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北陸新幹線は何のために延伸するのか? 計画は1970年代から始まっていた

北陸新幹線が3月16日に石川県の金沢駅から福井県の敦賀駅まで延伸開業します。中間駅として、金沢駅側から小松駅・加賀温泉駅・芦原温泉駅・福井駅・越前たけふ駅の5駅が誕生します。越前たけふ駅以外は、北陸本線の既存駅と同じ場所に新幹線駅が開設されます。金沢駅-敦賀駅の開業によって、福井県はどう変わるのでしょうか? また、今回の延伸は敦賀駅までですが、その後の延伸計画も気になるところです。

大阪から福井へのアクセスは不便に。脱関西化が進む?

2015年3月に長野駅-金沢駅が開業してから約9年、これまで北陸新幹線と言いながらも富山県・石川県の2県にしか新幹線は走っていませんでした。

福井県は長らく北陸新幹線から取り残されていたわけですが、ようやく新幹線が県内で走り始めるのです。それだけに、今回の延伸開業は福井県にとって悲願とも言えます。福井県は北陸新幹線の延伸開業を“100年に一度の好機“と喧伝して、ムードの盛り上げに余念がありません。それだけ福井県は北陸新幹線を待ち侘びていたのです。

北陸新幹線延伸開業に合わせて企画乗車券も発売される

しかし、北陸新幹線の延伸開業は、福井県にとっていいことづくめではありません。なぜなら、並行在来線となる北陸本線が第3セクターに転換されてしまうからです。今回の延伸開業区間では金沢駅-大聖寺駅間はIRいしかわ鉄道に、大聖寺駅-敦賀駅間はハピラインふくいへと移管されます。

そのため、これまで大阪駅-金沢駅を結んでいた特急列車「サンダーバード」、同じく名古屋駅-金沢駅間を結んでいた特急列車「しらさぎ」も運転区間を縮小して、敦賀駅の発着になります。

北陸を走る特急列車('14年5月撮影)

これまでは大阪もしくは名古屋から福井県の県都・福井市や石川県の県都・金沢市まで一本でアクセスできました。北陸新幹線の延伸開業によって、鉄道で大阪・名古屋方面から北陸地方への移動は不便になるのです。

福井県は北陸地方に属しますが、これまでは経済・産業的に京都や大阪といった関西地方と強い結びつきがありました。ところが、北陸新幹線の敦賀駅延伸開業によって福井県の脱関西化が少しずつ進むのではないかと考えられています。

福井市の玄関口でもある福井駅西口には、福井県が恐竜王国であることをPRする恐竜のモニュメントが展示されている('21年3月撮影)
福井駅西口の駅前広場には福井鉄道の路面電車が乗り入れている('21年3月撮影)

そもそも、なぜ北陸新幹線は金沢駅-敦賀駅という区間で開業したのでしょうか? 明治期に日本とユーラシア大陸を結ぶ欧亜国際連絡列車が運行されていたので、鉄道ファンなら敦賀の名前は知っています。また、敦賀市は約6万2,000人の人口を擁する福井県第2の都市です。福井県民には馴染みのある都市ですが、全国的には知名度が高い都市ではありません。

なぜ、敦賀駅までという中途半端な区間での開業になったのか? それを知るには、北陸新幹線のみならず日本の新幹線がどのように整備されてきたのかという歴史、ひいては国土計画の歴史を知る必要があります。その前史はとても長い歳月を積み重ねていますので、簡単に説明できませんが、本稿は要点を整理しながら駆け足で解説していきます。

1970年代から計画されていた北陸新幹線

日本に新幹線が走り始めたのは、1964年です。東京-大阪の東西両都市を結ぶことを目的に整備された新幹線は、明治期から計画が持ち上がっていました。ところが、当時は新幹線どころか鉄道すら走っていない地域も多く、それらの地域から鉄道を求める声があがっていました。

政府は鉄道網を広げるべきか、それとも高速化に舵を切るかで判断を迷いました。また、各政党でも考え方が異なり、鉄道は政争の具になります。さらに、鉄道計画は軍部をも巻き込み、収拾がつかなくなりました。

