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青森・弘南鉄道 大鰐線は実質廃線 一方で持ち堪えている弘南線を全踏破
2025年10月16日 08:20
弘南鉄道は総延長が約16.8kmの弘南線と約13.9kmの大鰐線の2路線を有する青森県内の地方私鉄です。弘南線は弘前駅-黒石駅を、大鰐線は中央弘前駅-大鰐駅を結んでいます。
弘南鉄道は弘前市を中心に黒石市・平川市・大鰐町・田舎館村に路線を有していますが、沿線最大の都市でもある弘前市でも人口は約157,000人です。そのほか、黒石市で約29,000人、平川市で28,000人程度となっています。
多くの市民がマイカーを所有しているので、弘南鉄道は主に高校生の通学需要と高齢者の外出需要で支えられてきました。
少子化が加速度的に進んで沿線人口が減少したことや新型コロナウイルスの感染拡大によって需要が消失したことを理由に、弘南鉄道は大鰐線の運行を休止すると発表しました。
持ち堪えている弘南線、そして実質的に廃止が決まった大鰐線の2路線を全踏破してきました。
大鰐線は28年3月末をもって実質廃線
弘南鉄道は利用者が低迷して、苦しい経営が続いています。それでも沿線自治体の支援があり、なんとか電車の運行を続けてきました。
弘南鉄道は沿線自治体と協議した上で、2路線のうち利用者が少ない大鰐線を27年度末までに休止することを発表しました。沿線自治体も少子高齢化や過疎化が進み、今後も税収が大幅に増える見込みはありません。赤字が増え続ける弘南鉄道を支えることが難しくなり、その提案を受け入れました。
運行休止といっても、その後に鉄道が復活する可能性はありません。つまり、弘南鉄道大鰐線は実質的に廃線になります。
今回の全踏破では、弘南鉄道2路線のうち利用者が多い弘南線からスタートしてみたいと思います。
同じ駅舎の奥羽本線にも紆余曲折
弘南線の弘前駅はJR弘前駅と同じ駅舎を使用しています。JR弘前駅は西側の中央口と東側の城東口があり、市街地は中央口側に広がっています。
一方、弘南鉄道ののりばは城東口側にあります。城東口を出ると駅前にはバスロータリーやタクシーのりばが整備されていますが、中央口とは対照的に飲食店やコンビニといった商店はありません。ロータリーのすぐ向こう側は住宅街然とした風景が広がっています。
弘前駅は弘南線とJRの奥羽本線が同じ駅舎を利用し、線路も次の弘前東高前駅まで並走するように南下しています。
並走する奥羽本線は福島県福島市の福島駅を起点に山形県と秋田県を経由し、弘前を通って青森県青森市の青森駅まで走る路線です。福島駅-青森駅間は約484.5kmあり、特急列車も頻繁に運行されています。弘南線の線路沿いを歩いていると、スーパーつがる・つがるで使用されているE751系を何度も目にします。
奥羽本線は青森駅と福島県を結んでいますが、山形新幹線が開業した1992年に大きな変化がありました。山形新幹線は在来線を走るミニ新幹線として整備されています。
通常、新幹線は在来線とは別に線路が建設されます。なぜなら、新幹線と在来線は軌間が異なるからです。列車が走る線路は2本のレールで構成されていますが、その2本のレールの間隔を軌間といいます。
それまでの奥羽本線は軌間が1,067mm、新幹線の軌間は1,435mmです。しかし、奥羽本線とは別に新幹線の線路を建設すると、用地を買収する時間や手間などが大幅にかかってしまい、費用も莫大になります。それらを縮減するべく考えられたのが、ミニ新幹線でした。
ミニ新幹線は新幹線が在来線に直通する方式で整備される新幹線のことを指します。本来なら、軌間が異なるので新幹線が奥羽本線を走ることは物理的に不可能です。ミニ新幹線は在来線である奥羽本線を1,435mm軌間へと改軌することで、山形新幹線の運行を可能にしたのです。
山形新幹線は福島駅-山形駅が先行開業しましたが、1999年には新庄駅まで延伸開業しています。新庄駅から先の区間も整備計画などは立てられていましたが、具体的な動きは弱く、新庄駅からの延伸は不透明な状況です。
奥羽本線を改軌したことで山形新幹線の運行が実現した一方、新庄駅-青森駅間の奥羽本線とは軌間が異なってしまいました。そのため、線路は実質的に分断されてしまいました。これにより、奥羽本線の全線を走り通す特急列車がなくなりました。
