鈴木淳也のPay Attention

第177回

SuicaがID化する未来。センターサーバの「新しいSuica」の意味

3月18日に開業した幕張豊砂駅。千葉県内のJR新設駅としては25年ぶりとなる。現在JR東日本が進めているQRコード読み取り機付きの新型改札機が採用されている

JR東日本はセンターサーバー方式を採用したSuicaの新しい改札システムを5月27日より北東北の3エリア(青森、盛岡、秋田)の45駅に先行導入し、首都圏を含む残りのエリアで今年夏以降に順次展開していく

いわゆる「改札機のクラウド化」と呼ばれるものだ。

これまでSuicaのICチップ内に入出場の情報を記録し、改札通過の際に内部にある残高(バリュー)を差し引くことで“ローカル”での改札処理を行なっていたSuicaだが、新方式では改札での処理そのものは簡素化し、運賃計算を含む改札通過に必要な処理をセンターサーバーに集約していく。

これにより、首都圏エリアと仙台エリアをまたぐ区間のSuica利用などに対応可能となるほか、サーバー上でチケット情報などを管理する「鉄道チケットシステム」などの実現を目指す。

新しい Suica 改札システムの概要(出典:JR東日本)

これに関して利用者の間でさまざまな意見が交わされたようだが、その回答については筆者が別誌でまとめた「なぜ? 『Suica』がサーバ型に移行する理由 25年近く稼働する“安全神話”の象徴に何が」を参照いただきたい。

本稿ではその中で触れた「SuicaのID化」について説明する。

幕張豊砂駅で導入された新型改札機。QRコードの読み取り部はまだ封印されている

なぜJR東日本は「Suica」に注力するのか

現在、JR東日本が何を考えて動いているのかは、同社が2018年に発表した中期グループビジョンの「変革2027」に詳しい。骨子としては、東京五輪開催後の2020年以降に顕著となる人口減少や社会における働き方の変化、移動方法の変化によって鉄道による移動ニーズが縮小し、固定費負担の大きい鉄道事業者が急速に利益を圧迫されるリスクが高まり、それに備えた事業構造に変革しなければならないというもの。

下図はグループビジョン設定時までの定期と運賃による輸送キロ数の推移をまとめたものだが、コロナ禍という急激な変動要因があり、最大の収益源だった定期収入がすでに毀損される不運があったとはいえ、先を見越した一連の動きは慧眼と呼んでも差し支えないものだといえる。

「変革2027」で触れられた鉄道による移動ニーズの将来的な減少に触れられた部分(出典:JR東日本)

ではどうするか。分割民営化でJR東日本が発足した当時は運賃収入がほぼすべてだったが、その後“エキナカ”を含む周辺事業の開拓やSuicaによる決済サービスの拡大など、運賃収入が伸び悩むなかで周辺事業の拡大が同社の収益を伸ばしていった。下図でも触れられているが、「生活サービス事業」「IT・Suica事業」に重点的に経営資源を振り分け、新たな成長エンジンとしていくのが「変革2027」で語られる重要なポイントだ。

急拡大する「生活サービス事業」「IT・Suica事業」が新たなJR東日本の成長エンジンに(出典:JR東日本)

つまり、JR東日本は現状の移動ニーズを維持しつつ、Suicaを用いた“物販”やスマートフォンなどのデジタル機器を組み合わせた新しいサービスの創出に特に注力しているというわけだ。

Suicaも重要ではあるのだが、何より「タクシーやカーシェアを組み合わせた地域の移動」「周遊券などの地域活性につながる企画券」「観光向けの企画商品」「イベントなどと連動したサービス」といった形で、運賃収入にプラスとなる鉄道会社ならではの各種サービスの提案が重要となる。

同社では「モビリティ・リンケージ・プラットフォーム」と表現しているが、いわゆるMaaSなどのモバイルアプリを使ったサービスはその中核の1つとなる。

「QRコード改札」はこれの受け皿となるもので、いまのところ「えきねっと」で表示されるQRコードのみを受け入れるだけのようだが、“クラウド”対応の新型改札機がなければ入出場にQRコードは利用できず、せっかくアプリやWebサイトでチケットを予約しても、わざわざ磁気切符を駅で発券(受け取る)しなければならない。

JR東日本が推進する「モビリティ・リンケージ・プラットフォーム」。MaaSによる広域移動を想定する(出典:JR東日本)

SuicaがID化した未来

JR東日本のみならず、日本国内の鉄道事業者は現在ほぼすべて同じ現実に直面している。

運賃収入、特に定期券収入の減少と人流の変化だ。

東急電鉄がオープンループ導入に向けた動きを見せた際の解説でも触れたが、安定収入が毀損された以上、細かい移動の創出とそれによる周辺需要(買い物やレジャー)の喚起といったビジネス構築が求められるようになる。

この問題に対し、クレジットカードを組み合わせて対処しようとしたのが「オープンループ」を導入した事業者であり、JR東日本は「クラウド化したSuica」で応えようとしている。

