライナーは混雑率ナンバーワンになっているのでしょうか? 全線を踏破して、沿線の様子などを確かめてみました。

モノレールと新交通システムは何が違うの?

2008年に開業した日暮里・舎人ライナーは、東京都荒川区の日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅とを結ぶ約9.7kmの路線です。モノレールのようにも見えますが、日暮里・舎人ライナーは新交通システムと呼ばれる公共交通機関です。

鉄道に詳しくないとモノレールと新交通システムは何が違うのか理解できません。日本民営鉄道協会のホームページには、新交通システムを「自動運転ができるような新しいシステムを装備した中規模の軌道系輸送機関」との説明があります。

日暮里・舎人ライナーのほかにも、国内で活躍中の新交通システムにはゆりかもめ(東京都)、金沢シーサイドライン(神奈川県)、ポートライナー(兵庫県)などがあります。新交通の概念はわりと曖昧で、広義の意味では札幌市営地下鉄東豊線(北海道)や愛知高速交通東部丘陵線(愛知県)なども含まれるようです。

そうした新交通とは何か?といった定義の議論はひとまずおくとして、日暮里・舎人ライナーは開業時から無人運転が実施されてきました。また、全13駅が無人駅なので乗車から下車まで職員に会うことはありません。日暮里・舎人ライナーは、まさに未来を先取りしたような鉄道として誕生したのです。

そんな最新技術を用いた日暮里・舎人ライナーは、長らく鉄道空白地帯と呼ばれていた足立区北西部と東京都心部とを結ぶことを企図して計画され、開業によって東京の通勤圏を拡大する狙いもありました。

日暮里・舎人ライナーの起点となっている日暮里駅は山手線のなかでは地味な駅という印象ですが、日暮里駅は山手線のほか京浜東北線・常磐線といったJR各線、加えて京成線にも乗り換えができます。地味な存在ではありますが、利便性は高いのです。

再開発により日暮里駅周辺での日暮里・舎人ライナーの見え方も変わった

日暮里・舎人ライナーの沿線を歩く前に、日暮里駅の周辺をチェックしてみましょう。日暮里・舎人ライナーののりばは東口にあります。駅の西側、つまり山手線の内側は下町情緒が溢れる谷中銀座が延びています。

一方、東口もかつては駄菓子屋や駄菓子問屋が多く軒を連ね、下町情緒を醸し出していました。駄菓子屋・駄菓子問屋の多くは個人経営の商店だったため、2000年前後から始まった日暮里駅東口の再開発の波に飲まれて大半は消失しています。

2000年前後から進められてきた日暮里駅東口の再開発は、2008年に日暮里・舎人ライナーが走り始めたことで一段落しましたが、その後も再開発事業は続きました。日暮里・舎人ライナーが運行開始した2008年当初、筆者は日暮里・舎人ライナーの走っている姿を撮るために沿線を歩いて撮影スポットを探しました。

日暮里・舎人ライナーは全線が高架線を走るので、地上から撮影しても車両をうまく捉えることができません。沿線に立つマンションにお邪魔できれば高い地点から撮影できますが、それは無理な話です。

結局、日暮里駅前がベストポジションだということで、当時はそこから撮っていました。しかし、再開発が進むと駅前にも多くのビルが立ち、車両を撮影することは厳しくなりました。日暮里・舎人ライナーは、すべての駅でフルスクリーン型のホームドアが設置されています。そのため、ホームから車両を撮影するにもホームドアが遮り、綺麗に撮ることは困難です。日暮里・舎人ライナーは、撮り鉄泣かせの路線といえるでしょう。

2008年の開業当初は、日暮里駅前から日暮里・舎人ライナーを見下ろす角度で撮影ができた(2008年8月撮影)
現在の日暮里駅東口は再開発により、タワマンが立ち並ぶ

尾久橋通りを北上して常磐線・京成・明治通りを超えていく

さて、日暮里駅から次の西日暮里駅を目指して、全線踏破を開始します。日暮里・舎人ライナーはほぼ尾久橋通りを北上しているので、日暮里駅を出発すると北西へと線路はカーブします。カーブしてすぐに常磐線、そして京成電鉄の線路と交差するわけですが、こちらも高架線になっているので、日暮里・舎人ライナーはさらにその上を走ります。ただ、筆者が歩いた尾久橋通りは線路をアンダーパスしているので、歩行者は跨線橋などで線路を越える必要はありません。

