鈴木淳也のPay Attention

第140回

オープンループ乗車システムはSuicaの地位を塗り替えるのか?

オープンループ乗車システムを2017年に試験導入、翌年より本格運用を始めたシンガポールのMRT。Marina Bay Sandsの最寄りであるBayfront駅にて

過去2年ほどの間に、日本国内においても、いわゆる「オープンループ」と呼ばれるクレジットカードやデビットカードを用いた交通サービスの乗車システムが実証実験含めて導入されるケースが増えている。非接触決済に対応したこれらカード(あるいはモバイル端末)を改札に“タッチ”することで、Suicaをはじめとする交通系ICカードを購入したり、あらかじめ残高チャージを行なわずとも、スムーズに移動可能な点が特徴だ。これは初めて訪問する都市であったり、諸外国への旅行で現地に到着したばかりのタイミングで非常に大きな効果を発揮する。

少し前のデータだが、2021年7月時点のVisaの報告で全世界で700以上の公共交通プロジェクトへの参加があり、実際に450以上での導入実績があるという。また日本に目を向けても、下記の表で14の事例報告があるほか、2022年に入ってからも複数の新規事例が発表されており、本稿執筆時点で20に近い水準のプロジェクトが存在している。この勢いをもって「Suicaなどの既存の交通系ICを塗り替える可能性があるのでは」という意見がある一方で、Suicaの特徴である処理速度の速さを引き合いに出して「まだまだ速さが足りない」という意見も依然として多い。

実際のところ、この「オープンループ」の現状はどのようなもので、今後数年先を見据えたときにどのような変化を市場にもたらしているのだろうか。

Visaが参加する世界の公共交通プロジェクト。図は2021年7月時点で、ロシアやウクライナの地域にマークが多いことが確認できるが、これがどう変化したかは現時点で不明だ
三井住友カードが示す日本国内の導入事例。2021年12月時点の情報

オープンループが導入されるケース

現状、これだけのプロジェクトが走っているなかで「オープンループ」が公共交通の乗車システムを席巻しているかといえば、「まだまだ発展途上にある」というのが筆者の認識だ。

現状で公共交通がオープンループを導入するケースは下記の3パターンあり、例えば都市交通はロンドン、シンガポール、ニューヨークのような外国人の出入りが多い国際都市で導入されているケースが多い。

  • 外国人の出入りが多い国際都市の公共交通(ロンドン、シンガポール、ニューヨークなど
  • 既存の交通系ICを導入するには採算性が低く、コスト負担が大きい地方交通
  • 空港連絡バスや鉄道など、観光客の足の一部として機能する公共交通

ロンドンの場合、交通系ICカードの「Oyster」の発行負担に耐えかねたロンドン交通局(TfL)が利用客の利便性も兼ねて導入を世界に先駆けて進めたもので、シンガポールやニューヨークにおいても同様の理由を聞いている(3都市ともCubicのシステムを導入した点で共通している)。ニューヨークのOMNY Cardについてはまだ正式提供が行なわれていないものの、ロンドンのOyster、シンガポールのEZ-Linkともに現在も利用可能で、オープンループとクローズドループのハイブリッド構成になっているのが特徴だ。

イタリアのミラノではオープンループ乗車に対応するほか、1日券などで既存の磁気切符の利用も可能。ミラノも国際都市の一種であり、訪問する外国人向けのサービスとしての意味合いが強い(写真提供:ぴちきょ)

実際のところ、採算性とコスト面からオープンループを選択する地方交通の場合、ある程度は観光客需要を見据えた部分がある。

典型的なものが京都丹後鉄道で、鉄道網の中心となる宮津市には天橋立などの観光名所があり、シーズン中は多くの観光客が訪れる。もっとも、そうした観光客の多くは福知山駅以遠のJR西日本が運行する特急列車で乗り入れてくるケースが多いため、実際にオープンループ乗車を利用するかは周辺地域を周遊するかどうかにかかっているのだが、交通系ICカードが使えないエリアにおいて逐次切符を購入する手間を考えれば、旅行者のメリットは大きい。

