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東京都美術館「マティス展」を上白石萌歌の音声ガイドで楽しんだ

東京都美術館で開催されている「マティス展」

東京都美術館で「マティス展」が、4月27日から始まった(会期は8月20日まで)。同館のほど近くにある東京都西洋美術館では、今年1月まで特別展「ピカソとその時代」が開催された。そんなピカソ(1881~1973年)の少し先輩にあたり、生涯の友として互いに影響しあったのが、今展示会の主人公、アンリ・マティス(1869~1954年)だ。

彼は21歳の時に、画家になる決意をして以来、84歳で亡くなるまでの間、色と線、そして光の探求を続けたという。また彼は自身の絵について、こう語っていたそう……「私の絵は、ほとんどどれも冒険だ。面白さが生まれてくるのも、そういうところにある」。

とはいえ、それほど筆者は美術にそれほど詳しくなく「マティスって誰?」といった感じでもある。以下、上白石萌歌さんの音声ガイドを聞きながら、展示を巡った感想を記していく。

「The Path to Color」……訳すと「色彩の探求」

【展示会概要】
・会場:東京都美術館(東京・上野公園)
・会期:4月27日(木)~8月20日(日)
・休室日:月曜日、7月18日(火)
 ※ただし、5月1日、7月17日、8月14日は開室
・観覧料:一般2,200円/大学生・専門学校生1,300円/65歳以上1,500円/高校生以下無料
・開室時間:9:30~17:30、金曜日は20:00まで

なお「マティス展」は、同館の3フロア(階)で展開されているが、代表作の《夢》や《赤の大きな室内》を含む、来館者による展示の撮影が可能なフロアがある。それ以外のフロアは撮影禁止なので注意が必要。以下は、主催者の許可を得たうえで撮影掲載している。

撮影は注意事項をよく確認のうえで

「絵画は、人間の感覚の根底にあるものを突き動かす色が必要です」

展示会を入って最初に目にする作品は、1900年、マティスが19歳頃に描いた《自画像》。全体的に暗いのだが、ところどころに使われている黄や緑の色彩が、マティスらしさを感じさせる。

そこから続く第一章では、マティスがフォービズム(野獣派)の旗手として世に知られる前、30代後半までの作品が展示されている。

《自画像》1900年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《読書する女性》1895年冬・切り紙絵・カトー=カンブレジ・マティス美術館寄託

そして次の部屋、第二章で最初に目にするのが、1904年、マティスが35歳頃に描いた《豪奢、静寂、逸楽》。同作品は、赤や青、黄色の原色のまま、色を混ぜ合わせずにキャンバスへ運んでいく筆触分割の技法が取り入れられ、新印象派の影響が見て取れる。

《豪奢、静寂、逸楽》1904年・オルセー美術館寄託

音声ガイドの上白石萌歌さんは、《豪奢、静寂、逸楽》を描いた翌年、マティスが36歳の頃に生まれたのが、荒々しい筆使いと鮮やかな色彩が特徴のフォービズム(野獣派)だという。そして、マティスによる次の言葉を紹介する。

「絵画は、美しい青や赤、黄色など、人間の感覚の根底にあるものを突き動かす色が必要です」

その3年後、38歳頃に描いたのが、マティスの代表作の一つと言われる《豪奢(ごうしゃ) I》。正直、絵を観ただけでは何が描かれているのか分からない……。解説文の助けを借りると、浜辺に佇んでいる大柄な女性がヴィーナス(女神)なのだそう。そのほか、足元にひざまずいている人や、花束を捧げようと駆け寄ってくる女性が描かれている。

《豪奢 I》1907年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

この作品が展覧会に出品された当時は、批判と称賛の声が分かれて、議論を呼んだそう。残念ながら、筆者にはこうした作品を評価できる基準を持っていない。正直、よく分からなかった。

ただし、《豪奢(ごうしゃ) I》の展示で面白いのは、本作を描く前に練習や構想を練るために描かれた「習作」が横に並べられていること。今回の「マティス展」では、本作に限らず、習作やスケッチなどが数多く展示され、画家の筆致がよりリアルに感じられたり、悩んだ様子がうかがえて、とても興味深い。

《豪奢 I》のための習作には、2枚が並んでいる。1枚はヴィーナスが構図の右側に立ち、もう1枚は完成した作品と同様に左側に立っている。この習作の段階で、どちらに立たせるべきか悩んだのだろう。

《豪奢 I》のための習作・1907年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《豪奢 I》のための習作・1907年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