政治・軍部に翻弄されたこともあり、明治期から浮上した新幹線は実現しないまま歳月だけが経過。再び計画が浮上したのは、戦災復興が一段落したあたりです。鉄道を高速化する機運が芽生え、それが新幹線となって実現するのです。

高度経済成長期だった日本は国全体に勢いがあり、国民の所得も右肩上がりで増えていました。そのため、マイカー所有率も増加し、鉄道は時代遅れとの批判もありました。

しかし、そうした前評判を覆して新幹線は大成功を収めます。そのため、その後も大阪から福岡を結ぶ山陽新幹線の計画が進められ、さらに全国各地に新幹線を求めることが沸き起こりました。

時代とともに東海道新幹線は東京-大阪を結ぶ日本の大動脈になりましたが、災害などで東海道新幹線が不通になる可能性もあります。また、歳月の経過により東海道新幹線の線路や鉄道施設も老朽化します。

そうしたリスクヘッジのために、東海道新幹線を代替する新幹線の計画が1970年代から議論されてきました。それが東京-大阪間を北陸経由で結ぶ北陸新幹線の計画だったのです。

1970年代に計画された北陸新幹線でしたが、すぐに着工というわけにはいきません。当然ながら、どこに駅をつくり、どこを走らせるのか? 需要はあるのか? どうやって建設資金を調達するのか? さらに、新幹線と並行する在来線をどうするのか? といった問題が噴出したからです。

それらの問題を整理し、ようやく1997年に上越新幹線の高崎駅から分岐する形で長野駅までが開業を果たします。これは、1998年に開催される長野五輪に間に合わせるためでした。

その後は長野駅から北陸地方へと延伸する計画になっていましたが、地元からの反対なども根強く、さらにJR西日本も北陸新幹線に対して煮え切らないスタンスだったこともあって長野駅からの延伸工事は遅れました。

その理由は、北陸に新幹線を走らせる計画は、長野駅から北陸へと線路を延ばす方式ではなく、上越新幹線の越後湯沢駅から直江津駅を経て富山駅、そして金沢駅を結ぶスーパー特急方式の鉄道を建設する案が有力になっていたからです。

鉄道の線路は2本のレールで構成されていますが、このレール幅を軌間と呼びます。新幹線は1,435mm。対して、在来線の多くは1,067mmとなっています。列車は異なる軌間を走ることができません。スーパー特急方式は在来線の線路をそのまま使用するので、建設費などは安価で済むというメリットがあります。

一方、スーパー特急方式は在来線の線路を活用するために、最高速度が時速160kmに制限されるなどがデメリットです。

所要時間を短縮する効果が小さいスーパー特急方式では整備効果が薄いとの判断もあり、北陸の自治体は長野駅から北陸地方へ新幹線を延伸させることを要望。そうした意向を受けて、政府も長野駅から北陸方面へと線路を延ばす計画に決定しました。

しかし、JR西日本が煮え切らない態度を取ったことで延伸計画は暗礁に乗り上げます。長野駅から北陸方面へと延びる新幹線は、JR西日本が運行を担当することが想定されていたからです。

北陸新幹線の最終目標は東京-大阪を結ぶことです。東京-大阪間なら多くの利用者を見込めますが、途中駅までの暫定開業では北陸地方から東京方面の需要しか期待できません。逆方向の東京方面から北陸地方の需要を生み出さなければ非効率になってしまいます。

そうした需要に対する不安に加えて、新幹線が開業することによって北陸地方で運行されてきた特急列車も売上を落とすことが想定されるわけですから、JR西日本が長野駅から北陸地方への延伸に慎重になるのは当然です。

JR西日本は北陸新幹線を引き受ける条件として、以下の5つを提示しました。


    (1)大阪までの全線を同時に開業すること
    (2)並行在来線の北陸本線だけではなく、富山港線と城端線と氷見線と越美北線の全線、高山本線の富山駅-猪谷駅間、大糸線の南小谷駅-糸魚川駅間、七尾線の津幡駅-和倉温泉駅間の支線も経営分離すること
    (3)貨物列車の運行を確保すること
    (4)富山市・金沢市・福井市の都市交通を維持して、安定的な需要創出を図ること
    (5)JR西日本が所有する鉄道施設の固定資産税を減免すること