京都丹後鉄道の車両
改札のない駅の乗降は車両の運転手の近くにあるリーダーで、改札のある駅については窓口業務員のいるレーンで簡易リーダーに“タッチ”する

そして重要なのが空港連絡のための交通機関で、三井住友カードの担当者によれば、現在最もオープンループ需要の引き合いが強いのがこの分野だという。

日本人の利用を考えれば交通系ICカード対応がベターなのかもしれないが、インバウンド需要を考えたとき、日本に到着した外国人がいきなり交通系ICカードを導入するハードルは高い。また日本人であっても、空港バスは近距離であれば1,000円以内で済むが、距離によってはそれ以上を請求されるケースが珍しくなく、残高を考えるとクレジットカードが使える方が現実的なのも事実だ。'22年4月に鹿児島空港連絡バスにVisaのタッチ決済が導入されたニュースがあったが、こうした背景が大きい。

福岡市地下鉄の福岡空港駅に導入されたオープンループ用のゲート。交通系IC利用も兼用しているが、狙いの1つはインバウンドを含む「交通系ICカードを持たない人」の取り込みにあるようだ
鹿児島空港連絡バス。これはVisaのタッチ決済に対応する前に撮影したものだが、鹿児島市内のルートで片道1300円、水俣方面では1700円と、ICカードの残高に比してやや高額の設定となる

3つのケースをみると分かるが、既存の支払い手段に加えて新たにオープンループを導入する場合、両者は補完関係にあることが多い。主には利便性の向上で、次の意図としては新たな需要の取り込みだ。

これまで現金のみの取り扱いだった交通機関がクレジットカードなどのキャッシュレスでの支払い手段に対応すれば、外国人のみならず日本国内の利用者にとっても利便性の面でメリットが大きい。また期待値の部分ではあるものの、単純に現金を受け入れるケースよりも、キャッシュレス的な決済手段の方が利用頻度や客単価の面でメリットが大きいという話は取材の中で何度か聞いている。

少なくとも現状で交通系ICを置き換える意図はなく、利用機会拡大の意図をもって実証実験を進めているというのが実際だ。

オープンループの将来像

オープンループにおける課題の1つは、複雑なチケット事情を集約することにある。以前にNFC Forumの交通規格を取りまとめる担当者にインタビューしたところ、「特に欧州においてSeason Ticketの多さが標準規格を取りまとめる障害になっている」という話があった。Season Ticketもいくつかパターンがあり、旅行者向けの「1週間周遊券」であったり、地域で開催される特別なイベントに合わせて市内交通をその期間だけ安く利用できる「イベント券」であったり(イベント入場や周辺施設利用権も含まれる)、先の特定日時のチケットを早めに購入することでディスカウント価格が提示されたりといったものだ。

特に3つのディスカウントは欧州でよく見られる習慣で、前売りで予約を確定させて席を埋めつつ、事前に資金を得るための手段で活用される。公共交通機関利用を促すこれら施策だが、これが結果として改札などでの料金徴収システムを複雑にしているというのが実情だ。

Visaによれば、ロンドンのTfLのケースではオープンループ導入後にSeason Ticketの利用も大きく減少しているとのことだが、これは「Fare Capping」という方式で1日に一定以上の金額を交通機関で利用すると、以後は請求が行なわれないシステムの採用により、いわゆる「定期券」購入の必要性が薄れたことによる。

当初TfLにおけるオープンループ乗車は「PAYG(Pay As You Go)」による料金が青天井の仕組みでスタートしたが、後に導入されたフェイズ2のシステムでFare Cappingが導入されたことで(Oysterではもともと利用可能だった)、1日券などの需要をオープンループ側で吸収可能になった。

TfLによる交通機関の支払い別シェアの推移

TfLのシステムでは1日単位で料金の集計が行なわれ、クレジットカードへの請求も乗車1回ごとではなく、1日単位でまとめて請求が行なわれる。これにより、Fare Cappingの計算とそれに準じた請求が可能という仕組みだ。

