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南極地域観測隊で初の女性隊長が誕生 なぜ南極を目指すのか?

南極観測のベースになる昭和基地(画像:本人提供)

毎年、日本は約80名前後の隊員を南極へ派遣しています。日本が初めて公式に南極へ隊員を派遣したのは1957年のことでした。途中で数年の中断がありましたが、それでも半世紀以上にわたり日本から南極への隊員派遣は続いています。

2024年度に派遣される第66次南極地域観測隊では、原田尚美さんが隊長を務めます。東京大学大気海洋研究所国際・地域連携研究センターで教授を務める原田さんは、観測隊初の女性隊長に抜擢されました。これまで原田さんは南極に2度、さらに赤道や北極にも足を運んでいます。

今回、3度目の南極を目指す原田さんに、なぜ南極へ行くのか? そして南極の生活やどういった研究をしているのか? といった話を聞きました。

南極観測の意義について熱弁する東京大学大気海洋研究所国際・地域連携研究センター教授の原田尚美さん

研究対象は赤道海域ながら、南極に行きたいと直談判

――第66次隊で隊長を務めることになりました。これまで2度も南極に行かれています。その話からお伺いしたいと思います。

原田:私が始めて南極へ行ったのは1991年で、名古屋大学大学院の博士課程のときですが、南極以外を含めると初めて船に乗って調査に出かけたのは修士課程のときでした。

修士課程の修了後、私は企業に就職することが決まっていました。それでも東京大学の白鳳丸に乗船して、赤道の海洋観測に参加したのです。初航海でも船に酔うことがなく、私は船に向いていると思いました。くわえて、「研究航海中に採取したサンプルを自分の手で研究してみたい」という思いが込み上げてきたのです。

それを指導教官に話したら、「それなら博士課程に進学するしかない」という話になりました。こうして内定を断り、博士課程へ進学することになりました。

博士課程に進んで研究に取り組んでいるとき、指導教官のもとに「観測隊のメンバーが足りないから、誰か出してくれないか」というオファーが届きます。

急にオファーが来た理由は、そのときに派遣を予定していた隊員が健康診断でひっかかってしまったからです。観測隊は半年から一年数カ月間、南極で生活をします。南極には日本のような大きな病院はありません。ですから、観測隊の健康判定は厳しいんです。

こうして半年遅れで代わりの隊員を探さなければならないという事情があり、とにかく時間をかけて新たな隊員を選んでいる猶予はありません。だから、観測隊の選考を担当する国立極地研究所は新しい隊員を一本釣りしようと考え、私の指導教官に声をかけたようです。

ところが、指導教官は男子学生ばかりに「南極へ行かないか?」と声をかけていました。声をかけられた男子学生は、全員が南極へ行くことを拒みました。

私は最後まで指導教官から「南極に行ってみる?」と誘われませんでしたが、このチャンスを逃したら南極に行く機会は永遠に来ない。何が何でも行きたいと思い、指導教官に直談判したのです。

――指導教官が声をかけなかった理由は何だったのでしょうか?

原田:指導教官が私に声をかけなかった理由の1つは、私の研究対象が赤道海域だったからです。修士時代に太平洋赤道へ行き、サンプルを採取してきました。その航海を経験して内定を断っていますから、赤道で採取したサンプルで博士論文を完成させなければなりません。

南極と赤道では、まったく研究対象が異なります。こうした理由から、指導教官は「まず、赤道の研究」と考え、私に声をかけなかったのです。

また、観測隊に参加して南極へ行けば大学院を休学することになります。博士論文だけではなく、そのほかの調査・研究もできなくなり、レポートは提出できなくなります。指導教官は、そうした心配もしていました。

私は博士課程に進んでから、教官や先輩たちの研究航海を手伝う機会が多くありました。それらの研究航海では、私も博士論文のテーマと異なる研究分野もありました。それでも私はとにかく多くのフィールド調査に参加することに魅力を感じていましたし、何でもトライして経験値を積むことを第一にしていたので、指導教官や先輩たちの研究を手伝うことは楽しく、苦痛を感じたことはありませんでした。

そうした自分の専門分野外の研究も楽しく取り組めるという経験から、どうしても私は南極へ行きたい、多くの経験を積みたいと考えていました。南極へ行くために、指導教官に「博士論文もちゃんと取り組みます。南極でサンプルを採取して、論文も書きます」という約束を交わして何とか説得しました。

そこまで強い決心を見せたことで、指導教官も承諾してくれました。それで、ようやく南極へ行くことが決まったのです。こうして、1991年に初めて南極へ行きました。

――赤道を研究していたのに、どうして南極に興味を抱いたのでしょうか?