1914年、45歳頃の時に、第1次世界大戦が勃発。その直後にマティスは南フランスのコリウールに移り、短期間を過ごした。そこで描いたのが《コリウールのフランス窓》。

絵を観ても、どこが窓なのか分からないが、解説文によれば、当初はバルコニーからの眺めが描かれていたそう。また、当企画展の担当学芸員、藪前さんによれば「よく見ると、ぼんやりと窓の手すりが描かれているのが見える」のだそうだ。筆者は真正面以外にも斜めからなど角度を変えて観てみたが、分からなかった……。

本作は、収蔵するポンピドゥー・センターの目録には、未完成として登録されている。ただし、展示されている作品を観ていると、このままでも、抽象絵画として良い作品のようにも思える。

《コリウールのフランス窓》1914年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

1914年、45歳頃に描いた《金魚鉢のある室内》も、窓が描かれた作品。どうやらマティスは、部屋の中から見える窓を描くのが、好きだったよう。こちらはキュビズムの影響なのか、奇妙な遠近法というか、様々な視点から描かれていいる。また、中央にある金魚鉢について、解説文は「周囲の色彩が入り込んできているが、独自の小宇宙を形成するという、曖昧な空間性を体現している」としている。

《金魚鉢のある室内》1914年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

次の《窓辺のヴァイオリン奏者》も第1次世界大戦中の1918年、49歳頃に描かれた作品。本作では、窓の前に立ち、バイオリンを演奏する人が描かれている。ただし頭部には、人の温かみのようなものが込められていない。解説文によれば「マティスはこの人物を、見るものがどのようにも代入できる、幽霊のような存在として描いている」としている。例えば、筆者(私)が観た時に、これは筆者が描かれていると思い込みやすいよう、故意にデッサン人形のように描いているということだろう。

《窓辺のヴァイオリン奏者》1918年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

まだまだ、この先に多くのマティス作品が展示されているが、この頃になると、マティスがどんな絵を描きたかったのか、ぼんやりと見えてきたような気もした。整理された構図と、色使いの妙によって、簡単に言えばオシャレな感じなのだ。観ていて、不安や恐怖を感じることもなく、美術に明るいわけでもない筆者が観ていても、良い作品が多いと感じるようになってきた。

彫刻による新しいアイデアの模索

上白石さんの音声ガイドによれば、マティスは絵画のアイデアを練る時に、しばしば彫刻を作ったという。

第三章の部屋「並行する探求ー絵画と彫刻ー」には、そんなマティスの彫刻作品が多く展示されている。中でも最も大きく目立つのが、《背中》と題された、いずれも女性の後ろ姿を表現した4つの作品。

《背中 I〜IV》1909年〜1930年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

左から1909年(マティスが40歳頃)、1913年(同44歳頃)、1916-1917年(同47歳頃)、1930年(同61歳頃)に制作された。一番左、最も若い時期に制作された《背中 I》は最も写実的……リアルに表現されているが、右に進むにつれて……歳を重ねるごとに、表現が単純化されている。

それぞれ同時期に描かれた絵を見返してみると、なんとなくだが、マティスの中での、彫刻と絵画の関係や変遷が見えてくる。以下は、4つの《背中》と、制作時期が近い絵画作品を並べてみた(いずれも今回展示されていた作品)。

《アルジェリアの女性》1909年春・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《白とバラ色の頭部》1914年秋・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《オーギュスト・ペルラン II》1917年5月・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《座るバラ色の裸婦》1935年4月〜1936年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

さて、第三章の部屋には、ほかにも数点の彫刻作品が展示されている。マティスがひたすら絵だけを描き続けたのではなく、彫刻や、もしかすると唯一の趣味だったというバイオリンをも使って、新しいアイデアを模索していったことがうかがえた。

「私の線画は、私の感動の最も純粋な翻訳である」

第四章では「人物と室内」と題されて、1918年〜1929年の作品が展示されている(マティスが49〜60歳頃)。

※第四章〜第六章のあるフロアは、来館者による撮影が可能。

第四章「人物と室内」

油絵作品も並んでいるが、2枚の自画像を含む、木炭などで描かれたデッサンが多いのがうれしい。上白石さんの音声ガイドによれば、マティスは次のように言っていたそう。

「私の線画は、私の感動の最も純粋な翻訳である」

《アンドレ・ルヴェールの肖像》1912年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《扇を持つスペイン女性》1923年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《ピアノの前の若いヴァイオリン奏者》1924〜26年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《パイプをくわえた自画像》1919年・ブザンソン美術考古学博物館寄託
《自画像》1927年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

