鈴木淳也のPay Attention

第147回

許されざるApple Pay。小売連合が描いたモバイル決済の夢「MCX」

米ニューヨーク市内のQueensboro Plaza駅の夜の風景

今回は、モバイル決済の歴史を振り返るシリーズの第3弾として「MCX(Merchant Customer eXchange)」を取り上げる。おそらく初耳の方も多いと思われるキーワードだが、「モバイルNFC」を語るうえで欠かせないトピックの1つといえる。

過去の連載記事でも触れたように、Apple Payが登場するまでの2010年前半はさまざまなモバイル決済サービスが名乗りを上げて混沌としていた時代だ。一方で、実証実験を越えて実際に立ち上がったサービスはごくわずかで、立ち上げに成功したサービスも実質的には現在まで残っているものは存在しない。当時米国では「Google Wallet」をはじめ、「Isis(後にSoftcardに改名)」「MCX」がモバイル決済における3つの有力候補として知られていた。過去の表現にならっていえば、Google Walletが「eSE方式」、Isisが「SIM方式」となり、MCXは「SE(セキュアエレメント)を使わないサービス」という位置付けになる。

MCXはセキュアエレメントを使わないため、これだと3つの陣営がどのような位置付けにあるのかを判断しにくいが、次のスライドを見ればMCXの性格が一発で分かるだろう。つまり、Google WalletがモバイルOSを握るプラットフォーマーの推進する方式、Isisが携帯キャリアの推進する方式とすれば、MCXは決済を受け入れる加盟店、つまりメジャーな小売店らが互いに手を組んで決済サービスを展開する方式ということになる。

2013年4月に米ネバダ州ラスベガスで開催されたCartes Americasの講演でのGemaltoのスライド。3陣営の解説の中でMCXの性格を紹介した

小売店の視点で構築されたサービス

Google WalletとIsisのデビュー(発表)が2010年だったのに対し、MCXの発表は2012年とやや遅い。Wall Street Journalは同年8月15日の「Payments Network Takes On Google」と題した記事の中で「Retailers Including Wal-Mart, Target and 7-Eleven to Unveil Mobile System Employing Smartphones」と述べており、主要小売店がタッグを組んでGoogleらに対抗していくことを報じている。参加各社合わせて全米に7万5,000の店舗があり、1週間あたり4億の利用者があり、年間1兆ドルの売上があることをアピールしていた。

いまでこそ小売店のNFC決済が当たり前となっているが、当時はまだインフラも全然整備されておらず、先進導入事例として知られるマクドナルドにおいても現在とは違う方式でのサポートだった(NFC決済を磁気ストライプと同じ方式で処理する特殊なもの)。ゆえにGoogle Walletなどが利用できる店舗も限られており、インフラ整備面でMCXが優位に立てる側面が存在していた。

米カリフォルニア州サンフランシスコのTarget店舗

Google WalletとIsisは店舗での決済にNFCを用いることを前提としていたため、対応機種が限られており、そのため利用を希望するユーザーであってもその対象を選ぶというデメリットがあった。一方で、MCXはQRコード決済を前面に推しており、対応機種を選ばない。米国の収入分布を考えれば、当時NFCをサポートしていたような高級機は中間層以下が購入するにはやや厳しい。それよりも、低所得層でも入手が可能な低価格スマートフォンでも利用できる方が、広い利用客を受け入れる小売店にとっては都合がいい。こうした判断もまた、QRコード方式を採用する原動力になったのだろう。

もう1つMCXで重要なのが、モバイルウォレットに紐付けられる引き落とし先がApple Payなどで用いられているクレジットカードではなく、「銀行口座」や「参加各社が発行している独自のカードやプリペイド」という点にある。いわゆるデビットカードのみが紐付け可能で、決済処理はACH(Automated Clearing House)のような金融機関の間の精算システムを用いて送金が行なわれる。つまりクレジットカードなどと比べて決済手数料が低く、小売店ならではの課題に対する視点でサービスが構築されているわけだ。

MCXは組織の名前だが、実際のサービス名は「CurrentC(カレンシー)」と呼ばれ、2015年に約半年の期間で米オハイオ州コロンバスでの試験運用を行なった。ただ、この時期にはすでにApple Payがローンチされて1年が経過しており、1都市限定のテストではほぼ効果は出せず、そのままサービスは正式スタートに至る前に立ち消えとなり、MCXそのものは以後奇妙な運命をたどっていくこととなる。

Apple Payとの闘争、参加者の離脱、そしてChaseによる買収

このMCXにも、モバイルNFCを巡って「Google vs. 携帯キャリア」で繰り広げられたような闘争が起きている。有名なものの1つがMCX参加社であるCVS Pharmacyらによる「Apple Pay取り扱い拒否事件」で、本来であればNFCによる決済が可能な同店舗において、Apple Payがスタートした2014年10月以降からしばらくの間、同サービスでの支払いが行なえなかったというものだ。