住宅街から徐々に田園風景に
そんな紆余曲折を経た奥羽本線と弘前駅ですが、駅の東側にある城東口は駅前から住宅街然とした風景が広がっています。駅前から弘南線の沿線を歩いても、ずっと住宅街然とした風景が続きます。立体交差している県道109号線をくぐると、弘前東高前に到着します。
駅周辺には駅名にもなっている弘前東高校があり、そのほかラーメン店やドラッグストアなどもありますが、静かな雰囲気を保つ住宅街です。静かな住宅街を線路に沿って歩いていくと小比内公園に突き当たり、そこからは線路沿いを歩けなくなります。
いったん線路から離れますが、迂回しながら線路沿いへと戻り、そこから再び線路沿いを歩きます。線路沿いを歩いていると小さな川があり、そこには「がくえんはし」という名称の小さな橋が架かっていました。
橋を渡った先が弘前医療福祉大学で、その校舎の隣には広大な扇町公園があります。そして、線路を挟んだ向こう側にも弘前市運動公園が広がっています。弘前運動公園は野球場・陸上競技場・武道館などが園内に整備されていて、遠目からも大きな施設が並んでいることがわかります。
弘前運動公園の目の前には運動公園前駅があります。ホームから運動公園に向かう側にしか駅への出入り口がなく、弘前医療福祉大学側から乗り降りできません。学生利用はあまり想定されていないような構造で、駅名通りに運動公園の利用者が多いことを物語っています。
地方都市は自動車社会ゆえに、鉄道やバスといった公共交通の利用者は学生や高齢者がメインです。弘前医療福祉大学側へと出られる構造になっていれば、学生利用を取り込めるような気もしますが、大学構内には大きな駐車場が整備されているので学生の大半はマイカー通学をしているのかもしれません。
弘前運動公園で汗を流している人たち、扇町公園で犬を散歩させている人を横目に見ながら線路沿いを歩き続けると、頭上を国道7号線が跨ぎました。
このあたりから少しずつ沿線風景は農地へと変わっていきます。線路沿いの道も舗装されていない砂利道に変わりました。視界の遠くには水田に渡り鳥が飛来して、いかにも自然豊かな土地柄であることを実感させてくれます。そのまま砂利道を歩き続け、用水路のような川に突き当たりましたが、橋がないので線路から離れます。
小さな駅にSL展示
川を渡って線路沿いに戻ってくると、そこが新里(にさと)駅です。新里駅の周辺は住宅街でもなく、集客施設が立地しているわけでもありません。
特に需要が多いようには感じませんが、同駅には小さいながらも駅舎があり、駅前にはSLが保存展示されています。
駅舎内には展示されているSLの説明もあり、そこにはNPO法人五能線活性化倶楽部によってSLが維持管理されているとの説明がありました。五能線は青森県の弘前駅と秋田県の東能代駅とを結ぶ路線です。
五能線では1990年からリゾートしらかみという観光列車を運行し、同列車は美しい車窓風景を眺める工夫などが凝らされていることから人気を博しています。
そんな観光列車でにぎわう五能線と、SL保存展示されている新里駅との関係は特に説明がありません、また、新里駅でSLを保存展示しているとの宣伝もされていないので、SLを目的に足を運ぶ人は見当たりません。
新里駅と次の館田(たちた)駅の間には平川が流れています。平川は青森県南部を流れる岩木川の支流です。弘前市にも平川は流れていますが、平川が弘前市と平川市の市境の役割を果たしています。
弘南線は鉄道橋で平川を渡りますが、歩行者は迂回しなければなりません。いったん線路沿いから離れ、線路へと戻ってくると館田駅に到着です。館田駅には隣接して大きな倉庫がありますが、特に倉庫街といった風情はなく、住宅街然としているわけではありません。
館田駅の次が平賀(ひらか)駅です。JRと共同使用している弘前駅を除けば、弘南線の各駅舎は簡素な造りです。その中で、平賀駅だけはこれまでと異なって4階建ての大きな駅舎になっています。
平賀駅の現駅舎は1986年に完成し、2002年に東北の駅100選に選出されました。すでに完成から来年で40年を迎えますが、その外観は古さやローカル線といった雰囲気を感じさせません。
