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新一万円札の顔「渋沢栄一」の“シン”の姿 「資本主義の父」と社会事業

井上潤氏は長らく渋沢史料館の館長を務めた。現在は顧問として、各地で渋沢の事績を伝える

今年7月、一万円札の顔が福沢諭吉から渋沢栄一へと変わります。新たに一万円札の肖像となる渋沢は、91年の生涯で約500社の企業を設立・育成し、それらの事績から、「資本主義の父」などと呼ばれています。

NHK大河ドラマ「青天を衝け」が2021年に放送されたのを機に、それまでの渋沢像とは異なる一面がクローズアップされることが増えてきました。渋沢は約600にも及ぶ非営利事業も手がけており、近年は渋沢を企業家としてだけではなく社会事業家との認識も強くなっているのです。

渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館・渋沢史料館(東京都北区西ケ原2-16-1)の前館長で、現在は顧問を務める井上潤氏に、これまでの渋沢像と新たな渋沢像ついて話を伺いました。

渋沢史料館外観

研究が少なかった血洗島村(深谷)の日々

――渋沢史料館の開館と井上前館長が学芸員として勤務した経緯からお伺いしたいと思います。

井上:渋沢史料館は1982年の11月に登録博物館として開館しました。私は1984年の4月から学芸員として勤務しています。着任当時は、正直言って博物館の体をなしているとは言えない状態でしたが、登録博物館としての必要条件である学芸員の採用はなされていたのです。

私は大学で近世を中心とした村落史、とりわけ村絵図等を用いて村落景観を復原する村落景観論や村人の日常生活における付き合い等からみる村落共同体論の研究をしていました。

もちろん渋沢栄一については知ってはいましたが、あくまでも基本的な知識のみで、近代史のプロパーでもない私が渋沢史料館の学芸員になるということはまったくの想定外でした。着任前に2日間だけ前任者との引き継ぎをしましたが、まったく右も左もわからない状態から渋沢史料館の学芸員生活が始まりました。渋沢の研究は、学芸員になってから始めたのです。

ただ、大学生のときに江戸時代の名望家の経営分析をしました。渋沢も幕末における地方の名望家の家に生まれています。大学時代の研究に重ね合わせて渋沢の原点も探ることができるのではないかと思いました。

――近世の村落を研究していたのに渋沢史料館の学芸員になり、長らく館長も務めました。渋沢に魅せられたのは、どういった経緯なのでしょうか?

井上:学芸員の採用面接のときに、初めて当館の展示を見ました。最初に目にしたのが、渋沢の生家で製造・販売していた染料となる藍玉の取引帳簿『藍玉通』でした。それを見て、近世からのつながりを直感し、私が学生時代に研究していた研究も活かせると思ったのです。ちなみに、学生時代に経営分析を行なっていたのは山形の名望家で、紅花を商品として扱っていました。

当時の渋沢を研究する多くの人は、実業家としての渋沢であったり、功なして世に出た後のことを語ることが中心でした。渋沢が生まれ育った血洗島村(現・深谷市)で過ごした日々は渋沢の人間形成において重要でしたが、それまではあまり研究対象になっていなかったのです。

渋沢の出身地・深谷にも、渋沢栄一記念館というミュージアムがある

自身のそれまでの研究を活かしての渋沢研究へのアプローチがここにあるのだと感じ、関心が高まったのです。また、扱う商品は紅花と藍玉で違いますが、学生時代に研究していた名望家は銀行の設立までしています。渋沢と共通する部分が多く、そうした点も渋沢に魅かれた理由のひとつでした。

――それでも渋沢史料館の学芸員は畑違いだと思います。苦労などはありましたか?