日本でもオープンループによる交通機関の集計システムではQUADRACが同様の仕組みを採用しており、請求も1日単位で行なわれる。現状、QUADRACではこうした“後付け”のサービスは特に請求されていないが、将来的に定期券や周遊券などの構想もあり、鉄道事業者の料金設定における法規制などの問題をクリアできれば、ある程度Season Ticketに近い仕組みを導入できるのではないかという目算だ。実際、オープンループを導入した南海フェリーでは、和歌山港までの区間を南海電鉄で移動して乗り継いだ場合、2,200円のディスカウント運賃が適用される「スマート好きっぷ」の仕組みを導入している。

和歌山港と徳島港を結ぶ南海フェリーの「フェリーあい」
南海フェリーは搭乗口付近に簡易リーダーがあり、南海電鉄の利用記録があると割引料金が適用される

先ほど、Season Ticketが改札の仕組みを複雑化していると述べたが、実際には切符の共通化よりも、周辺のアプリケーションがさまざまな支払い手段を受け入れることでその複雑性を吸収しているのが実情だ。

例えばTfLの場合、改札機にはオープンループとクローズドループの両者の読み取りに対応した専用リーダーのほか、QRコードなどの読み取りに対応したリーダーが別途用意されており、いわゆるSeason Ticketのさまざまな支払い手段を吸収している。ミラノの場合も同様で、オープンループとQRコードに加え、磁気切符の読み取りに対応した改札機が設置されている。コスト面の負担は大きくなるが、それを補うだけの利用者がいることの証左でもあり、都市交通ほどこうした複雑化の道をたどっているようにも思える。

日本特有の事情

このあたりの話題は、筆者の別誌での記事でも触れているが、日本の場合は都市交通において「交通系ICカード」「オープンループ」「QRコード」の3つの方式のハイブリッド化に向かいつつあると考える。JR東日本をはじめ、日本の交通事業者は改札機のメインテナンスや切符の後処理にコストのかかる磁気切符を廃止したいと考えており、改札機のクラウド対応と磁気切符の代替となるQRコード導入を真剣に検討し始めている。おそらく、近い将来のいずれかのタイミングでこれは実施され、都市交通で受け入れるべき支払い手段としては前述の3つの方式へと集約されていくと考える。

問題の1つは「交通系ICカード」と「オープンループ」の共存で、これが昨今の改札機におけるオープンループ導入のテーマの1つになっている。以前に「『Suica』と『Visaのタッチ決済』、改札での速度差の秘密」の記事でも触れたが、両者は同じ13.56MHzの帯域の無線通信を使いながらも、通信の確立手順や読み取り範囲の問題などからリーダーがEMVCoの認定を取得しづらく、ハイブリッド端末開発のネックとなっている。

例えば南海電鉄の場合、両者の改札では物理的に2つを分けている。福岡市地下鉄の場合は両者を1つの改札機に物理的に包含しているものの、リーダーそのものは両者で分離しており、それでもなお利用者が戸惑わずに使い分けできるかのテストを兼ねた実証実験となっている。

福岡市地下鉄の場合、仕組み的にいえば交通系ICカードとオープンループの部分は内部的に別回線で動作しており、オープンループ側は地下鉄駅に設置されたLTE回線のアンテナを経てクラウド側との通信を行なうなど、ネットワーク経路自体が異なっている。一方で改札の“フリッパー”といった駆動部は両者が共通して利用するため連携する必要があったりと、限られたスペースをいかに活用するかが大きなポイントになっているようだ。

南海電鉄の交通系ICとオープンループの共用型改札の構造
こちらは福岡市地下鉄の一体型改札。ただしリーダーは2つの方式で別れている

交通系ICが今後もまだ当面は使われ続けていくことを考えれば、この複雑性とそれにともなう実装コストの上昇は受け入れざるを得ないというのが実情だと思われる。ただ、実際に導入するかも含め、その考え方は事業者ごとに大きく異なると考えられ、明暗が分かれるだろう。

1つ想定されるのは、JR東日本を中心とにした東京周辺の事業者ではオープンループ導入にそこまで熱心ではない一方、2025年に大阪・関西万博の開催される西日本方面ではインバウンド対応を積極的に進めるという意図から、私鉄勢を中心にオープンループ導入に大きな興味を抱いていると予想する。このあたりの事情が今後数年にわたる東西の温度差を生み出すのではないかというのが筆者の予想だ。

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)