原田:実は、大学4年生の頃から南極には行ってみたいと思っていました。大学の指導教官と大学院の指導教官は別の方なんですが、大学時代の指導教官は南極の経験がありました。その大学時代の指導教官から「南極はとても魅力的なフィールドである」という話を何回も聞いていました。

繰り返し南極の話を聞いているうちに、私もいつか南極へ行ってみたいと思うようになったのです。ただ、大学院へ進学しても南極へ行くチャンスがすぐに巡ってくるわけではありません。あくまでも、いつか行きたいといった漠然とした思いでした。

――赤道と南極は素人でも海洋環境が違うことがわかります。どちらの研究も両立させることは、とてもハードなことではないかと想像できます。

原田:赤道と南極では、まったく違う研究対象ですので、赤道と南極どちらにも精神的にも身体的にもエネルギーを割かなくてはなりませんでした。博士論文は赤道域をテーマに書きましたが、博士論文とはまったく関連性がない南極に関しても論文を書きました。かなりハードでしたが、成果を出せたので学位を取得することができました。

やっぱり南極は研究の対象として面白い

――初めて南極へ行かれてから30年以上が経過されています。技術が大幅に進化していますので、現在と当時では南極生活も大きく異なっていると思いますが、南極へ行って生活で苦労した点などはありますか?

原田:私が南極へ行く以前にも女性隊員が1名南極へ行っていましたが、当時の南極は女性が行くことが想定されていた場所ではありません。観測基地のトイレにしても、お風呂にしても女性専用はありません。トイレは男女共用でしたが、個室にはなっていますので特段に苦労を感じませんでした。

お風呂は時間制で、男性隊員より先に入浴をさせてもらうことができました。先に入浴させてもらえることはありがたかったのですが、女性は19時までに入浴を済ませなければならなければなりませんでした。そうした決まりになったのは、その後に男性隊員の入浴時間があるからです。

ところが南極は白夜ですので、22時ぐらいまで作業があります。そうなると、私はお風呂の後に再び基地の外に出て作業をしなければなりません。せっかく入浴で身体が温まったのに、その後に再び屋外で作業するので身体は冷えてしまいます。

男性隊員は1日の作業がすべて終わった後に入浴するので、お風呂は楽しみのひとつになっていました。しかし、私はお風呂を楽しむ余裕はありませんでした。入浴後に再び作業をこなして、冷え切った体で就寝しなければなりませんでした。今から振り返ると、これは辛い経験だったかなと思います。

――2018年に2度目の南極を経験しています。

原田:2018年に南極へ行ったときは、トイレも男女別々になり、ウォシュレットも付いていました。南極でも日本と変わらない生活環境が整えられていたのです。だから、私の感覚では苦労をしたとか大変だったという思いはありません。

ただ、南極は水が貴重な資源です。水の無駄遣いはできませんので、常に節水は心がけなければなりません。お湯はもっと貴重な資源になりますが、それでも初めて南極へ行った1991年のときから入浴は毎日できました。

そして2018年の2回目の南極観測では、副隊長として行っています。当時、私は北極を研究テーマにしていたので、せっかく南極へ行ったのに研究テーマを持っていくことができませんでした。そのため、副隊長というマネジメント役に徹することになりました。

しかし、いざ南極に行ってみると「やっぱり南極は研究の対象として面白い」と感じたのです。2回目の南極から帰ってきた直後から、3回目の南極へ行くチャンスがあるなら、ちゃんと準備をして、自分の研究もできるようにしたいと思っていました。

船上での記念撮影(画像:本人提供)

南極と北極のどちらも経験しているからこそわかる違い

――2024年12月に出発する第66次隊で3度目の南極になります。

原田:第66次隊に選ばれて3回も南極へ行けることは幸運です。是非、研究をしたいと考えています。というのも、今の地球が直面している最大の環境問題は温暖化です。その温暖化を考えるうえで、海洋が注目される機会が増えています。