同じく第四章で目を惹くのが、1921年秋に描かれた《赤いキュロットのオダリスク》。マティスは1917年、48歳頃に南フランスのニースに引っ越します。以来、約10年をそこで過ごした。

本作もニースで描いた1枚。以降、マティスは「オダリスク」をテーマにした作品を何枚も描いた。

《赤いキュロットのオダリスク》1921年秋・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

同章のイントロダクションや解説文には「オダリスク」という言葉が複数回使われている。もしかすると美術界では「オダリスク」と言えば通じるのかもしれまないが、筆者には意味するところが掴み取れなかった。

「オダリスク」という言葉を調べてみると「オスマン帝国においてスルターンなどイスラームの君主のハレムで奉仕する女奴隷」とあり、「トルコ語では部屋を意味するオダリクと呼ばれる」そうだ。もちろんマティスが描いたのはトルコの奴隷ではなく、それをイメージした「東方のエキゾチックな衣装に身を包んだ」女性モデル。

次の作品《夢》は、アトリエの助手でもあったリディア・デレクトルスカヤを描いたもの。隣には同作品の制作前に描かれたと思われる習作も飾られている。

《夢》1935年5月・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

ただし、その習作を見ると、モデルの女性はマティスを見つめている。実際には、目覚めた後の女性を描いたのか、それとも上の作品を描くうちに、目覚める前の寝ている姿の方が自然で良いと、気持ちが変わったのか気になるところだ。

《夢》のための習作・1935年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

「色彩は、守らなければならない固有の美しさを持っている」

「ニースからヴァンスへ」と題された第六章は、1938年〜1948年、マティスが69歳頃〜79歳頃の作品が並ぶ。この時期はちょうど第二次大戦の戦前から戦後で、フランスのニースにいたマティスの生活も大変だっただろうと、予想できる。それでもこの時期の作品は、原色の赤や黄色など一気に明るい色が目立つようになる。巨匠が手掛けた芸術作品というより、もっと身近なポップカルチャーのような、洗練された印象を受け、より共感しやすい気がする。

《ラ・フランス》1939年・ひろしま美術館蔵

1947年、メティスが78歳頃に描いた《立っているヌード》も、赤や青、黄や緑など、少ない色だけで描かれている。

「私は最も単純な色彩を使います。わずかに7つの音符で組み立てられている音楽のように、数個の色彩で構成するのに何の障害もありません」

音声ガイドの上白石さんは、マティスの言葉を引用しつつ、「マティスが挑戦したのは、線ではなく、色でも自分の感動や感覚を表現することでした」と言います。

《立っているヌード》1947年・カトー=カンブレジ・マティス美術館寄託
《マグノリアのある静物》1941年12月・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

同展のパンフレットや図録の表紙にもなっている、代表作の一つ《赤の大きな室内》も、この時期に描かれた作品だ。絵の中に描かれた2枚の絵は、実際にマティスの部屋の中に飾られていたという。

《赤の大きな室内》1948年春・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館

再び音声ガイドによれば、マティスは、よく絵画を音楽に例えて話したという。次の言葉も、その一例だ。

「音楽で人が音色を保とうと努めるように、色彩は、守らなければならない固有の美しさを持っている。画家はこの色彩の美しい新鮮さを、失わないようにすることができないといけない」

《赤の大きな室内》も素晴らしかったのだが、筆者が気になったのは、その裏側に展開されていた、再びのデッサン。

ここで紹介されているのは、1943年に出版された『デッサン 主題と変奏』というアルバムに載せられた作品の原画。

同アルバムは、1枚の木炭画とそれに続く複数のデッサンで構成された、17組と158点のドローイングを収録。まず「主題」となる1枚を木炭で描き、2枚目以降はほとんどモデルを見ることなく、勢いよくペンやグラファイトで描いていく。そうして生まれるのが「変奏」だ。

『デッサン 主題と変奏』の作品が展示されている室内
『デッサン 主題と変奏』1943年・パリ、マルタン・ファビアーニ刊・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館、CCI/カンディンスキー図書館蔵
木炭で描かれた《眠る女性》1942年・ブザンソン美術考古学博物館寄託
クレヨンで描かれた《女性の顔(星柄のヴェール)L5》1942年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《自画像》1937年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
左《麦わら帽子をかぶった自画像》、右《アイリスの花》・いずれもポンピドゥー・センター/国立近代美術館