JR西日本が提示した5条件を見ると、北陸新幹線の開業が北陸地方にもたらすインパクトが大きいことが伝わってきます。特に、在来線には大きな影響を及ぼすことが窺えます。

JR西日本が提示した条件のうち、(1)は2015年に金沢駅まで、そして敦賀駅までと段階的に開業をしていることからも、早々に反故にされています。

どうして(1)が守られなかったのでしょうか? その理由はJR西日本が引き受ける5条件を提示した時点で敦賀駅以南のルートが確定していなかったからです。

早く北陸新幹線を開業させたい政府や沿線自治体は、とにかく工事ができる区間から着工し、完成したところから開業させていきたいと考えていました。

敦賀駅以南のルートを決め、一気に全線開業させることを待っていたら、いつまで経っても北陸地方に新幹線は走りません。そうした懸念から、政府や北陸地方の自治体から部分開業が求められ、なし崩し的に北陸新幹線は部分開業を果たしていきました。

敦賀駅から大阪までルートが決まっていなかったことは、現在においても北陸新幹線の全線開業に大きな影響を及ぼしています。

コスト面で米原ルート有力もJR東海が難色を示す

大阪までのルートはいくつか検討されましたが、熟議の末、敦賀駅以南のルートは最終的に3案に絞られています。まず、3案それぞれを見ていきましょう。

1つ目は敦賀駅から北陸本線に沿うように琵琶湖東岸を走って滋賀県の米原駅まで建設し、米原駅からは東海道新幹線に乗り入れるルートです。これは米原ルート案と呼ばれます。

2つ目は湖西線に沿うように琵琶湖西岸を走って京都府の京都駅へと至り、そこから奈良県を経由して大阪府まで建設するルート案です。これは湖西ルートと呼ばれます。

3つ目は敦賀駅から西へと進路を変え、福井県の若狭地方へと走って福井県小浜市を経由してから京都・奈良・大阪へと至るルート案です。これは小浜・京都ルート案と呼ばれます。

これらの案にはメリット・デメリット双方ありますが、JR西日本は工期・工費の観点から当初は米原ルート案を支持していました。米原駅から北陸新幹線を東海道新幹線へと乗り入れできれば、建設費を圧縮できるからです。

出典:国土交通省鉄道局「北陸新幹線京都・新大阪間のルートに係る調査について 平成29年3月7日」。国土交通省は米原ルート、小浜・京都ルート、小浜舞鶴京都ルートで調査を実施。有力3案のうち湖西ルートは記載されていない

米原ルート案は、2010年に大阪府の橋下徹知事(当時)、近畿ブロック知事会で賛意を示し、その取りまとめをしています。橋下知事が米原ルートを支持した主な理由は、建設費が安価だったからです。米原ルートの建設費は総額576億円、対して小浜・京都ルートは約1,422億円と試算されていたのです。

大阪府の橋下徹知事(当時)は、米原ルートを支持して大阪府・京都府で滋賀県の費用負担を肩代わりすることを主張していた('14年3月撮影)

しかし、東海道新幹線は過密ダイヤが組まれています。とても北陸新幹線を乗り入れさせるダイヤの余裕はありません。そうした事情もあり、東海道新幹線を運行するJR東海は北陸新幹線の米原ルートに難色を示しました。

ダイヤの関係で乗り入れが叶わないのなら、北陸新幹線を米原駅までにして、あとは米原駅で東海道新幹線へと乗り換えるという案もありました。この案は、北陸・関西双方にとって不便が生じることもあり、支持が広がることはありませんでした。

敦賀駅以南のルートは、3案以外にも複数のルート案が俎上に上がり議論が百出しました。上記の国土交通省に掲載されていないルートも複数あり、その中には有力3案のうちのひとつとなっていた湖西ルートもありました。そうした複雑な状況もあり、敦賀駅以南のルート決定は先送りにされてきたのです。