同駅が所在する平川市は2006年に2町1村が合併して発足し、平川市役所は平賀駅が最寄駅になっています。駅周辺は住宅街ですが、1kmの範囲内にショッピングモールのイオンタウン平賀が立地しているなど、新市の中心市街地といった雰囲気が漂っています。
平賀駅の次が柏農高校前(はくのうこうこうまえ)駅です。館田駅-平賀駅の駅間は約2.3kmありますが、平賀駅-柏農高校前駅も約2km離れています。ローカル線において2kmの駅間は短いのですが、弘南線は多くの駅間が1.5km前後です。両駅間にイオンタウン平賀があることを考えると、中間に新駅が開設されることで利用者を掘り起こせるようにも思えますが、そういった計画は浮上していません。
柏農高校前駅の駅舎はホームにこぢんまりとした待合室があるだけの簡素な造りです。農地の中にポツンと立地する柏農高校前駅は、遠くからでも目を引く赤く塗られた待合室が特徴的です。
この待合室が赤色に塗装されたのは2019年で、高校生や沿線住民によって色が塗られました。そうした経緯からも、同駅が地域に愛されていることが伝わります。
その次が津軽尾上(つがるおのえ)駅です。津軽尾上駅は規模こそ大きくはないものの、神殿造りの駅舎デザインが荘厳さを醸し出しています。同駅は合併前の尾上町の中心駅でもあり、近隣には武学流庭園の最高峰との呼び声が高い盛美園があります。
同園はスタジオジブリが2008年に社員旅行で訪問し、そこから「借りぐらしのアリエッティ」の着想を得たという逸話も残っています。
園内には外観が洋風で内観が和風の盛美館が建っています。同館を設計した西谷市助は建築界では無名の存在ですが、西谷の師匠である堀江佐吉は洋風建築の名手で、青森県で多くの洋風建築を手がけました。
堀江は当時の職人には珍しく、後進を育てることにも熱心でした。その教えを受けた弟子たちは、独立後に青森県内を中心に各地で洋風建築を建てています。
津軽尾上駅から延びる道路沿いには商店街が形成されていますが、人が歩いている気配はありません。こうしたところにも過疎化という現実を突きつけられますが、沿道に整備された街灯は新しく、目を凝らすと「平成19年度原子燃料サイクル事業推進特別対策事業」と書かれていました。
2011年の東日本大震災では、その後の津波によって福島県で原発事故が起きました。未曾有の事故だったこともあり、これまでの原子力政策は大きな見直しを迫られました。
当時、原子力を所管していたのは経済産業省です。経産省下には資源エネルギー庁があり、同庁は主に原子力を推進する立場です。
原子力を推進する資源エネルギー庁と、原子力の安全を監視する原子力安全・保安院が同じ経産省内に同居していることは原発の安全性という観点から疑義が呈されました。そうした議論から原子力規制委員会・原子力規制庁が環境省下で新設されます。
原子力規制委員会・原子力規制庁は日本の原子力政策において大きなターニングポイントになりましたが、他方で原子力発電所から排出される使用済み核燃料の問題は解決していません。
使用済み核燃料の取り扱いは、日本のみならず世界各国を悩ます問題です。フィンランドではオルキルオト原子力発電所にオンカロという最終処分場を併設しています。日本では青森県六ヶ所村に再処理工場を着工し、使用済み核燃料からウランとプルトニムを取り出すことを目指しています。しかし、いまだ使用済み核燃料の再処理に目途は立っていません。
再処理工場の建設・稼働は青森県に大きな負担を強いるとの判断から、青森県の自治体に負担に応じた助成金が交付されています。青森県や平川市には原発そのものは立地していませんが、真新しい街灯は青森県と原発の関係を感じさせるものでした。
地域おこしのため新設された「田んぼアート駅」
津軽尾上駅から次の尾上高校前駅へと歩いていくと、あちこちにリンゴ畑が見えてきます。青森県の特産品であるリンゴは、弘南線の沿線でも栽培が盛んです。そのリンゴ畑を縫うように弘南線の電車が走ります。
尾上高校前駅の一帯は水田地帯で、駅からリンゴ畑は見られません。それでも眼前に広がる風景から農業が盛んな地であることを感じ取ることができます。
尾上高校前駅の次は田んぼアート駅です。一風変わった駅名ですが、これは駅に隣接した田んぼに色の違う稲を植えて絵を描いていることに由来します。