井上:研究領域の違いによる苦労は、さほど感じませんでした。反対に、プロパ―でないところを強みとし、新たな問題提起を試みたりもしました。

苦労という点では、働き始めた頃の渋沢史料館の運営母体である財団(現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)が財政面で厳しい状態でしたので、事業費もゼロ・ベースでした。

展示制作では、解説プレートはもちろんのこと、種々の展示パネルや演示具、さらには展示ケースまで自分で手づくりするしかありませんでした。「学芸員」ならぬ「雑芸員」と呼ばれることもありましたが、おかげで、雑芸をずいぶん身に着けられました(笑)。

当時の財団役職員、史料館館員は、渋沢が立ち上げた第一銀行の系譜を引く銀行出身者ばかりで、博物館専門職員は私一人だけでしたので、学芸業務についての相談相手がいなかったのは辛いところでした。

また、どう渋沢史料館を運営していくのかといった運営方針も定まっていませんでしたので、その方向性も模索しました。個人を伝える博物館は、その個人のコレクションを見せる美術館的志向の館が多くありましたが、渋沢史料館の所蔵資料からして、単なる博物館ではなく、文書館、専門図書館を融合させた新たな博物館像を目指すこととし、少しずつ形にしていくことにしたのです。

渋沢史料館に展示されている渋沢栄一の胸像

渋沢栄一は「資本主義」という言葉をほぼ使っていない

――少しずつ史料館として形を整えていく中、多岐にわたる渋沢の事績を展示するのは困難に感じます。渋沢は500の企業、600の非営利事業に取り組みましたが、展示構成はどのように工夫されたのでしょうか?

井上:私は2012年に山川出版社から『《日本史リブレット人》085 渋沢栄一』という書籍を出しています。その書籍では、渋沢を“近代日本社会の創造者”と表現し、サブタイトルとしました。

一般的に渋沢は「資本主義の父」と称されますが、その言葉を使いたくなかったのです。なぜなら、渋沢自身が「資本主義」という言葉をほとんど使っていないからで、使う場合には好意的に使っていません。

渋沢は「資本主義」ではなく、理想として「合本主義」を目指していました。「資本主義」は個人の利益を第一に考えるのに対して、「合本主義」はみんなが豊かになることを意識した考え方です。「合本主義」を簡単に表現すると、「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方」となります。

渋沢は「資本主義」を完全に否定していたわけではありませんが、渋沢を形容する言葉として「資本主義の父」という言葉を用いることは適切ではないだろうと考えました。そういった考えに基づいて、“近代日本社会の創造者”と表現したのです。

渋沢史料館の展示構成についても同様です。渋沢は実業家として銀行をはじめ多くの営利企業に関わっています。そうした企業家としての面も大事ですが、それ以上に福祉・教育・医療といった非営利事業にも取り組んだ近代日本社会を創造した人物の事績と思想を正しく伝える展示に力を入れています。それが渋沢史料館の使命だと考えており、それは私が当館の学芸員になって以降、一貫しています。

NHK「青天を衝け」の時代考証でこだわったこと

――渋沢を主人公にしたNHK大河ドラマ「青天を衝け」(2020~2021年度放送)では時代考証を務められました。「青天を衝け」でも、吉沢亮さんが演じる渋沢は「資本主義」と口にしていません。時代考証を務めるにあたって、そのあたりは意識されたのでしょうか?

井上:私は時代考証を担い、2年半にわたって「青天を衝け」に関わりました。ドラマは、渋沢の人間形成の部分、つまり血洗島での生活といった原点から入ることにこだわり、前半生に力点を置くという方針のもとストーリー構成が仕上がりました。

それは、単に渋沢が成功者だったという面だけを描くのではなく、こういう環境で育ってきたからこそ、こういった考え方になり、だからこそ多くの事績を残すことができたという流れを見てもらいたかったからです。

また、渋沢は決して新しいものだけを創ったわけではなく、古いものもきちんと残そうとし、“温故知新”という言葉も非常に大事にしていました。この渋沢の考えは、渋沢の事績を理解するためにも重要です。渋沢の人としての歩みを描写する上で、人間形成の時期、つまり渋沢の原点をしっかり押さえなければならないという考えが貫かれていたのです。

大河ドラマ「青天を衝け」放送時、王子駅には渋沢との強い関係を示す装飾がなされた

――「青天を衝け」の放送前と放送後で、世間の渋沢像が変わったと感じるところはありますか?