筆者も実際に現地で試して拒否されたが、どのようにApple Payと他のNFC決済を見分けていたのか技術的な仕組みはいまだ分かっていない。ただ、コロンバスでの実証実験にあたってCVSはCurrentCの提供を実店舗で行なっており、Apple Payの存在が許せなかったのは確かだろう。

CVS Pharmacyの店舗

そしてMCXが実質的にCurrentCの立ち上げに失敗したと判断された直後、参加社であるTargetとWalmartがそれぞれ独自の決済サービスの提供を開始している。

前者はTargetアプリの一部として、後者は「Walmart Pay」アプリの体裁を取っているが、仕組み的にはMCXと同様の2次元コード決済であり、MCXの冠を外して各社独自の決済サービスを市場投入した形となる。小売店連合で共通の決済を推進していこうというものから、各社がそれぞれの意図を持ってプロモーションを展開しやすい独自方式へと舵を切り、顧客を抱え込んでいく方針へと転換した流れだ。

Targetアプリに搭載された支払い機能
Walmart Payで支払う様子

このようにMCXの仕組みが空中分解していくなか、ほぼ同時期に奇妙な動きが起こる。JPMorgan Chaseの銀行部門であるChaseはMCXの仕組みを用いた「Chase Pay」を発表し、CurrentCをほぼ引き継ぐ形でのサービスインを実現している。

Chase Payが発表されたのが2015年10月26日に米ネバダ州ラスベガスで開催されていた「Money20/20 USA」でのことで、前述のTargetとWalmartの独自決済サービス参入とほぼ同じタイミングであり、CurrentC失敗を受けて一部小売店が実質的にMCXを離脱しつつ、Chaseが引き受け手として事業の活用に目を付けた流れだ。

Money20/20で講演する米Chaseコンシューマ&コミュニティバンキングCEOのGordon Smith氏
Chase PayはMCXのCurrentC事業を引き継ぐ形で成立した
対応小売店のごく一部。レストランチェーンなど対応店舗はさらに多い

CurrentCは参加小売店が多いながらも立ち上げに失敗したが、その理由の1つにはスタート時期が遅すぎたために、新規顧客獲得が難しいという判断があったと思われる。Apple Payはすでに2年目のサイクルに入っており、同時期の米国でのライアビリティシフト(磁気ストライプからICチップを用いたカード決済に移行する試み)の流れのなかでNFC対応店舗が急増していたタイミングでもあり、ユーザーの関心が低かったのも大きいだろう。ただ、Chaseは最大手の銀行の1つであり、同行によれば全米の家庭の約半数がChaseに口座を持っているほど利用層が広い。このChaseの顧客に対してChase Payをそのまま提供すれば、利用人口を一気に獲得できるという目算が同行にはあったのだろう。MCXとCurrentCの仕組み自体はすでにできていたため、それを引き継ぐことで労なくしてサービスを立ち上げられるというのも理由の1つとしては考えられる。こうして、CurrentCとして立ち上がるはずのサービスは「Chase Pay」の名称で再スタートを切ることになった。

サンフランシスコ市内にあるChaseの支店。この建物はもともとWashington Mutualの店舗であり、リーマンショックで経営危機に陥った同行を救済合併する形でChaseが買収し、西海岸に拠点を広げるきっかけとなった

ただ、リーマンショック後に急拡大したChaseの規模を持ってしてもChase Payを盛り上げるには至らず、結果としてモバイル決済の世界はApple PayやGoogle Pay(Android Pay)にその座を譲ることになる。その後、2019年8月にChaseは同決済サービスのクローズを発表し、世界がコロナ禍に突入する2020年初頭にひっそりと息を引き取った。

ロイヤルティプログラムと店舗独自決済

Chase Pay終了発表から3年が経過した2022年8月現在、2010年代前半に米国を沸かせた3つの決済サービスはどれも存在しておらず、歴史の波へと消えていった。現在残っているのは焼け野原の中に颯爽と登場したApple Payと、Google Walletの残滓を経て新しいサービスとして出発したGoogle Payや類似のサービス、そしてMCXから離脱する形でスタートしたTargetやWalmart Payなどの独自サービスとなる。

興味深いのは、TargetやWalmartの提供する独自サービスの方がむしろ生き残っている点で、この現象を考えてみることはモバイル決済の歴史を振り返るうえで意義があると思っている。考えてみれば、モバイル決済が立ち上がるよりさらに前、2008年にスタートしたStarbucks Cardがモバイルアプリとして利用されるようになり、現在もなお生き残って「世界で最も利用されるモバイル決済」などと呼ばれていることも、この現象を示唆するものとなるだろう。

よく「日本はユーザーの意向を無視した決済サービスが乱立しすぎる」と揶揄されることがあるが、別に店舗独自の決済サービスが乱立する現象は日本だけに限らない。むしろロイヤルティプログラムと連動させたStarbucks Cardの仕組みが長く生き残っていることが、店舗独自決済を否定する声へのカウンターとなっていると考える。MCXが消滅した一方で、なぜTargetやWalmartの仕組みが成立するのか、いまいちど考えてみるといいかもしれない。

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)