センターサーバー方式の新改札システムの解説の中でも触れられているが、“Suicaのクラウド化”により一気に柔軟なサービス構築が可能になる。

従来までであればSuica残高から入出場駅の移動にかかる運賃を差し引くことしかできなかったものが、事前に購入した割引クーポンを出場時の料金引き落としのタイミングで提供したり、運賃を残高から引き落とす代わりに前出のような事前購入の企画券の利用を優先したりと、別の“商品”と組み合わせることで新たな移動を創出したり、売上を積み増すことが可能になる。

重要なのは、ここでのSuicaの役割で、定期券を購入したわけでもなく、改札へのICカードのタッチだけでこれら企画券が利用できている点だ。このときのSuicaは「Suica ID」を識別するための仕組みとしてのみ利用され、実際の改札処理はセンターサーバーに記録されている「事前購入済みの企画券」で行なわれている。一種の「通行手形」のような役割というわけだ。

同様の仕組みはJR東海の「スマートEX」などでも採用されているが、これもクラウド(センターサーバー)側で事前購入した新幹線の乗車券と特急券情報を記録しておき、Suicaが改札にタッチされたタイミングでSuica IDを読み取って両者を紐付けて改札処理している。

スマートEXの宣伝広告

実は、この仕組みはクレジットカードを使う「オープンループ」と一緒だ。現状ではまだSuicaのICカード内に残高情報が記録され、改札通過のタイミングで引き落とされる仕組みだが、将来的にIDとなったSuicaでは通行手形の役割でしかなく、残高や購買・移動情報などはすべてサーバー上に記録されることになるだろう。既存の改札機や他社との連携もあるため、かなり長い移行期間が用意されると思うが、おそらくセンターサーバー方式への移行によるSuicaのID化は避けられないとみている。

Suicaを利用した新しいサービスの創出(出典:JR東日本)

長らく「Suica神話」のようなものが語られるなかで「ローカル処理による冗長性」「1分間に60人の通過を捌ける高速性」を捨ててまでセンターサーバー方式を採用するのかという声が存在しているが、このローカル処理そのものがJR東日本にとって負担になっており、ここまで触れたような「IT・Suica事業」による新たな成長戦略を描くことを阻害しているとしたらどうだろうか?

以前も解説したが、Suicaの処理速度の秘密は単純にローカル処理に依存するものではなく、改札機に施された“トリック”に依る部分が大きい。冗長性は確かに重要だが、これがSuicaのコスト高や周辺への拡大の阻害要因にもなっているのも事実だ。

1つは安全性の部分で、Suicaは駅単位で行なわれた改札処理の集計を定期的にセンターサーバーと通信する形で同期しているが、同様の安全性を担保するために駅外での利用、例えば物販にSuicaを利用する際にも「ネガリストの頻繁な更新」を求めている。Suicaを紛失した場合など、無効化を依頼すれば、同期やネガリスト反映を通じて他駅やすべての加盟店での当該カードの利用が無効化される。

当初、駅外利用におけるこのネガリスト反映周期は1日6回が規定されていたと聞いているが、処理が集中する時間帯にまでネガリスト更新の通信が発生して負担が大きいため、現状では3-4回などより少ないオプションが用意されている。同様に、200ミリ秒での反応速度を改札以外に求めるのもオーバースペックであり、物販などレスポンスを重視しない仕組みでは許容時間が1秒以上にまで拡大されている。これがSuicaの利用拡大における“緩和”事項だ。

条件を緩くすると発生するのは「安全性の低下」で、ネガリストの反映が遅くなる。

他のFeliCa系電子マネーで決済が翌日まで止められず、オートチャージを組み合わせて1回の紛失で何万円もの金額を引き出されてしまったケースが報告されている。クレジットカード的なオーソリゼーションの仕組みを持っていない決済サービスでは、ローカル処理に依存することでこうした被害が拡大する危険性がある。決済時にリスク判定を行なう仕組みがないからだ。

Suicaも同様で、現状では2万円の上限と比較的頻繁なネガリスト更新で被害を最小限に食い止められているが、「Suicaを万能の決済手段として使う」場合のリスクについて考えておきたい。

クラウド化したSuicaであれば、中身はクレジットカードとほぼ同様になるので、決済時にリスク判定による決済の可否を決定できる。そして、仕組み上は「ポストペイ」の導入も容易になり、決済上限の引き上げやローンを含めた柔軟な後払いサービス、モバイルアプリを組み合わせた送金サービスなど、提供可能なサービスの幅は一気に広がる。

Suicaを利用した新しいサービスの創出(出典:JR東日本)

まとめると、現在のJR東日本にとって重要なのは「Suica」という存在であり、ローカル処理で改札を通過するためだけに利用される既存の“交通系ICカード”ではないということだ。

ローカル処理が不要になると、そもそもカードのICチップ内部に残高を記録する必要もなくなり、究極的には「FeliCa」である必然性も薄まる。ある情報源によれば、JR東日本は前述の「変革2027」を起草した前後のタイミングで「FeliCaからの脱却」を検討したことがあったという。

その後、コロナ禍に突入して情勢がどのように変化したか分からないが、グループビジョンの根本部分の修正を行なっていないことから鑑みて、同社におけるFeliCaの優先度は下がっている可能性が高いと筆者は判断している。当面はFeliCaを用いたローカル方式と、新しいクラウド方式のサービスが混在することになるが、鉄道王国日本を象徴する存在だったSuicaによる改札システムは新しいステージへと向かいつつある。

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)