井上:「青天を衝け」により、渋沢の知名度は格段に上がったことを実感しています。放送以前から、私は全国各地で渋沢の講演をしてきました。訪問した土地・土地において、永く受け継がれてきた史料を会場に持参されたり、その情報を伝えてくださる方がいたのですが、その数が増えてきました。

例えば、群馬県桐生市の事例になりますが、地元で長く保管されてきた史料が新一万円札の肖像決定を機に公表されました。ニュースで紹介するにあたりコメントがほしいとのことでNHK前橋局から連絡が入り、現地へ赴き、実物を確認した上でコメントしたことがありました。

桐生市は繊維産業が盛んな都市で、技術者を養成する専門学校が必要でした。その工業教育のために地元の名望家たちが集まり、学校設立の許認可申請を渋沢に相談します。相談された渋沢は、首相や文部(現・文部科学)大臣に交渉しているのです。その経緯を詳細に記した書簡でした。その内容を伝え、「これは一級の史料」とコメントしたのです。

家の蔵などに埋もれていた渋沢関係の文書・書画などがたくさんあっても、これまでだったら「青淵(せいえん)」(渋沢栄一の雅号)の署名を見て「あおぶちって誰?」といった具合に、価値のないモノと判断されて捨てられてしまっていたかもしれません。それが「青天を衝け」の放送以降は変わったのです。まだまだ、渋沢の足跡が各地には眠っているかもしれません。

まだ語られていない渋沢栄一の“シン”の姿

――今年7月から、一万円札の顔が渋沢栄一になります。

井上:これまでにも渋沢は何度も紙幣の肖像候補になっていたと思われます。例えば、1963年に発行された千円札のときです。このときの千円札は最終候補まで残りましたが、伊藤博文に決まっています。その頃の紙幣は、まだ政治家を肖像にする風潮が強くありました。

これまで渋沢は、世間から資本主義の父という位置づけで見られてきました。渋沢が実業家として経済面でしか評価されてこなかった時代は、紙幣の肖像になりきれなかったのではと思われます。

時代が変わり、渋沢の非営利事業が理解されるようになりつつあります。それが最高額一万円札の肖像に決まった要因ではないかと考えています。

ちなみに、2023年12月に津田塾大学創立120周年記念事業として開催された新札発行記念シンポジウムでは、私と津田塾大学学長の髙橋裕子氏と北里大学学長の島袋香子氏の3人でパネルディスカッションをしています。

五千円札の津田梅子、千円札の北里柴三郎ともに歴史に名前を残す偉大な人物ですが、どちらも渋沢が事業を支援しています。ある雑誌の企画で鼎談することもありましたが、津田・北里の両関係者からは、「特定の分野で大きな事績を残したというのではなく、世の中全体をうまくオーガナイズした人物だからこそ最高額の一万円札の肖像は、やっぱり渋沢が相応しい」と言われました。

渋沢史料館の最寄駅でもあるJR王子駅には、渋沢が肖像になる新一万円札発行までをカウントダウンするボードが設置されている

――先ほども話に出ましたが、渋沢は91歳で没しています。後半生は非営利事業を多く手がけ、その事業は多岐にわたります。それら多数の事績は研究のしがいがある一方で、捉えづらい面もあるかと思います。

井上:多くの人から質問されるのですが、「渋沢栄一とは、一言で言うとどんな人物ですか?」という質問が一番回答しづらいです(笑)。

渋沢は一言で語れる人物ではありません。いろいろと説明しても、それをなかなか理解してもらえません。ただ、「青天を衝け」が放送された後は、銀行や証券といった金融関係のほかにも、たくさんの事業を手がけた人物という捉えられ方に少しずつ変わりました。それは、大河ドラマの大きな成果だったと思います。

渋沢を演じた吉沢亮さん、妻の千代を演じた橋本愛さん、徳川慶喜を演じた草彅剛さんといったキャストの影響も大きかったと思いますが、「青天を衝け」を視聴した年齢層は通常の大河ドラマと比べて低くなり、10代から20代が多かったとNHKから聞いています。

また、「青天を衝け」が放映された年に大手銀行が主催したキッズマネーアカデミーで、渋沢の話をする講師を担当しましたが、例年は応募者が800人前後のところ、その年は約2,000人の応募者が集まったそうです。