「それぞれの赤は赤のまま、それぞれの青は青のまま」

1941年、72歳頃のマティスは手術で一命をとりとめ、本人によれば「奇跡的生還」を遂げた。その後、切り紙絵による作品を多く残している。

第七章の入口

マティス は切り紙を次のように語っていたという。

「それぞれの赤は赤のまま、それぞれの青は青のままだ。ちょうどジャズのように。ジャズではそれぞれの演奏者が、担当するパートに自分の気分、自分の感受性を付け加える」

画文集「ジャズ」 は、切り紙絵の手法を初めて一般に公開した一冊。第七章の部屋には、そこに掲載された作品が展示されている。

第七章の部屋

マティスが77歳頃の1946年には、《オセアニア、空》と《オセアニア、海》という、切り紙絵を完成させている。もともと、マティスのアトリエの壁2面に展開されていたもの。そして切り紙絵は、次章で紹介されるように、建築空間へも展開されていくことになる。

左《オセアニア、空》、右《オセアニア、海》いずれも1946年・ジカ・アッシャーのプリントによる壁掛け、限定30部の第6番

筆と切り紙絵という、2つの表現手法を融合させたのが《オレンジのあるヌード》。同作は、筆と墨によるデッサンとして着想された後に、オレンジの切り紙絵が付け加えられた。

中央が《オレンジのあるヌード》1953年・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館。右《軽業師》1952年・墨・ポンピドゥー・センター/国立近代美術館。左《アンフォラを持つ女性》1953年・切り紙絵・ニース・マティス美術館寄託

目指したのは「気持ちそのものが軽くなるような場所」

「マティス展」の最後を飾るのは、1948年(マティスが79歳頃)からたずさわった、南フランス・ヴァンスのロザリオ礼拝堂。マティスは、建物の設計や装飾、什器、さらに祭服や典礼用品まで手掛けたという。

第八章の部屋

解説文によれば「デッサン、彫刻、切り紙絵を駆使しつつ、光、色、線が一堂に会する空間を創り出そうとした」という。またマティスは、「この礼拝堂は、訪れる人々の心が軽くなるものでなければいけない」といい「神を信じているかどうかに関わらず、精神が高まり、考えがはっきりし、気持ちそのものが軽くなるような場所」を目指した。

《告解室の扉》の実物大マケット・1950年・ニース・マティス美術館寄託

この第八章の部屋には、制作中のマティスの姿をとらえた写真が、多く展示されている。またロザリオ礼拝堂の現在の姿を、映像でも観られる。それらを観ていると、ロザリオ礼拝堂には彼が目指したものが、表現された場所だということが分かる。

上白石萌歌による音声ガイドがおすすめ

冒頭で記した通り、筆者は今回の「マティス展」を、女優の上白石萌歌さんによる音声ガイドを聞きながら観覧した。

上白石さんは、今春、明治学院大学文学部芸術学科を卒業した。在学中には、西洋美術の授業で、マティスに関連するレポートを書いたこともあり、好きな画家を尋ねられた時には「マティスです!」と即答するそうだ。そのため「マティス展」の音声ガイドの話が来た時には「こんな夢のようなことがあっていいのだろうかと震えました」と、コメントしている。

上白石さんは、マティスの絵の印象を次のように語る。

「マティスだけに描ける、艶やかで大胆な曲線、そして鮮烈な色彩。強くも柔らかい彼の絵は、いつもわたしを朗らかな気持ちにさせてくれます」

また、音声ガイドについては「いちファンとして嬉しさを噛み締めながら、足を運ぶみなさまの気持ちに寄り添えるよう、精一杯努めます」とコメント。

筆者はその音声ガイドを聞きながら展示を巡ったのだが、マティスやその作品を解説する上白石さんの声は優しく、作品を噛み締めながら観ていくのに、とても相性が良かった。内容は、各作品に付属する解説パネルよりも平易で、美術に詳しいわけでもない筆者でも、作品に対する理解を深めることができた。もし「マティス展」を観る際には、ぜひ音声ガイドの利用をおすすめしたい。

会場で借りられるガイド機

会場では、650円で借りられるガイド機が用意されている。ヘッドホンは、残念ながらチープな仕様。会場内を歩いていると、耳からズレてしまうこともたびたび。ガイド機をレンタルする場合は、できれば普段使っているヘッドホンやイヤホンを持っていき、利用すると良いだろう(2.5mm径のプラグアダプターが必要)。

よりおすすめなのは、スマートフォンアプリ「聴く美術」から、コンテンツを購入すること(アプリ内課金:800円)。展示会場ではもちろん、8月23日までは自宅でも聞いて、展示会を振り返られる。レンタルするガイド機とは異なり、上白石さんが語る「わたしとマティス」や、同展の担当学芸員との対談など、アプリ限定のスペシャルコンテンツも収録されている。