常磐線をオーバークロスする日暮里・舎人ライナー
京成線をオーバークロスする日暮里・舎人ライナー

京成の線路を越えると、西日暮里駅に到着。西日暮里駅は山手線・京浜東北線のほか、東京メトロ千代田線との乗換駅です。千代田線は大手町駅や日比谷駅、霞ヶ関駅といったオフィス街・官庁街へ向かう路線なので、通勤時間帯には日暮里・舎人ライナーを西日暮里駅で下車して千代田線へと乗り換えるオフィスワーカーも多く見られます。

西日暮里駅は千代田線との乗換駅のため、通勤時間帯にオフィスワーカーの姿が目立つ

ただ、JR・千代田線の西日暮里駅と日暮里・舎人ライナーの西日暮里駅は同じ西日暮里駅を名乗っていますが、少しだけ両駅間には距離があります。

東京の地下鉄に乗り慣れていると、同じ駅名で乗り換えのために200~300m歩くことは珍しくありません。そのため、JR・千代田線と日暮里・舎人ライナーの西日暮里駅が離れていても、それを気にする利用者は少ないと思われます。

次の駅は赤土小学校前駅ですが、西日暮里駅を過ぎると再び目の前に線路が現れます。これは常磐線の貨物列車のみが行き交う線路で、そのために列車の通過本数は多くありません。線路と道路は立体交差になっていますが、すぐ近くには歩行者や自転車が渡れる踏切もあります。その踏切から田端方面に視線を向けると、遠くに田端信号場駅が見えます。

常磐貨物線の踏切

最盛期、田端信号場駅は多くの貨物列車が発着していました。近年は貨物列車の発着本数が減り、そのために同踏切が閉まることは稀になっています。それでも踏切から田端信号場駅方面を見ると、貨物駅独特の雰囲気が残っています。

常磐貨物線を越えると、間もなく明治通りに行き当たります。明治通りは、その名称から明治時代に計画もしくは建設されたと思いがちですが、実際は関東大震災後の復興時に計画された道路です。つまり、その名称に反して大正生まれなのです。

震災復興時、東京には8本の環状道路が計画されました。環七や環八は今でも多くの人に利用され、馴染み深い道路です。同じく明治通りも環状5号線として計画されました。

しかし、太平洋戦争が勃発して建設は中断。戦後の復興事業で建設を再開しますが、現在の明治通りは計画された環状5号線とは一部が異なる区間を走ることになりました。そうした背景もあり、環七・環八のように明治通りを環五と呼ぶことはほぼありません。

明治通りを過ぎると、次の駅の赤土小学校前駅に到着。その次が熊野前駅です。熊野前駅は都電荒川線との乗換駅なので、日暮里・舎人ライナーから都電荒川線へ、都電荒川線から日暮里・舎人ライナーへといった具合に乗り換え需要が旺盛です。

赤土小学校前駅
日暮里・舎人ライナーの下を走る都電荒川線

熊野前駅で特に目立つのが、大学生と思しき利用者です。熊野前駅は東京都立大学荒川キャンパスの最寄駅になっているため、貴重な通学需要を生み出しています。

なぜこの場所に駅? 隅田川と荒川の間にある足立小台駅

熊野前駅を通過すると、日暮里・舎人ライナーは隅田川を渡ります。隅田川を渡ると、足立区です。足立区に入って最初に駅となる足立小台駅に到着。ここまで日暮里・舎人ライナーは尾久橋通りの真上を走ってきましたが、足立小台駅の前後だけ線路は少しズレて走っています。

なぜ、そうなったのか? その理由は判然としません。足立小台駅は尾久橋通りからズレているという部分だけではなく、隅田川と荒川に挟まれた場所に立地するという、いかにも特異な駅です。

隅田川と荒川に挟まれた場所にある足立小台駅

冒頭でも書きましたが、筆者は2008年の開業時に取材で日暮里・舎人ライナー全線を歩いています。その当時は「この駅を利用する人はいるのだろうか?」という疑問を抱きました。

実際、開業してから数年間の足立小台駅は、1日の平均乗降人員が2,000人に届いていません。その後、駅周辺にマンションが立ち並び、少しずつ利用者は増えていきました。それでも、やはり隅田川と荒川に挟まれているという立地から、日暮里・舎人ライナーの駅では乗降人員が最少の駅となっています。

足立小台駅を通過すると、目の前には首都高の中央環状線が見えてきます。日暮里・舎人ライナーは後から建設されたので、中央環状線の上を越えていきます。

ここまでの日暮里・舎人ライナー沿線は、ビルとビルに挟まれた狭隘な場所を縫うように走っているという風景でした。そうした風景は荒川を過ぎてから一変します。荒川を越えると沿道の建物の背丈が低くなり、ロードサイドでよく目にする全国チェーンの飲食店、コンビニ・スーパーなどが増えます。そんな風景が変わったなと感じるところで、扇大橋駅に到着。

