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江戸時代の吉原を体感できる「大吉原展」 東京藝大美術館で開催

特別展「大吉原展」

上野にある東京藝術大学の大学美術館で、3月26日から5月19日の会期で、特別展「大吉原展」が開催されている。吉原の街や遊女を描いた浮世絵の展覧会は珍しくないが、本展は、今や失われた吉原遊廓における江戸の文化と芸術について歴史的に検証し、その全貌に迫る展覧会となっている。

概要

特別展「大吉原展」
会期:2024年3月26日(火)〜2024年5月19日(日)(前期は4月21日(日)まで)
会場:東京藝術大学大学美術館
入場料:一般 2,000円、高校・大学生 1,200円

※会期中、一部作品の展示替えが行なわれる

なお来場客による撮影は、一部を除いて禁止。以下は、主催者の撮影許可を得たうえで掲載している。

展示される浮世絵の絵柄をそのまま借用し構成された、本展のキービジュアル。福田美蘭《大吉原展》2024年・作家蔵

浮世絵作品を見ながら、吉原を知っていける第一部

第一部では、吉原の文化やしきたり、遊女の生活などを、浮世絵や映像を交えて解説していく。

地下2階の会場に入ると現れるのが、歌川派の祖である歌川豊春が描いた、六曲一隻の《新吉原春景図屏風》。一般に、浮世絵師によって描かれた肉筆画の大画面作品は多くない。だが本展では、今作を含む複数の浮世絵師による屏風絵が見られるのもポイントだ。

作品に歩み寄っていくと、吉原の大門(おおもん)から仲の町の様子が描かれている。通りには3月にのみ植えられた満開の桜や、多くの男性の遊客や遊女、または見物人が見られる。

この作品に限らず第一部の展示では、テキスト解説だけでなく、各作品の目の前に投影される映像解説が見られ、作品に描かれた情景が理解しやすい。女性でも、花魁がいて、新造や禿(かむろ)がいて、遣り手が描かれていることが分かったりするのだ。

第一部の会場風景
歌川豊春により、天明(1781〜89)後期から寛政(1789〜1801)前期に描かれた《新吉原春景図屏風》。個人蔵。通期展示

遊女の一日のタイムスケジュールが、喜多川歌麿が寛政6年(1796)に描いた浮世絵《青楼十二時》シリーズとともに、解説されている一画もある。

例えば《青楼十二時 続 卯の刻》では、午前6時頃に、帰り支度をする客に羽織を着せかけようとしている花魁の姿が描かれている。この後、ひと眠りして午前10時頃に起床し、朝風呂で身を清めている《青楼十二時 続 巳の刻》や、正午頃に昼見世(昼の営業)のために身支度を整え始める《青楼十二時 続 午の刻》などと、計12枚の浮世絵とともに、高級遊女である花魁(おいらん)の1日が説明されている。

喜多川歌麿が寛政6(1794)年頃に描いた《青楼十二時》とともに、花魁の1日が説明されている

あの人も吉原の常連だったと分かる第二部

地下2階の第二部は、江戸初期から幕末・明治までの歴史が通覧できる会場となっている。

吉原は、江戸時代に誕生した江戸市中で唯一の幕府公認の遊郭(ゆうかく)であり、売買春が認められた地域だ。1617年に現在の日本橋人形町に開設され(元吉原)、1657年に浅草日本堤へ移転(新吉原)。約250年間にわたって続いた。

第二部の展示風景。左手前は、伝 古山師重による《吉原風俗図屏風》。17〜18世紀に描かれた作品で、遊客の武士たちが編笠や被り物をして歩いていたり、宴席や酒宴の様子、煙草を吸いながら客を待つ遊女などが描かれている。奈良県立美術館蔵

もちろん吉原以外にも、品川や内藤新宿、板橋、千住などの宿場をはじめ、江戸市中の各所には、岡場所と呼ばれる非公認の売買春地域が存在した。だが吉原は「江戸市中で唯一の幕府公認」だったことで、格式と伝統を備えた場所となったという。

洗練された教養や鍛え抜かれた芸事で客をもてなし、3月には数百本の桜を一時的に植えて花見を楽しむなど、季節ごとに町をあげての催事も行なわれた。そうして贅沢に非日常が演出され、仕掛けられた虚構の世界だったからこそ、多くの江戸庶民にも親しまれ、地方から江戸に来た人たちが吉原見物に訪れたという。そうした吉原の様子は、多くの浮世絵師たちによって描かれ、蔦屋重三郎らの出版人や大田南畝ら文化人たちが吉原を舞台に活躍した。

同展に並ぶ作品を見ていくと、吉原を描いた浮世絵師などの出自が、様々だという点もおもしろい。例えば英一蝶(はなぶさいっちょう)は、亀山藩の侍医の家に生まれた。その後に浮世絵師となったが、同時に吉原の幇間(ほうかん)……太鼓持ち……でもあったという。そんな、吉原の裏も表も知る英一蝶が描いたのが《吉原風俗図巻》だ。船で隅田川(大川)を遡り、吉原の大門から遊郭へ入っていった時に、遊客が見る情景が描かれている。

また鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)という旗本出身者もいた。葛飾北斎や歌川広重などと比べると知名度が低いが、優作が多い浮世絵師だ。本展では、遊女をバストアップで描いた大首絵をはじめ、大英博物館など、世界中から集めた極めて保存状態の良い多くの作品が見られる。

なお、鳥文斎栄之の門人には、“しのはら”という遊女がいたことも紹介されている。寛政7(1795)年に刊行された狂歌本『狂歌歳旦江戸紫』に、「栄之門人ゆふ女しのはら画」と記された、梅を描いた挿絵が残されているという。

英一蝶が配流の刑となり、三宅島の流人生活中の元禄16(1703)年頃に描いた《吉原風俗図巻》。サントリー美術館蔵
いずれも鳥文斎栄之の作品。右の《畧六花撰 喜撰法師》は、寛政8〜10(1756〜98)年頃の作品で、遊女を胸から上のバストアップで描いた大首絵。大英博物館蔵

その狂歌は、江戸時代の天明期(1781〜1789年)に、爆発的に流行した。その中心的な発信地となったのも吉原だったという。大文字屋という妓楼の主人、加保茶元成(かぼちゃもとなり)により狂歌グループ「吉原連」がまとめられ、御家人の大田南畝などの文化人をはじめ、妓楼主とその妻なども在籍していた。

姫路藩主家に生まれた酒井抱一も、20代で同グループに加わった一人だった。狂歌名は尻焼猿人(しりやけのさるんど)。江戸琳派の祖とも言われる酒井抱一は、この時期に集中して遊女を画題にした肉筆浮世絵を描いたという。この狂歌グループは、2025年に放送予定の大河ドラマ『べらぼう』に出てきてもおかしくないメンバーばかり。予習をするつもりで見ていくと、より興味深く楽しめる。

ちなみに酒井抱一は、香川という遊女を身請けし、実質の妻とした(表向きは御附女中)。文芸に長け、漢詩や書をよくしたという香川は、小鶯(しょうらん)と名乗り、現在の台東区根岸にあった住居・雨華庵で生涯を共に暮らした。本展では、パネルのみだが、酒井抱一と小鶯との合作、《紅梅図》が紹介されている。

「展示風景より」

「吉原」と言っても、江戸時代だけで約250年の歴史がある。さらに明治時代になると、1872年に芸娼妓解消令が発令される。前借金により自由を束縛され、人権を著しく侵害されていた遊女たちを、解放するのが目的だった。だが、根本的な解決とはならなかった。同令により、遊女3,500余人が吉原を一斉に離れたが、すぐに吉原へ戻らざるを得ない境遇の遊女が多かったのだ。

同展の解説を読むと、江戸時代の「家のために身売り奉公せざるを得なかった遊女の境遇への共感や同情、敬意は薄まり」、芸娼妓解消令以降は「自由意志で身を売る女性への厳しいまなざしが強まり、遊女観が変化」していったとしている。

そうした芸娼妓解消令が発令された同年に、高橋由一が描いたのが《花魁(おいらん)》。教科書でおなじみの、吊るされている《鮭》を描いた人だ。解説では「はじめて油絵で描かれた花魁の肖像画」としている。だが重要なのは「はじめて、とても写実的に描かれた花魁」だったことだろう。描かれた吉原・稲本楼の小稲は、完成品を見て、「こんな顔ではない」と泣いて怒ったと言われている。

高橋由一が明治5(1872)年に描いた《花魁》。東京藝術大学蔵

明治時代の小説家・樋口一葉は、主人公の美登利の姉が花魁という設定の「たけくらべ」を著している。昨今、描いた作品が次々と重要文化財に指定されている日本画家の鏑木清方(かぶらぎきよかた)は、幼い頃から愛読していた「たけくらべ」の主人公・美登利や、樋口一葉を主題とした作品を発表している。その鏑木清方の、透明感のある作品が見られるのも、本展のみどころの一つ。

《一葉女史の墓》と《たけくらべの美登利》の2作品は、いずれも水仙の造花を持った、「たけくらべ」の主人公・美登利が描かれている。

「たけくらべ」のラストは、「こういうことではないか?」と、読者それぞれの自由な想像に任せる……正直、モヤモヤするような……終幕となっている。そのラストシーンで、水仙の造花はキーアイテムの一つだ。解説には「明治の頃には縁日などで売っていた造花で、葉は竹片を削って緑に染め、花は紙で作った手軽な品であったと清方は語っています」と記している。