1993年に地域おこしの一環として始まった田んぼアートは、第1会場と第2会場があり、同駅に併設されている第2会場は2012年に開設されました。その会場の来場者の足として、2013年に田んぼアート駅も新設されたのです。
第2会場には田んぼを上空から眺められる展望塔もあり、田舎館(いなかだて)村の観光にも寄与しています。田んぼアートは農業と観光をミックスした事業としても注目され、ほかの自治体にも波及しています。
田舎館村では田んぼアート駅に隣接して道の駅やJRAのウインズ津軽(中央競馬場外馬券売場)もあります。観光のみならず産業の拠点にもなっていますが、駅周辺は静かでゆっくりとした時間が流れています。
そうした周辺環境も考慮され、田んぼアート駅は昼間帯のみ電車が停車する駅となっていて、夕方以降は通過します。また、田んぼアートを見ることができない冬季も休止されます。
田んぼアート駅の北側には国道102号線の高架道路があり、そこをくぐると田舎館駅に到着します。田舎館駅は平川市在住のアーティスト・GOMAさんが内観の装飾を手がけています。
田んぼや駅舎内のアート作品を楽しみながら、次の境松(さかいまつ)駅へと向かいます。田舎館駅から境松駅までは側道がなくなり、つがるロマン街道をひたすら歩いていきます。“ロマン”という名称がつけられていますが、田舎館駅-境松駅間で特にロマンを感じさせるような建物や風景は見当たりません。歩車分離もされていないので、猛スピードで走る自動車に警戒しながら黙々と歩き続けました。
かつては「黒石線」もあった終点・黒石駅
浅瀬石川の橋を渡り、右折すると県道38号線が見えてきました。県道38号線をさらに右折して進んでいくと、いつの間にか2車線の道路が1車線となり、踏切が現れました。その踏切の右手に境松駅があります。
ポツンと佇む境松駅に一抹の寂しさを感じつつも、踏切を渡って終着駅となる黒石(くろいし)駅を目指します。
途中、大きな建物が左手に現れますが、これらは黒石市の境松庁舎と社会福祉協議会です。それらを眺めながら歩いていくと道路は突き当たりになり、左折して道なりに歩いていくと黒石駅に到着です。
左折した後は道が細くなり、「これが駅へと通じる道なのかな?」と不安になりましたが、これは黒石駅の裏側にたどりつくルートだからです。駅の反対側に回ってみると、駅前広場とロータリーが整備されており、自動車が行き交う幹線道路もあります。
黒石駅は弘南鉄道弘南線の終着駅ですが、1998年まで黒石駅-川部駅間を約6.2kmで結ぶ黒石線という弘南鉄道の路線もありました。
黒石線はもともと国鉄(現・JR東日本)の路線だったこともあり、川部駅から奥羽本線に乗り入れて弘前駅へと直通する列車や五能線に乗り入れる列車なども走っていました。
国鉄は全体の赤字額が膨れ上がり、収支の改善が見込めない黒石線を廃止対象にしました。弘南鉄道は黒石駅を共同で使用していた間柄だったことから、国鉄が手放そうとした黒石線の経営を引き受けました。そして、1984年から黒石線として運行を開始。弘南鉄道時代の黒石線は国鉄時代より収支が改善しています。
それでも過疎化やマイカー普及の影響によって利用者の減少には歯止めがかからず、弘南鉄道は1998年に黒石線を廃止する決断を下しました。
今回、実質的に廃止が表明されたのは大鰐線で、弘南線に廃止議論は浮上していません。弘南線全線を歩き通してみると、沿線には高校・大学が多く点在していて通学の足として活用されていることがわかります。
しかし、通学需要は朝夕になるので、鉄道を維持するには昼の需要を増やすことが課題になります。弘南線には田んぼアート駅のような沿線外から集客できる目玉施設は少なく、観光客による収益も期待できません。
コロナ前まで年間で約125万人の利用者がいました。この多くは通学利用の高校生・大学生と思われるので、鉄道がなくなると通学に支障をきたしてしまう学生も多く出てくるはずです。将来を託される学生、ひいては地域の未来を守るためにも弘南鉄道や沿線自治体の奮闘に期待したいところです。
【訂正】記事初出時に、一部路線名に誤りがありました。お詫びして訂正いたします。(10月23日)





