扇大橋駅のあたりから、沿線風景はロードサイドっぽい雰囲気に

扇大橋駅と次の駅となる高野駅の間には都営扇2丁目団地、さらに次の駅となる江北駅には都営扇3丁目団地といったマンモス団地が造成されています。日暮里・舎人ライナーの扇大橋駅以北は、大規模な団地が多く建てられていることも沿線の特徴です。

高野駅
江北駅

江北駅を過ぎると目の前に大きな陸橋が現れ、尾久橋通りをオーバークロスします。これは環七の陸橋で、この陸橋を建設することによって尾久橋通りとの交差点で渋滞を起こさないように配慮されました。

江北駅-西新井大師西駅間には環七があり、尾久橋通りとの交差で渋滞を起こさないように陸橋も整備されている

先ほどの中央環状線といい環七といい、日暮里・舎人ライナーはすべて上から越えていくので、乗車して風景を楽しむにはもってこいの路線です。しかし、今回は全線を踏破することが目的ですので、日暮里・舎人ライナーには乗車しません。沿線風景を楽しむのは、次の機会までのお楽しみです。

環七を越えると、西新井大師西駅に到着。駅名にもなっている西新井大師は弘法大師にゆかりのある、足立区内に所在する名刹です。特に正月には初詣には多くの参拝者が足を運びます。

しかし、西新井大師西駅から西新井大師までは距離があるので、日暮里・舎人ライナーを使って参拝する人は決して多くありません。一般的に、西新井大師への参拝は東武鉄道を使います。東武鉄道の伊勢崎線には西新井駅が、大師線には大師前駅があります。

西新井大師西駅は西新井大師の最寄駅ではないので注意が必要

西新井大師西駅の西側には、江北6丁目団地という大規模な団地があります。江北6丁目団地は都営ではなく、日本住宅公団(現・都市再生機構)が建設した団地です。

一見すると、どこにでもあるような団地に見えますが、江北6丁目団地は住宅公団史でも特筆すべき団地として名前を残しています。

というのも、江北6丁目団地は尾久橋通りを走る自動車の騒音が気にならないような設計がされたからです。日本住宅公団は道路沿いの住棟に防音サッシを用いました。これら尾久橋通り沿いに建てられた住棟は、防音棟と呼ばれました。防音棟が騒音を防ぐ役割を果たしたことで、団地内は静寂な雰囲気を保てるようになったのです。

そんな住宅公団史に名を残す江北6丁目団地を横目に歩いていくと、谷在家駅に到着。こちらも駅西側に都営谷在家アパートの住棟が立ち並んでいます。

谷在家駅

舎人公園の計画は戦争により長らく頓挫

谷在家駅を通り過ぎたあたりから、沿道には緑が少しずつ増えていきます。そして、目の前に広大な舎人公園が現れます。舎人公園は、後に日本都市計画学会や日本造園学会の会長を務めた内務官僚の北村徳太郎が1939年に提唱した東京緑地計画に端を発した公園です。

舎人公園駅

北村が提唱した東京緑地計画の目玉は、東京の外周を緑で囲うグリーンベルトでした。その一環で都内に6大緑地が構想され、舎人公園もそのひとつでした。しかし、用地を取得・確保している間に日中戦争が開戦。これにより、緑地を整備している余裕がなくなります。政府は整備中だった緑地を農地へと転換。後に舎人公園となる一帯も緑地から農地へと転換され、多くの小作人がその農地を耕しました。戦後、GHQは農地解放を実施。これにより、農地は小作人の所有地になります。

そうした経緯もあり、東京都は元小作人から土地を買い戻さなければなりませんでした。とはいえ、元小作人たちは農業で生計を立てていますから、簡単に買収には応じられません。そのため、舎人公園の開園は1981年まで待たなければならなかったのです。

舎人公園は6大緑地として計画されたが、波瀾万丈な歴史をたどった

波瀾万丈の歴史を有する舎人公園ですが、ほかにも特筆すべき点があります。それが公園の地下に日暮里・舎人ライナーの車庫があることです。

地下の車庫へと引き上げる線路が舎人公園駅の北側にあり、そこには歩道橋が架かっています。フェンス越しなので見づらいのですが、間近に引き込み線を見ることができます。

舎人公園の地下には日暮里・舎人ライナーの車庫があり、駅の北側で地下へと潜る引き込み線がある

舎人公園の園地を抜けると、次の舎人駅が見えてきます。そして、舎人駅の次が終点の見沼代親水公園駅です。見沼代親水公園は、尾久橋通りを軸に東南と南西に伸びている緑道のような細長い公園です。