参加した小学生の申込み動機として、「『青天を衝け』を見て」というのが多くあったようです。小学生ですから「渋沢はかっこいい」という感想も多かったのですが、将来は渋沢のような人になりたいといった具合に、自分に重ね合わせて「青天を衝け」を見てくれていたことには驚かされました。

東京駅の近くには、渋沢栄一の像が立つ常盤橋公園(右)があり、大河ドラマ放送時は渋沢を演じた吉沢亮さん(左)とのコラボが実現

――「青天を衝け」で渋沢の功績、特に非営利事業が注目されるようになりましたが、まだ語られていない事績があると思います。この事績を伝えたいという部分はありますか?

井上:渋沢の事績は多岐にわたりますが、そもそも「青天を衝け」が放送されるまでは多くの人に名前すらあまり知られていませんでした。放送後は知名度が上がっただけではなく、渋沢ファンの裾野も広がりました。

ただ、渋沢が取り組んだ営利事業と非営利事業の掛け合わせの妙が、まだ伝わっていないように感じます。それを理解することで、渋沢の事績がはっきりと見えてくるはずです。「やりました」という結果だけを見るのではなく、渋沢はその事業をどんな思いから始めたのか? その出発点をきちんと伝えていかないと、本当の意味で渋沢を理解したことにはならないと思っています。

渋沢を理解するために、私は「シン・シブサワ」を目指したいと提唱しています。このシンは新しく発見された・知られたという意味を含んでいますが、真の姿という意味もあります。

現在は18年間務めた渋沢史料館の館長を退任して、顧問という立場です。さらに、これからも講演やワークショップといった館外活動で「新の渋沢」と「真の渋沢」を伝えていきたいと思っています。まだ語られていない渋沢は、たくさんあると思います。例えば、渋沢が取り組んだ教育といえば、商業教育と女子教育が有名です。しかし、渋沢が取り組んだ教育分野はそれだけではありません。

人間形成の部分で大事になる小学校、つまり初等教育にも力を入れていましたし、工手学校(現・工学院大学)や東京職工学校(現・東京工業大学)といった工業教育にも熱心でした。

教育分野以外では、渋沢は国際平和についても奔走をしています。これまでにも渋沢の実践した国際平和について語られることはありました。昨今はロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナなど世界各地で紛争が起きていることを考えると、渋沢が実践した民間外交による国際平和の重要性が高まっていると感じます。

それから、昨年は関東大震災から100年の節目にあたりました。2024年も1月1日から能登半島で大きな地震が起きていますし、地震だけではなく毎年のように大規模な災害が起こっています。災害において、当然ながら官の力は重要ですが、民間の力の結集の大切さを伝えたのが渋沢でした。

関東大震災が発生した時は、飛鳥山の邸宅地を避難所として罹災者に開放しました。また、民間から寄付金を集め、被災者の生活を再建する団体も立ち上げています。渋沢は民間の力も災害対応・被災者救助には必要だと考えていたのです。

渋沢は「物質の復興の根本に人心の復興あり」と説きました。街を再建するなど目に見える物質面だけでは本当の震災復興とは言えません。人心の復興を果たしてこそ、真の復興につながるんです。そのためにも渋沢は、仁義道徳による行動を提唱していたのでした。

最後に、渋沢が主張した「道徳経済合一説」やそれを基とした「合本主義」は、現在そして将来の社会において持続可能な発展を目指す上で欠かすことのできない考えだと思います。これは渋沢自身も完全に実現することは難しいと認識していたようです。

渋沢の理想は簡単に実現できません。しかし、それを実現できないからと言って目指すことを諦めては新しい社会を創造できません。渋沢同様、いつの日か実現する日を期したいと思います。

井上潤(いのうえ・じゅん)

1959年、大阪府生まれ。1984年、明治大学文学部史学地理学科日本史専攻卒業。渋沢史料館学芸員を経て、2004年より館長に就任。現在は顧問。著書に『渋沢栄一 近代日本社会の創造者』(山川出版社)、『渋沢栄一伝 道理に欠けず、正義に外れず』(ミネルヴァ書房)など多数。

小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。