地球表面の7割は海です。温暖化の鍵を握る炭素循環という意味でも、大気中に存在するCO2を地中や海底に吸収するシンクエリアという観点でも、海洋は重要になってきているのです。また、海洋へ迫り出している氷床を温かい水温の海水が下から溶かすということも起き始めています。将来、極域の大陸上の氷床が溶けると海水面が上昇するなど、都市圏の私たちも危機に直面します。そういった意味でも極域の海洋域が注目されているのです。

これまでの南極観測は大陸、つまり陸地の研究・観測が主流になっていました。ところが、ここ数年間で海に重点を置いた計画も立てられています。私が3度目の南極へ行く今年度と来年度は海洋観測イヤーと言ってもいいぐらい、海洋を中心とした研究観測が重点テーマになります。

私は古海洋学を専門に研究していますので、そうした流れから「3度目の南極、どうですか?」と声をかけてもらったのだと思います。

洋上で黙々とサンプリングの作業をする様子(画像:本人提供)

――先ほど、北極を研究テーマにしていたとのお話が出ました。北極は、いつ頃に行ったのでしょうか?

原田:初めて北極海へ観測に行ったのは2012年です。当時、私は海洋研究開発機構(JAMSTEC)で研究員をしていました。JAMSTECは1990年代後半から船を使って北極の観測研究をしています。

当初、私は北太平洋亜寒帯の海域を主な研究対象域としていました。しかし、これから極域の研究が重要になると考え、極域の研究をしたいと思ったのです。そこで、2010年に北極をテーマにして科学研究費補助金を申請しました。

以来、科研費を使って北極海の研究メンバーに加わり、そして2012年に研究調査で北極へ行ったのです。

――北極はどのぐらい滞在されていたのでしょうか?

原田:北極海の観測期間は約1.5カ月と短い滞在でした。それに対して、南極観測は期間が約5カ月の夏隊と1年5カ月の越冬隊に分けられます。

北極海までのルートは、日本から船で出発してベーリング海を通って北極海へ到達します。ロシアのウクライナ侵攻後も、特にこのルートに変更はありません。なぜなら、日本が研究対象にしている海域はアメリカやカナダの経済水域内になりますので問題は起きていないのです。

北極に到着しても、南極のように大陸はありませんので船で生活をしながら海洋観測・サンプリングをします。北極海と聞くと、特別な印象を抱くかもしれません。実際は、ほかの海域同様に通常の海洋観測と同じ位置付けです。

――赤道へ行ったり、南極へ行ったり、はたまた北極へ行ったりと行動力が凄いですね。

原田:海洋分野を研究していると、外洋に出る感覚は北極でも南極でもそんなに違いを感じません。ちょっと遠いなと思うぐらいです。

北極海はずっと船で生活をしているので、陸地に降りる感覚はなく、北極まで来たという感覚は乏しいです。

時折、船上から海氷がプカプカ浮いているのを見たときに「北極まで来たんだなぁ」と感じるぐらいです。それがなかったら、北極を実感するような機会はあまりなく、日本周辺の海と様子は変わらないです(笑)。

北極海は年々、海氷も少なくなってきていますし、シロクマを見かけないことも増えています。ますます北極という感覚が薄れることになるかもしれません。

――南極と北極、どちらも経験していますが、経験者だからこそ感じる違いはありますか?

原田:現地に到達するまでに超えていく海域は、南極の方が圧倒的に荒いです。南極環流は流速も速く、風を遮る陸地もあまりないので強い風や高い波が発生する暴風圏です。また、気温も圧倒的に南極の方が寒いです。

なにより南極は到達するまでが、とにかく壮絶です。氷に耐性のない普通の船では、昭和基地までたどりつくことはできません。

私が初めて南極へ行った頃は、晴海埠頭から観測船「しらせ」に乗り込み、出航していました。ドラマなどでよく見る、埠頭に見送りに来た人たちが紙テープを投げるような光景そのままです。

現在、隊員はオーストラリアまで飛行機で移動し、そこから観測船に乗船しています。日本からオーストラリアまでの船の航行は、海上自衛隊の方々が担当しています。

2009年に就役した南極観測船の2代目「しらせ」(画像:本人提供)
昭和基地に接岸する「しらせ」(画像:本人提供)

日本が南極観測に取り組む理由

――ここまで話を聞いてきて、南極観測はとても大変な作業の連続です。また、莫大な資金も必要なことが窺えます。そんな大変な苦労をしてまで、なぜ日本は観測隊を派遣しているのでしょうか?