舎人駅
終点の見沼代親水公園駅

そして、見沼代親水公園とは別にもう一本細長い緑道が北西と北東に伸びています。近接しているので見沼代親水公園と一体的に見えますが、こちらの緑道は毛長川緑道という別の緑地です。

約9.7kmの日暮里・舎人ライナーは起伏も少なく、全線踏破は約3時間程度で達成できます。

しかし、せっかく終点の見沼親水公園駅まで歩いたのですから、もう少し北へ足を伸ばしてみましょう。なぜなら、日暮里・舎人ライナーは見沼代親水公園駅から北へと延伸する可能性があるからです。そのため、駅は、さらなる延伸も可能な構造になっています。

見沼代親水公園駅の北は延伸が可能な構造になっている

埼玉県までの延伸「あと数マイル」は実現するか?

駅から1分ほど歩くと、足立区を抜けて埼玉県草加市に入ります。また、毛長川緑道を北西へと歩いていくと、住所は埼玉県川口市へと変わります。

見沼代親水公園駅は足立区に所在していますが、こうした立地からも草加市民・川口市民の利用者も多そうです。実際、見沼代親水公園駅の駅前ロータリーには草加市・川口市が運行するコミュニティバスが乗り入れています。

見沼代親水公園駅の駅前ロータリーに停車している川口市のコミュニティバス
草加市のコミュニティバス

こうした利用実態を踏まえ、埼玉県の大野元裕知事は、2019年の選挙戦で「あと数マイルプロジェクト」と称し、東京都と埼玉県の境でストップしている鉄道路線を埼玉県内まで延伸することを検討したいと訴えていました。「あと数マイルプロジェクト」のひとつが、日暮里・舎人ライナーの延伸です。

日暮里・舎人ライナーは、東京都交通局が運行する路線です。埼玉県内を走るには、さまざまな調整が必要になるでしょう。しかし、「あと数マイルプロジェクト」が選挙の票目当ての非現実的な話なのか? と問われれば、決してそうではありません。

東京都交通局が運行している都営新宿線の本八幡駅は、千葉県市川市に所在しています。そうした先例もあるので、日暮里・舎人ライナーの埼玉県内への延伸構想を軽々に非現実的と断じることはできません。仮に日暮里・舎人ライナーが延伸したとして、需要はあるのでしょうか? 採算は取れるのでしょうか? そんな指摘も出ています。

しかし、日暮里・舎人ライナーも「開業しても、誰も乗らない赤字路線になる」と囁かれていました。

先ほど筆者は開業時に全線を踏破したと書きましたが、それは筆者が2008年に発行された「都バスで散歩」がテーマの雑誌にライターとして参加していたことが理由です。つまり、取材で全線を歩いたのです。

都バスを特集した雑誌なのに、日暮里・舎人ライナー全線を歩いて取材したのは、スポンサーである東京都交通局から制作にあたって「日暮里・舎人ライナーの開業機運を盛り上げてほしい」「少しでも沿線外から訪れる人が増えてくれるようにしてほしい」とのリクエストがあったからです。

そうした大人の事情から、都バスがメインテーマだったにも関わらず日暮里・舎人ライナーの沿線を歩いて取材しました。交通局が日暮里・舎人ライナーを取り上げるように要請してきたのは、ひとえに日暮里・舎人ライナーの利用者が少ないかもしれないという不安が強かったからでしょう。

しかし、先述したように開業から15年が経った今では朝の通勤時間帯の混雑率は3年連続で日本一になっています。それほど混雑する日暮里・舎人ライナーですが、実はそれでも赤字路線なのです。

というのも、日暮里・舎人ライナーの混雑は朝の通勤時間帯だけに限定されているからです。夕方以降は家に帰る人たちが利用しますが、沿線は集客施設が乏しいので昼間の車内は見違えるように空いています。

昼間の利用者が少ないので、朝ラッシュの混雑緩和を目的とした車両の長編成化をできません。長編成化は輸送人員を増やすことができますが、車両を新造する費用もかかりますし、ホームの延伸工事や信号機器などのシステム変更も必要です。赤字路線ですから、そんな莫大な費用を投じることができないのです。

それでも交通局は、事業者として混雑緩和に取り組まなければなりません。そのため、交通局は一両あたりの定員数が多い新型車両へと置き換えて対応することにしています。

日暮里・舎人ライナーは、開業15年を経て日本一混雑する路線へと姿を変えました。それだけに、今後も沿線風景や利用状況は大きく変わることが予想されます。

小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。