議論・建設が停滞すると、頭を抱えてしまうのが北陸地方の自治体です。北陸地方、特に福井県は旧来から大阪・京都といった関西との結びつきが強い地域でした。実際、福井県には関西電力の原子力発電所が多く立地しています。福井県が関西地方の電力を支えているのです。また、福井県の鉄道事業者であるえちぜん鉄道は、かつて京都を地盤にしている京福電気鉄道という鉄道事業者でした。

そうした背景もあり、北陸地方の自治体は早急に大阪まで北陸新幹線を開業させたいと考えていました。同じように、JR西日本も収支のことを考えて早期に大阪までの開業を進めたいと表明しています。

先述したようにJR西日本は、大阪までの全線を一気に開業させることを北陸新幹線を引き受ける条件にしていました。しかし、その後に敦賀駅までの部分開業を容認しています。

JR西日本が翻意した理由は、米原ルートに固執していると、いつまで経っても北陸新幹線の建設が進まないことが一因でした。少しでも北陸新幹線を延伸させることで、大阪までの開業を早めたいという思惑があったようです。

JR西日本が敦賀駅までの暫定開業を受け入れたことで、金沢駅-敦賀駅間の区間を建設・開業させることになりました。しかし、金沢駅-敦賀駅間を一気に建設するには長い歳月を要します。

新幹線が走っていない福井県の政財界からは、1日でも早く新幹線を走らせたいという意見が相次ぎます。福井政財界の一部からは、県都・福井市の玄関でもある福井駅までの部分開業という主張も出てきました。

福井駅までの暫定開業という意見は、中央政界にも及びます。福井県は自民党王国と呼ばれる地域で、第2次安倍内閣が発足した当時に飛ぶ鳥の勢いだった稲田朋美議員も福井駅までの暫定開業に動きました。この働きかけは、さまざまな事情があって実現することはありませんでした。

福井県選出の稲田朋美議員は、第二次安倍政権から頭角を現すようになった('13年3月撮影)

小浜・京都の整備区間の長さから米原ルート案が脚光

北陸新幹線は、ようやく敦賀駅までの延伸開業を果たします。そして、今後は敦賀駅から小浜・京都ルートで大阪まで建設が進められる予定になっています。ところが、小浜・京都ルートでの計画に暗雲が立ち込めています。

'21年3月時点では、福井駅の北陸新幹線ホームは、暫定的にえちぜん鉄道が使用していた

先述した有力3案のうち、小浜・京都ルートはもっとも整備区間が長いのです。そのために建設費用は莫大になり、工期も長くなります。環境アセスメントなどの手続きも煩雑になり、そうした複数の理由が絡み合い小浜・京都ルートを忌避する空気も生まれています。こうした流れから、米原ルート案が再び脚光を浴びるようになっています。

しかし、米原ルート案の再浮上に待ったをかけたのが滋賀県です。小浜・京都ルートで建設した場合、北陸新幹線は滋賀県を通過しません。そのため、滋賀県が建設費用を負担する必要はありません。

一方、米原ルートは滋賀県の負担が発生します。そもそも滋賀県は米原駅-敦賀駅を新幹線で結ぶことで多少の効果を期待できますが、莫大な費用負担に見合った効果はありません。現行の特急列車でも十分なのです。

滋賀県の事情は近畿圏でも共有されており、米原ルートを支持した橋下知事は米原ルートによって発生する滋賀県の費用負担はメリットが得られる大阪府と京都府で肩代わりすると宣言していました。

政府が決定した小浜・京都ルート案にも問題は山積しています。北陸新幹線の敦賀駅から大阪までの開業には、問題をひとつひとつ丁寧に解決していかなければなりません。

約8年の歳月を経て、名実ともに北陸3県を走る新幹線が誕生します。ただし、最終目標である東京-大阪を結ぶ道筋は見えておらず、開業年は明確に示されていません。

えちぜん鉄道と福井鉄道の田原町駅では、市内中心部を走る福井鉄道と郊外を走るえちぜん鉄道が乗り入れる。福井県内では鉄道会社の垣根を越えた連携が見られる
小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。