鏑木清方の作品を念頭に、改めて「たけくらべ」を読み直せば、新たな解釈が思い浮かんで、面白いかもしれない。

浮世絵の大画面作品が見られる第三部

美術館の地下2階から3階へ上がると、「大吉原展」の第三部。展示室を真ん中を一本の道が通り、その左右に店のように展示室が並ぶ、吉原の“街”をイメージした作りとなっている。

この第三部で、うわぁとなるのが喜多川歌麿の大きな大きな作品、《吉原の花》だ。満開の桜と、通りを歩く人たちがいきいきと描かれるとともに、楼の2階では宴会が催されている。だがよく見れば描かれているのは、華やかな着物または男装をした女性たちだけ。遊客である男性が描かれていない……むさ苦しくない、理想的な情景とも言えるだろう。

その近くには、伝 歌川豊春の《新吉原玉屋の張見世図屏風》が展示されている。こちらも大きい! 往来に面した店先に遊女たちが並び、格子の内側から自分たちの姿を見せて客を待つ、「張見世(はりみせ)」の様子が描かれている。

前者の(吉原の花)はアメリカのワズワース・アテネウム美術館の所蔵で、後者(新吉原玉屋の張見世図屏風)は大英博物館の所蔵。おそらく明治以降に海を渡ったのだろうが、それから100年を経ても、きれいな状態であることに驚く。また浮世絵師による、こうした大画面の作品の存在を初めて知ったこともあり、目の前にした時に本当に嬉しく感じた。日本人である筆者が、今後見る機会は二度とないだろうと考えると、会期中にもう一度ゆっくりと見ておきたいと思う。

第三部の展示室は、吉原の“街”をイメージした演出
喜多川歌麿が寛政5(1793)年頃に描いた《吉原の花》。ワズワース・アテネウム美術館蔵
歌川豊春が描いたと伝わる《新吉原玉屋の張見世図屏風》。天明2〜6(1782〜86)年に描かれた作品で、大英博物館蔵

筆者はどうしても浮世絵などの絵画を中心に見てしまったが、そのほか各部屋には、工芸品なども多数展示され、遊女のファッションや芸者たちの芸能活動を知ることができる。

《伝 玉菊使用三味線》もその一つ。この、遊女の玉菊が使用したと伝えられる三味線は、代々受け継がれ、最後には日本画家として著名な前田青邨の夫人、荻江露友へ渡ったもの。現在は早稲田大学演劇博物館が所蔵する。

《伝 玉菊使用三味線》早稲田大学演劇博物館蔵
山東京伝《霊祭の美人》江戸時代 18〜19世紀 太田美術館蔵

第三部の最奥の展示室には、吉原の妓楼の立体模型《江戸風俗人形》が展示されている。建物の内外に並ぶ遊女の人形は、辻村寿三郎作。同氏は、NHKの「新八犬伝」などの人形を手掛けたことで著名だが、漫画「ONE PIECE」とコラボレーションした人形を作った人でもある。

同作は、文化・文政(1804〜30)年頃の吉原の妓楼を念頭に、昭和56(1981)年に制作された。上述の辻村氏のほか、建物を檜細工師の三浦宏氏が、調度品を江戸小物細工師の服部一郎氏が担当している。

《江戸風俗人形》昭和56(1981)年・台東区立下町風俗資料館蔵
高さ20cmにも満たない人形だが、細部まで精緻な作り
金糸銀糸が織り込まれ、花や鳥などが刺繍された衣装を身に着けている
遊女の人形はもちろんだが、各部屋にある約400の調度品の精巧さにも驚かされる

《江戸風俗人形》と同じくらいに惹きつけられたのが、パネルに記されていた辻村寿三郎の一文だった。

「華の吉原仲の町。悲しい女達の棲む館ではあるのだけれど、それを悲しく作るには、あまりにも彼女達に惨い。」で始まるその文章には、この作品を「男達ではなく、女達にだけ楽しんでもらいたい。復元ではなく、江戸の女達の心意気である。」としている。最後は「ひとの道に生まれてきて、貧しくても、裕福でいても、美しく活きる姿をみせてこそ、生まれてきたことへの、感謝であり、また人間としてのあかしでもあるのです。艶めいて、鎮魂の饗宴のさかもりは、先ず、吉原の女達から……。」と締めている。

「大吉原展」は、吉原やそこで働く遊女がいたからこそ生まれた、江戸期に開花した文化を総覧するのに、格好の展覧会だ。美術工芸作品を鑑賞できるだけでなく、そこで働いていた主に遊女たちの悲喜や憂苦も感じ取れるはず。本展を観覧した後に、女性の人権に関して深堀りするもよし、吉原を題材にした浮世絵などに一層の興味を抱いてもよし、吉原を舞台とした演目の歌舞伎を観るのもよいだろう。ちなみに筆者は、吉原を舞台にした落語の廓噺、「紺屋高尾」や「明烏」などを改めて聞いてみたくなった。「大吉原展」は、そうした様々な“きっかけ”となる、素晴らしい展覧会と言える。