原田:日本政府が、第1次隊を南極へ派遣したのは1956年です。翌1957年から1958年は国際地球観測年でした。そうした南極観測の歴史を振り返ると、日本は早くから南極観測を始めていた国のひとつと言えます。

どうして、日本がそんなに早い時期から南極観測を始めようと考えたのか? それは日本が第2次世界大戦で敗戦し、その後に国際舞台で活躍できなくなったことが大きく影響しているのではないかと思います。

政府は国際舞台に早く復帰したいと考え、1956年に国際連合に加盟しました。そして、同時期に国際貢献の1つの取り組みとして南極観測にも参加したいと申請したのです。自民党議員たちも「これから日本が発展していく上で、世界への貢献、国際舞台での活躍は欠かせない」という考えだったようです。

こうして日本は観測隊を派遣しました。当時の先進国と肩を並べて南極観測に取り組むことになり、当時は国民からの南極観測への期待は大きく、関心も強かったようです。そのため、多額の寄付金が集まりました。

ところが1961年に出発した第6次観測隊が翌年に帰還すると、南極観測は中断を余儀なくされます。1967年には再開し、今年度に私が派遣されるのが第66次隊です。日本の南極観測は約70年の歴史があるわけです。

国際地球観測年の翌年、南極条約が締結されました。南極条約の原署名国は12カ国ですが、そのひとつが日本です。南極条約国協議国会議は現在29カ国が参加し、原署名国である日本は同会議において大きなプレゼンスを有しています。

――いったん中断した南極観測を再開したのは、なぜでしょうか?

原田:日本が科学技術で世界各国をリードしていくためには、どうしても南極観測を再開させなければならないという使命感を燃やしていた研究者が多くいたからだと思います。

しかし、南極観測を再開・継続するには、政府に予算を組んでもらわなければなりません。政府に予算を組んでもらうには、国会議員にも南極観測の意義を理解してもらう必要がありました。

国立極地研究所の村山雅美元南極観測隊長は南極観測の意義を理解してもらおうと奔走し、故・中曽根康弘衆議院議員(当時)を南極へと連れて行っています。当時の中曽根議員は、若手ながらも自民党の実力者でした。中曽根議員は科学技術庁長官の経験もあり、現地で南極観測の意義を説けば理解を示してくれるだろうという読みがあったようです。

このことが奏功し、再び南極観測の予算がつけられることになりました。こうして、日本は南極観測を再開させることができたのです。

――再開前と再開後で、南極観測の違いはあるのでしょうか?

原田:日本が南極観測に参加した当初は、敗戦国から立ち上がり先進国と科学技術で肩を並べることが目標になっていました。日本は高度経済成長を遂げて先進国の仲間入りをしています。

再開前と再開後の違いというよりも、そうした国際社会での立ち位置が以前とは異なっていることを感じます。国の立ち位置が変わったことで、南極研究に対するスタンスも変わり、今の日本は自国の利益だけを考えるという近視眼的な捉え方ではなく、先進国として科学技術で世界に貢献するという使命感が強くなっています。

世界に科学で貢献できるのは、技術力と資金力を持っている国だけです。そうした国は、世界にも数えるぐらいしかなく、日本はそのうちのひとつです。

また、日本の南極研究の内容も少しずつ多様化しています。以前はオーロラとかペンギン、岩石、植物といった大陸上の研究が中心でした。

今は、南極周辺の海洋環境の理解といった気候変動に直結するような研究テーマ、地球規模で考えるテーマが増えています。地球環境の重要拠点になっている極域の観測を継続し、温暖化との関係性や海洋生態系の変化などを明らかにしていくことは、地球環境の将来を予測するといった世界共通の地球規模課題に貢献する重要な学術研究であり、持続可能な発展にも寄与する意義のあることだと思っています。

小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。